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エピソード

110_03

天下分目の関ヶ原の戦い(徳川徳川家康 VS 石田石田三成)
 1598(慶長3)年8月5日、豊臣秀吉は、徳川家康前田利家伏見城に招き、嫡子豊臣秀頼のことをくれぐれも哀願しました。
 8月18日、太閤の豊臣秀吉が亡くなりました。時に63歳でした。
 1599(慶長4)年3月3日、豊臣秀吉がもっとも信頼していた前田利家が病死しました。時に豊臣秀吉と同じ、63歳でした。
 豊臣秀吉亡き後、豊臣家は、淀君(父は浅井長政、母はお市の方)と豊臣秀頼を後継者として、五大老五奉行三中老が政務を担当しました。
 五大老とは徳川家康、前田利家、毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝です。五奉行とは浅野長政増田長盛石田三成長束正家前田玄以です。五大老と五奉行で決着がつかない時は、三中老の生駒親正中村一氏堀尾吉晴が参加して決済する体制です。
 3月、池田輝政福島正則細川忠興浅野幸長(父は五奉行の浅野長政)・黒田長政加藤清正加藤嘉明武断派の諸侯は「淀君をたてて専横の多い石田三成を謀殺する」と、徳川家康に相談を持ちかけました。
 数日後に、今度は、石田三成が伏見の徳川家康を訪れました。そこで、徳川家康は、石田三成に対して、「奉行職を辞して、近江の佐和山城に移ること」を助言しました。この徳川家康の処置に不満を持ったのは、上杉景勝でした。
 1600(慶長5)3月、上杉景勝と石田三成が、徳川家康に対し不穏な動きをしているという情報が徳川家康に達しました。そこで、徳川家康は、その真偽を確かめるため、使者を会津の上杉景勝の元へ派遣しました。
 6月12日、使者は、大坂城の徳川家康に、「上杉景勝は、石田三成と結んで、武断派と対決する覚悟である」という報告をしました。
 6月16日、伏見城に帰った徳川家康は、軍議を開いて、「上杉征伐」を決定し、諸大名に会津攻めを命じました。その数は、5万5800の兵にも上りました。
 7月2日、徳川家康は15日間もかけて、やっと江戸城に着きました。石田三成を挑発する狙いです。
 7月12日、挑発の乗った石田三成は、佐和山城で、軍議を開きました。「上杉景勝と組んで、徳川家康軍を挟撃する」ということを決定しました。参加者は、大谷吉継(越前敦賀城主)・増田長盛(大和郡山城主)・安国寺恵瓊らです。この席上、大谷吉継は、石田三成に「おぬしでは首将はつとまるまい」と言いました。武断派の武将にとっては、戦争を体験していない文治派の石田三成は耐えられない存在でした。そこで、安国寺恵瓊は、毛利輝元(120万石)案を出し、前田玄以・長束正家らが連署して毛利輝元に総帥を要請しました。
 7月16日、この要請を受けた毛利輝元は、大坂城に入りました。
 7月17日、毛利輝元を加えた石田三成らは、徳川家康に対して、「太閤様の御置目を背かれ、秀頼様を見捨て…」と断じ、諸大名に徳川家康への戦いを呼びかけました。応じた諸将・兵は10万人に上りました。
 7月17日、石田三成は、徳川家康方の武将の妻女を大坂城に人質にしようとしました。しかし、丹後宮津城主細川忠興夫人ガラシアは、大阪城入りを拒否しました。石田三成方が屋敷を包囲すると、ガラシア夫人は、屋敷に火をかけて自害しました。
 7月19日、徳川秀忠率いる軍が江戸城を出発しました。
 7月21日、徳川家康が江戸城を出発しました。
 7月21日、石田三成から、真田昌幸陣営に密書が来ました。石田三成の妻は宇田頼忠の娘で、真田昌幸の妻も宇田頼忠の娘です。又、真田幸村の妻は大谷吉継の娘です。それに対し真田信之の妻は、徳川家康の重臣本多忠勝の娘です。真田昌幸・真田幸村は西軍について上田城に行き、真田信之は東軍に残り、徳川秀忠軍に合流しました。
 7月24日、徳川秀忠軍は、宇都宮城に入りました。徳川家康は、下野の小山で、評定しました。この時、徳川家康にとって最大の問題は、豊臣系武将たちの動向でした。しかし、黒田長政による説得で、豊臣秀吉の恩顧を最も受けていた福島正則が徳川家康への忠誠を誓いました。その結果、その他の武将も徳川家康方について戦うことを誓いました。
 7月26日、徳川家康方の前田利長(父は前田利家)が率いる軍2万5000の兵が、金沢の尾山城を出発しました。
 8月1日、石田三成は、鳥井元忠が守る伏見城を2万人の兵で攻略しました。
