print home

エピソード

110_04

春日の局、お福ちゃんの一生
 1579(天正7)年、春日の局は、明智光秀の家老である斉藤利三斉藤道三の一族)の末娘として、丹波黒井城下の居館(兵庫県氷上郡春日町)で生まれました。母は美濃の名門である稲葉通明の娘おあんです。幼名をお福といいます。
 春日町で生まれたので、後に、春日の局と呼ばれるようになりました。
 文武に秀でた武将稲葉一鉄は、お福の叔父です。稲葉一鉄は美濃3人衆と言われ、屈強で、頑固いってつな武将でした。斉藤利三も初めは、稲葉一鉄に仕えていましたが、共に頑固でした。そこで、斉藤利三は、稲葉一鉄を離れ、明智光秀に迎えられ、家老となりました。所が、稲葉一鉄は、織田信長に斉藤利三を返すよう嘆願しました。織田信長は、明智光秀に斉藤利三を稲葉一鉄に返すよう命令しましたが、光秀は、「これは信長様のためです」と言って、この命令を拒否しました。
 斉藤利三は、この話を聞いて、一生明智光秀に仕えることを覚悟しました。
 1582(天正10)年6月3日、父の主君明智光秀は、家老斉藤利三の進言により、本能寺の変で、織田信長を殺害しました。
 6月13日、豊臣秀吉は、山崎の戦いで、明智光秀を殺害しました。明智光秀の家老で、お福の父斉藤利三(亀岡市にある亀山城主)が捕まり、京都の六条河原で処刑されました。
 お福は、画家の海北友松を頼ります。この時、この父の処刑を見ることになります。時にお福は4歳でした。
 海北友松は、浅井長政の重臣の子で、京都の東福寺で修行していました。そのため、浅井氏滅亡の時も、生き残りました。後、画家として活躍していた時、最も親しくしていたのが、斎藤利三でした。
 お福は、秀吉の追っ手が海北友松家に迫ったので、稲葉一鉄の世話で、「大臣家」の三条西公国を頼ります。三条西公国は、稲葉一鉄の妻の甥になります。大臣家は、五摂家について、太政大臣・左右大臣になれる家柄です。
 お福は、ここで、有職故実や和漢学を学びました。
 1584(天正12)年、お福(7歳)は、豊臣秀吉の追っ手が三条西公国に迫ったので、長宗我部元親を頼りました。長宗我部元親の妻は、斉藤利三の妹ですから、お福の叔父になります。お福は、土佐岡豊城で「土佐の出来人」といわれた長宗我部元親から、武士の法律や学問や知識や教養を身につけました。 
 1589(天正17)年、お福(12歳)は、再び、三条西実条の妹として、京都に帰りました。ここで、歌や文学、学問教養を身につけました。
 その後、稲葉一鉄の長男稲葉重通は、お福を養女として面倒をみました。稲葉重通の嫡子稲葉正成の妻は、若くして亡くなりました。稲葉正成は最初、稲葉一鉄の家来でしたが、豊臣秀吉の紀州征伐に参加して秀吉の直臣となりました。
 1595(文禄4)年、そこで、稲葉重通は、お福(17歳)を、稲葉正成(25歳。父は稲葉重通)の後妻としました。やがて、2人の間に、稲葉正勝稲葉正定の2人が生まれました。
 1597(慶長2)年、小早川隆景が亡くなりました。小早川秀秋(14歳)は、小早川隆景の養子として、33万5000石の大大名となりました。この小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室である北政所ねねの甥で、豊臣秀吉の養子となり、北政所から養育されていました。稲葉正成(27歳)は、豊臣秀吉の命令で、小早川秀秋の家老となり、5万石を領しました。
 お福(19歳)は、最初の男子稲葉正勝を出産しました。
 1597(慶長2)年、小早川秀秋は、朝鮮出兵の総大将でしたが、14歳だったので、27歳の稲葉正成が副将に任命されました。この時、苦戦した小早川秀秋と稲葉正成は、豊臣秀吉から叱責をうけました。これを救ったのが徳川家康です。稲葉正成と徳川家康の絆が強くなりました。
 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの時に、小早川秀秋(17歳)が徳川家康に寝返ったのは、稲葉正成(30歳)の差し金といわれています。小早川秀秋は、徳川家康から51万石を与えられ、岡山城主となりました。稲葉正成は、以前の5万石に2万石が加増されました。稲葉正成は「裏切り代2万石」と噂される様になりました。
