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エピソード

110_05

大坂の役(大坂冬の陣)
 1600(慶長5)年、徳川家康は、関ヶ原の戦い後、石田三成方の大名を処分(改易91大名440万石)しました。これによって発生した浪人の数は、約11万人になります。
 1603(慶長8)年2月、徳川家康(62歳)は、征夷大将軍になりました。
 7月、徳川秀忠(父は徳川家康)の娘千姫は、大坂城豊臣秀頼(父は豊臣秀吉)に嫁ぎました。 
 1605(慶長10)年4月、徳川家康(64歳)は、突如、将軍職を、徳川秀忠(20歳)に譲りました。これにより、徳川家康は、「政権は大坂方に返還せず、徳川氏が世襲する」ということを天下に表明したのです。
 5月、徳川家康は、豊臣秀頼(13歳)に上京を促しましたが、淀君は「上洛を強いるならば、秀頼を自殺させて、自分も自害する」と言って、この申し出を断りました。徳川家康は、温情主義では、大坂方を屈服できないことを悟りました。大坂方が強気の理由には、籠城しても4年はもつという大坂城の構造があります。
 大坂城の西側は、東から流れてきた大和川と北から流れてきた淀川鴫野口で合流し、天満川となって流れています。東は、平野川があり、大坂城と平野川の間を流れる猫間川を外堀としています。西は木津川が流れています。さらに、高さ20間の塁壁と幅60間、深さ4間の堀が、周囲にめぐらされています。
 1606(慶長11)年、徳川家康(65歳)は、江戸城の拡張工事を行い、諸大名に手伝普請を命じました。
 1607(慶長12)年、徳川家康(66歳)は、駿府城に隠居して、大御所と言われました。駿府城も、諸大名の手伝普請により完成しました。
 1610(慶長15)年、徳川家康は、第九子徳川義直(11歳)のために名古屋城を新築しました。この時も、諸大名に手伝普請を命じました。この時、福島政則が「我等再三駆使せらるる事、最もたえがたきところなり」と不平を漏らすと、加藤清正は「今城を築くことの労に堪えざらんには、速に帰国して謀叛せらるべし」と反論したといいます。徳川家康は、経済的にも、精神的にも、諸大名のエネルギーを消耗させていったのです。
 1611(慶長16)年、徳川家康(70歳)は、老体を押して上洛しました。徳川家康は、最後通牒によって豊臣秀頼(19歳)の上洛を命令しました。片桐勝元や加藤清正・浅野幸長らの説得で、豊臣秀頼は上洛しました。
 1611(慶長16)年、有力大名の加藤清正・浅野幸長が亡くなりました。
 1612(慶長17)年、徳川家康(71歳)は、駿府城で、片桐且元と会い、太閤の菩提を弔うという口実で、大寺院を建立させました。本当の狙いは、豊臣家の財力を消耗させることでした。
 1613(慶長18)年、池田輝政が亡くなりました。
 1614(慶長19)年1月、徳川家康は(73歳)は、徳川秀忠のために、いよいよ、大掃除を決意しました。
 4月、方広寺大仏殿の釣鐘が鋳造されました。淀君が信頼する大野治長は、大仏殿の落成を祝うと称して、真田幸村らを大坂城に入れました。これは豊臣家の家老片桐勝元には、無断で進められました。
 7月、徳川家康の決意を呑んだ京都所司代は、「方広寺大仏殿鐘銘に不吉な文字がある」という報告を徳川家康にしました。徳川家康は、方広寺の鐘銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」「子孫殷昌」という文言を「徳川家康の文字を分断し、豊臣を君として栄えようとは何事か」と解釈し、「戦さを回避したければ、豊臣秀頼を大和郡山に移封せよ」と片桐勝元に申し入れました。