 8月3日、前田利長軍は、小早川秀秋の武将山口宗永の守る大聖寺城を攻略しました。しかし、「大谷吉継が留守の金沢城を攻める」との情報で、前田利長は、金沢に引き上げました。大谷吉継の偽情報に踊らされた前田利長は、関ヶ原の戦いに遅参しました。
 8月11日、石田三成は、6000の兵を率い、大垣城入りました。
 8月23日、徳川家康は、清洲城にいる豊臣系武将に使者を送り、「おのおのの手出し無く候ゆえおん出馬なく候」(あなた方が出陣しないので、私の出番がない)と挑発しました。
 そこで、福島正則・池田輝政らは、石田三成方の武将織田秀信の守る岐阜城を攻めました。福島正則は尾越渡から岐阜城大手口へ行き、池田輝政は河田渡から搦手口行き、狼煙を合図に攻め入る約束でした。
 しかし、池田輝政の家臣の伊木清兵衛は、長良川の深浅に通じていたので、伊木清兵衛を先導役にして、狼煙を待たずに瀬に入って行きました。それを知った池田輝政勢の諸将は、先を争って長良川を渡河をしました。一方、福島正則勢は、予定していた尾越渡付近の防御が堅固だったたので、さらに下流の加賀野井城対岸まで南下して、合図を待っていました。しかし、狼煙が上がる前に、上流から銃撃音が聞こえてきたので、福島正則は「池田輝政は、約束を違えた」と逆上し、池田輝政に負けじと渡河しました。池田輝政・福島正則軍の活躍で、岐阜城を攻略しました。
 8月23日、岐阜城を攻略した福島正則と池田輝政軍は、長良川を渡河して、中山道の赤坂(大垣市)で、大垣城の石田三成らと対峙しました。
 8月24日、徳川秀忠は、榊原康政本多忠政大久保忠隣大久保忠常酒井家次小笠原忠政ら76万の兵を率いて、宇都宮から、中山道を先発しました。
 8月27日、徳川家康は、清洲城や赤坂にいる武将達に対し、徳川秀忠は中山道を、自分は東海道を西上するので、「我ら父子を御待ち、尤もに候」と連絡しました。自分が行く前に、彼らが石田三成を撃破する可能性を心配したのです。
 8月28日、徳川秀忠軍は、上州松井田(安中市)まで進みました。
 9月1日、徳川家康は、江戸城を出発しました。出発時間がかかったのは、上杉景勝と常陸の佐竹義宣伊達政宗の動向を把握するためでした。上杉景勝らに備えて、結城秀康ら59万人を当てました。
 9月2日、徳川秀忠軍は、中山道からはずれ、軽井沢から小諸に進軍しました。徳川秀忠は、真田信之を使って、上田城の無血開城を説得させました。しかし、真田昌幸は時間稼ぎのため、その説得に応じる素振り(剃髪)を見せるかと思うと、次に日は態度を一変させました。
 9月3日、徳川家康は、小田原に進みました。この時、小早川秀秋の使者が、徳川家康に、「秀秋は、徳川家康殿に心を寄せている」と伝えました。しかし、徳川家康は、体験から、使者を冷たく追い返しました。これが吉と出るか凶と出るか。
 9月5日、徳川秀忠は、やっと、3000の兵が守る上田城攻め始めました。
 9月6日、徳川秀忠は、兵糧攻めにするため、青田刈りをしました。それを見た真田昌幸の兵が城から出て来ます。それを徳川秀忠の兵が追いかけます。真田昌幸は、城近くまでおびき寄せては、鉄砲で撃ちます。徳川秀忠軍は、真田昌幸・真田幸村らに翻弄され、大損害を受けました。徳川秀忠の「行きがけの駄賃」という安易な考えが、高くついたことになります。
 同日、徳川家康は、徳川秀忠が「十日時分には其地(赤坂)まで参るべしと存じ候」(秀忠が10日には赤坂に出るので、勝手なことをするな)という手紙を福島正則に出しています。
 9月10日、徳川秀忠は、上田城攻めを中止し、岐阜に向かいました。
 9月11日、徳川家康は、東海道を西上して、清洲城に到着しました。しかし、徳川秀忠軍は、西軍に属する信州上田城主の真田昌幸に苦戦し、やっと岐阜に向かっていたのです。
 9月12日、徳川家康は、福島正則らが1ヶ月間足止めになっていることを考え、徳川秀忠軍を除外してでも、石田三成方と戦うことを決意しました。
 9月13日、文化人として著名な細川幽斎を救いたいと思う後陽成天皇の勅命を無視できず、細川幽斎は、50日間耐え抜いた田辺城を明け渡しました。
 9月14日1午後7時、石田三成は、島津義弘小西行長・宇喜多秀家らと共に、大垣城を発し密かに関ヶ原に向かいました。
 石田三成は、小早川秀秋の重臣である平岡頼勝を訪問し、狼煙を合図に東軍の側面を衝くという約束を得ました。
 9月15日午前2時、徳川家康は、諸軍に関ヶ原への出陣命令をだしました。
 午前5時、西軍諸隊は布陣完了しました。
(1)石田三成隊は最北の笹尾山と小関村に隊を分け布陣