 お福(22歳)は、稲葉正成が小早川家・徳川家のために責任を取ることを勧めました。そこで、稲葉正成は浪人となりました。
 お福は、美濃での半農の生活を始めました。他方、妻の勧めで浪人となった稲葉正成は、ヤケになって、京都から遊女を呼び寄せて、昼から酒を飲んだり、お福に暴力を振るいました。お福は、一族再興と子供の出世を願って、稲葉正成との離婚を決意しました。
 その後、岡山城主の小早川秀秋は、恩ある豊臣家を裏切ったという良心の呵責に耐えかねて、狂死しました。
 1603(慶長8)年、徳川家康が征夷大将軍になりました。
 1604(慶長9)年、徳川家康は、「京都に在住する教養ある乳母」を孫竹千代(父は徳川秀忠)のために募集しました。三条西実条の推薦を受け、3人目の稲葉正利を産んだばかりのお福(26歳)が応募しました。徳川家康は、関ヶ原の戦いで自分に味方した付家老の稲葉正成の妻の覆歴に目を止めて、お福を竹千代(後の徳川家光)の乳母として採用しました。
 1604(慶長9)年、お福は、竹千代の母であるお江与の方(母はお市の方)と対面しました。お江与の方の叔父である織田信長を殺害したのは、お福の父斎藤利三の主人明智光秀でした。お江与の方は、最初の夫佐治与九郎とは豊臣秀吉のため離縁させられました。次の夫羽柴秀勝とは豊臣秀吉の命令で、再婚しました。羽柴秀勝が病死すると、徳川秀忠の正妻となりました。お江与の方も戦国時代の悲劇の女性だったのです。
 1605(慶長10)年、徳川家康は、征夷大将軍を徳川秀忠に譲り、大御所となりました。
 1606(慶長11)年、お江与の方は、次男国松を出産しました。お江与の方は、先例を破り、国松を自分の手で育てました。嫡子の竹千代(後の徳川家光)は、虚弱であった。そんな関係で、父の徳川秀忠も国松を可愛がるようになりました。周囲の家臣たちは、「次期将軍は国松君だ」と噂しました。
 この頃、竹千代が高熱を出しました。お福は、「一生薬を口にしないので、竹千代君をお救い下さい」と願をかけました。竹千代の病気が回復したので、それ以後、お福は、薬を口にしなくなりました。
 1608(慶長13)年、駿府城が完成したので、徳川家康は、駿府へ隠居しました。
 この頃、将軍徳川秀忠とお江与の方の前で、国松が馬役の小姓の背に乗る遊びをしました。「竹千代は、どうかな?」といわれて、しり込みするだけでした。徳川秀忠は、「3代将軍は国松だな」と強く感じました。
 お福は、伊勢参りを口実に駿府に立ち寄り、徳川家康に直訴しました。
 しばらくして、徳川家康が駿府から江戸城に入りました。徳川家康は「2人にお菓子を与えよう。ちこう、よりなさい」と言うと、国松がさっさと家康に近づきました。すると、「国松はそこでよろしい」と言っては、下座を指示しました。「竹千代はこれへ来なさい」と言って、上座に上げました。この瞬間、竹千代の次期将軍が決定しました。
 徳川家康は、戦国時代ならともかく、天下太平の世にあって大切なのは「長幼の序」であることを示したのです。力があるとか、賢いとかは、見る人の立場でかわる価値観です。しかし、長幼の差は客観的な事実です。この基準が出来たので、江戸は15代将軍まで続いたといえます。
 竹千代付きの小性に、松平信綱(9才)、稲葉正勝(8才)らが選ばれました。松平信綱は後に「知恵伊豆」といわれた人です。稲葉正勝は、お福の長男です。
 お福は、乳母の任務が終わっても、教育係りである「お守役」を任命されました。 
 1623(元和9)年、徳川家光は、3代将軍に就任しました。お福(45歳)は、大奥の支配も命ぜられ、制度や職務の整備します。
 1629(寛永6)年、お福(51歳)は、御所に参内し、朝廷より春日局の号を賜わりました。この頃、没落していた海北家の海北友雪(海北友松の長男)を江戸の狩野派に世話し、海北家の再興に尽力しました。
 1631(寛永8)年、3代将軍徳川家光は、弟徳川忠長(国松が改称)に、甲斐での蟄居を命じました。お福(53歳)の三男稲葉正利は、徳川家光の弟徳川忠長に仕えたが、忠長が蟄居を命ぜられた時、細川忠利に終生預けられました。