(2)島津隊は笹尾山の南の小池村に四段構えで布陣
(3)小西行長隊は島津隊の南の北天満山を背に二段構えで布陣
(4)宇喜多秀家隊は小西隊の南の南天満山の前に五段構えで布陣
(5)宇喜多隊の南に大谷吉継が布陣
(6)小早川秀秋隊は最南の松尾山に布陣、その前(北)に脇坂安治・朽木元綱隊が布陣
(7)松尾山の東の南宮山の東には毛利秀元、その前(北)に吉川広家、広家の東に安国寺恵瓊
(8)南宮山の南東の位置にある栗原の前に長宗我部盛親、その前(北)に長束正家が布陣
 午前6時、徳川家康は、西軍の陣を見て、東軍諸隊の布陣を完了しました。石田三成軍は西と南に陣して、北は山なので、自然と徳川家康軍は包囲されて、東西に長い陣形になっています。平地の陣取りは、徳川家康軍の方が勝っています。
【1】一番隊(左翼勢)
(1)福島正則は、宇喜多秀家の南天満山に対する形で布陣
(2)加藤嘉明・筒井定次・田中吉政は中山道の北に、さらに藤堂高虎・京極高知は中山道の南・柴井に布陣して、小早川・大谷勢に対する形で布陣
【2】二番隊(右翼勢)
(1)黒田長政・加藤貞泰・竹中重門は岡山(丸山)の麓に布陣して、石田隊に対峙
(2)細川忠興・稲葉貞通・寺沢広高・一柳直盛・戸川達安・浮田直盛は中山道の北・中筋(中央部)に南北に並び、島津・小西隊と対峙
【3】三番隊(中央勢)
(1)井伊直政は茨原に布陣、その北側に松平忠吉、本多忠勝は十九女池の西に布陣、南宮山方面の敵が伊勢街道から関ヶ原に侵入してくるのに備えました。
(2)南宮山方面の敵に対しては池田輝政が御所野に、浅野幸長が垂井一里塚に、ここから野上村(関ヶ原東部)までの中山道の左右には、山内一豊らが布陣しました。
(3)徳川家康は、初め桃配山に本陣を構えました。本陣の前備えには奥平信昌ら、一段下がった中央に松平重勝ら、右に酒井重忠・永井直勝ら、左に阿部正次・酒井忠利らが布陣しました。床几代は本多正純、後備は本多康俊・重政ら、遊軍勢は酒井家次・本多忠政らが布陣しました。
 午前8時、井伊直政・松平忠吉が、島津隊へ発砲し、福島正則が、宇喜多隊に一斉射撃しました。ここに関ヶ原の戦いが始まりました。
 午前9時、石田三成は、大筒で笹尾山から砲撃するなど、緒戦は西軍がやや有利でした。しかし、黒田長政が、島左近の側面を攻撃しました。その結果、島左近が負傷したので、西軍の士気に大きな影響が出ました。
 午前10時、石田三成は、使者を島津義弘に遣わし、出軍を促しましたが、それでも、島津義弘は動きませんでした。
 徳川家康は、戦況の膠着状態を打破するために、本陣を桃配山より前方の陣馬野に移しました。
 午前11時、石田三成は、総攻撃の狼煙をあげました。動かない南宮山の長束正家や若い毛利秀元(毛利輝元の名代)に、出軍を促す使節を送りましたが、吉川広家(毛利家の指導的立場で徳川家康派)は、毛利秀元の出馬を阻止しました。
 12時、徳川家康は、松尾山の小早川秀秋軍を狙って鉄砲を撃ち込みました。驚いた小早川秀秋は、とっさに、目の前の大谷忠継軍に攻め込みました。それにつられて、小早川秀秋の前にいた小早川軍の監視役である脇坂安治朽木元綱らも、大谷軍を攻撃し、勇猛なる大谷吉継もついに自刃して果てました。 
 13時、大谷吉継の自刃の知らせは、西軍の士気を喪失させ、奮戦していた小西行長・宇喜多秀家軍も大きく崩れました。
 14時、石田三成は、伊吹山方面に敗走しました。
 これをみた島津義弘隊は、徳川家康本陣の中央を突破して、逃げ延びました。
 徳川家康は、戦後、藤古川の台地に本陣を移し、東軍の武将と対面しました。
10  9月18日、徳川家康軍は、石田三成の居城佐和山城を攻略しました。
 9月21日、石田三成は、伊吹山中で捕らえられました。
 10月1日、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・長束正家の首が、京都三条の橋にさらされました。
11  この戦いの結果、改易された大名は88家416万石、減封された大名は5家216万石、合計632万石になります。当時大名の総石高は1800万石ですから、3分の1が没収されたことになります。
 豊臣秀頼と母の淀君は、中立だったということで、処分は免れましたが、諸大名に預けていた土地は没収されたので、220万石あった領地は65万石に激減しています。
 徳川家康は、政治力・経済力・軍事力を武器に、武士の頂点である征夷大将軍に任じられました。
徳川徳川家康は、石田石田三成になぜ勝てたか?