 お福は、竹千代には長男稲葉正勝、国松には三男稲葉正利を小姓役にしています。これは、どちらが将軍になっても、自分の掌中の玉をにぎるお福の策ではないかという人もいます。説得力のある説です。
 1632(寛永9)年、3代将軍徳川家光は、弟徳川忠長の領地を没収し、上州高碕に幽閉しました。小さい時のトラウマから逃れられない徳川家光像が浮かび上がってきます。
 1633(寛永10)年、お福(55歳)の長男である稲葉正勝は、小田原城主となりました。
 12月6日、徳川忠長(徳川家光の弟)は、上州高碕で自害しました。
10  1634(寛永12)年、お福(56歳)の長男である稲葉正勝(小田原城主)は、38歳で亡くなりました。お福の孫で、稲葉正勝の嫡子稲葉正則はわずか11歳ですが、お福の計らいで、斉藤利宗(お福の兄)を後見人として相続が許されました。。
 1643(寛永20)年、お福が亡くなりました。時に65歳でした。
 麟祥院にある墓は、四方に穴が貫通した特異な形をしています。これは、お福が「死して後も政道を見通せる墓を作って欲しい」という遺言によって建立されたといいます。
不幸をエネルギーに変えるお福ちゃん
 「私ほど不幸な者はいません」という女生徒には、私は、春日の局(お福ちゃん)の話をすることにしています。
 4歳の時、父の処刑を体験します。秀吉の残党狩りに、逃げ回ります。20歳の時、秀吉が亡くなり、解放されます。22歳まで夫の暴力に耐えて子育てをします。その間、現実から逃げず、必要な知識や技術を貪欲に身につけます。
知識・技術で将軍の乳母に就職します。しかし、預かる子の母親が、父が殺害に関係した人の娘だったのです。それでも、現実と向き合いました。
 殆どの生徒は、沈黙して、「私は不幸だ」と言わなくなります。
 それほど、お福ちゃんの一生は、過酷で、ドラマチックなのです。
 最近の言葉から。神戸の連続児童殺傷事件の加害男性が本退院するのを前に、被害者の一人山下彩花さんの母京子さんが手記を公表した。「どんなに過酷な人生でも、人間を放棄しないでほしい…生きて絶望的な場所から蘇生してほしい…けっして彼の罪を許したわけではありません…それでも、彼の『悪』に怯えるよりも、わずかでも残る『善』を信じたいと思うのです」(2004年12月30日付け朝日新聞天声人語より)
 お福を通して分かることは、主殺しの明智光秀(斎藤利三)の片方の姿です。貴族とも親しく、学問・歌道に通じ、風雅の心もあり、文武に秀でていました。
 人間には、様々な面があります。血液型(A、B、O、ABの4種類)、星座(魚座など12種類)などで表面的に、分類できるほど単純なものではありません。
 徳川家康が、明智光秀の重臣である斎藤利三の娘(「謀叛人の娘」)を、孫の竹千代(のちの3代将軍家光)の乳母として採用しました。家康は、その後も、「謀叛人の娘」を重用しました。そのことから、家康は光秀に対して何らかの恩義を感じていたのではないかという説があります。
 つまり、(1)光秀と組んで信長を暗殺した。あるいは(2)信長暗殺計画を事前に知らされていた。というのです。
 私は、これは、結果から考えた「ためにする議論」だと思います。堺にいた家康は必死で脱出していますし、逃げ遅れた筒井順慶は夜盗に殺されています。
 私は、家康は、安定した平和な世を作るためには、武士の教養と京風の行儀作法を身につけた乳母が必要と考えていたと思います。この先見の明が、家康のすごさであり、その時代を察知して時代に対応した知識・技術を習得したお福ちゃんのすごさでもあります。
 「英雄は英雄を知る」です。
系図の見方(斉藤氏、稲葉氏、将軍家)
斉藤利忠 斉藤利三 斉藤利宗
||━ お 福(春 日 の 局)
稲葉通則 稲葉通明 お あ ん   || 稲 葉 正 勝 ━━ 稲葉正則
稲葉一鉄 稲葉貞通 ||━ 稲 葉 正 吉 ━━
女子   || 稲 葉 正 利 ━┓
|| 稲葉重通 稲葉正成
斉藤道三 お江与 竹千代(家光)
  ||
||━ 国松(徳川忠長)
徳川家康 徳川秀忠

index