 小早川秀秋は、隆景の実子ではなく、豊臣秀吉の正妻北の政所(高台院)の甥です。何故、豊臣家を裏切ったのでしょうか。
 朝鮮出兵の時、42人の武将の総帥であった秀秋は、敵軍に突入し、13人の明人を切り殺す働きをしました。しかし、石田三成は「一軍の総帥が、敵陣深く切り込むのは、軽挙である」と豊臣秀吉に讒言しました。その結果、豊臣秀吉は「大将の器ではない」と50万石の領地を没収され、越前15万石に左遷を命じられました。これを、とりなしたのが徳川家康で、秀秋は、今までの身分を保つことが出来ました。
 石田三成憎しだったことがわかります。秀頼を総帥にしているとどうなったかわからい説もありますが、納得のいく話だと思います。 
 五奉行で徳川家康側についてのは唯一浅野長政のみです。しかも、浅野長政の妻と太閤豊臣秀吉の妻は姉妹なので、長政と豊臣秀吉は義兄弟という関係です。なぜ、豊臣家を裏切るようなことをしたのでしょうか?
 浅野長政は、忠臣蔵で有名な赤穂浅野家の祖でもあり、調べてみました。やはり、石田三成との確執でした。
(1)1590年の小田原攻めのとき、駿府城の徳川家康が浅野長政に「駿府は私の居城なので、ご家来衆までの料理を用意しておきます」と伝えました。この話を聞いて豊臣秀吉は駿府に着きましたが、石田三成は「徳川家康公は北条氏政と気脈を通じているとのこと、そのようなお城に入るのは危険です。お止め下さい」と進言しました。豊臣秀吉が躊躇していると、長政が「そんなことを信じてはなりません」と諌めましたので、豊臣秀吉は安心して駿府城に入城しました。何事もなかったことは言うまでもありません。
(2)石田三成が、策を弄して徳川家康と長政との仲を裂こうとしたことがありました。それに不安を感じた長政は身の潔白を証明するために、家督を嫡子幸長に譲ったというようなこともありました。
(3)徳川家康は、浅野長政を味方につけるために、何と9通も手紙を出しています。
 以上のような話は史料として残っていますが、本当かどうかは定かでありません。
 武断派は、反対派を鎮圧します。文治派は、その後の土地経営に力を発揮します。統一の過程では、両派は、両輪の如く、うまくいっていたのです。しかし、統一されると、武断派の仕事はなくなり、文治派の仕事が目立ちます。これは仕方のないことです。これが、武断派には耐えられないことです。
 この分裂を巧みに利用したが、徳川家康です。徳川家康は、考える力のある文治派には接近せず、思考が停止している武断派を利用したのです。巧妙というか、「狸親父」といわれる所以です。
 米陸軍の参謀が、関ヶ原の戦いの時の陣形を見て、「石田三成が勝ったでしょう」と言いました。日本の学者が、「実は徳川家康が勝ったのです」と答えると、「小早川陣営の誰かが裏切らなければ、勝てないでしょう」と分析したと言います。
 それほど、石田三成の作戦ミスは致命的だったのです。西軍から東軍に寝返って兵は1万5000人、山上から日和見を決め込んで動かなかった兵は2万5000人です。実際戦ったのは、東軍の半数にもならなかった点です。
 その理由は、ただの小姓が、豊臣秀吉の側に仕えた器量のみで出世していった嫉みを、石田三成は計算に入れていなかったのです。なぜ、豊臣秀頼を総大将に仕立て上げなかったのでしょう。それが、全てです。

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