 8月20日、片桐勝元は、淀君に「秀頼の移封」を言い出せず、逆に、淀君は、片桐且元を駿府の徳川家康のもとへ派遣しました。片桐勝元は駿府へ行って徳川家康に面会を申し出ました。しかし、20日間滞在しても徳川家康には面会できなませんでした。片桐勝元がやっと面会できた徳川家康は、(1)淀君が人質として江戸に出てくる(2)秀頼が江戸に参勤する(3)秀頼が大坂を退城して国替をするという3つのうち1つを選ぶよう命じました。
 8月29日、淀君は、無骨者の片桐勝元に不安を感じ、大蔵卿局(淀君の侍女で、大野治長の母)を、駿府に派遣しました。これを逆手に取った徳川家康は、鐘銘問題は話題にせず、大歓迎をして、「豊臣秀頼や淀君には他意はない」と断言しました。
 9月18日、片桐且元は、大坂城に戻り、徳川家康との和平を勧めました。しかし、大蔵卿局(大野治長の母)から徳川家康の情報を得ていた大野治長らは、片桐勝元に裏切り者の汚名を着せました。
 そこで、片桐旦元と弟片桐主膳は、4000の兵を率いて、摂津国茨城城に帰ってしまいました。片桐勝元がいない大坂城を取り仕切りるのは、大野治長です。大野治長は、佐和山城19万石の城主で、淀君の寵愛のみで出世したジャニーズ系の大名です。
 10月1日、大野治長は、大坂城を籠城戦に備えて、準備をしました。また、大野治長は、諸大名に来援状を出しましたが、だれも応じませんでした。代わりに、浪人が13万人集まりました。その中の塙団右衛門は「名を揚げ立身の本になるべきなり」と言ったといいます。
 他方、大坂城の動きを知った徳川家康は、「今度の仕合を御聞きなされ、大方もなく御若やぎなされ候」と喜んだといいます。
 10月11日、徳川家康は、軍勢を率いて駿府城を出発しました。
 10月23日、徳川家康は、京都二条城に入りました。
 10月23日、秀忠軍の6万の兵が、江戸を出発しました。
 11月10日、徳川秀忠軍は、二条城に着きました。
 11月13日、徳川秀忠軍の本隊は、大坂城へ出陣しました。
 11月15日、徳川家康は、奈良の法隆寺から摂津の住吉神社に参拝して、大坂城へ接近しました。
 11月18日、徳川家康は、大坂城の南の茶臼山を本陣として、陣形を決めました。長期戦を覚悟の布陣です。
(1)淀川と木津川との合流する北側に本多忠政らを配置
(2)淀川の東側に竹中重門ら、その後方に片桐勝元らを配置
(3)大和川と淀川の合流点である鴨野には浅野長重・佐竹義宣・真田信吉と信政らを配置
(4)平野川の東側に上杉景勝らを配置
(5)大坂城外堀の西側に浅野長晟らを配置
(6)大坂城の南で、平野川の西側の岡山に徳川秀忠を配置
(7)大坂城と岡山(秀忠の本陣)・茶臼山(徳川家康の本陣)の間に、東から西へそうそうたる大名が配置されました。前田利常、松倉重政、寺沢広高、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎、伊達政宗、毛利秀就、福島正勝、島津家久らです。
 11月26日、鴫野の陣する上杉景勝ら5000の兵は、後藤又兵衛らに苦戦している佐竹義宣の救援に向かいました。これを見た大野治長ら1万2000の兵が、上杉景勝軍に攻めかかりました。上杉景勝の先陣が二陣の水原親憲軍近くまで後退しました。このとき、猿楽の半臂を具足の上から羽織った水原親憲は、鉄炮500挺で大野らを撃退ししました。これを、鴫野・今福の戦いといい、冬の陣最大の戦いでした。
 12月4日深夜、真田丸を守る真田幸村の挑発に乗って、前田利常の武将が真田丸に接近しましたが、反撃がないので、外側の唐堀に飛び込みました。そこを狙っていた真田幸村の鉄砲隊は、一斉射撃を浴びせ、死者をたくさん出しました。これが、大坂方の唯一の勝利でした。
 12月17日深夜、和議への動きを知ると、塙団右衛門は、150人の兵を率いて、夜討ちをかけました。武将中村重勝ら数十人が討ち取られました。その後、「夜討ちの大将塙団右衛門」と有名人になりました。
 12月18日、戦線が膠着する中、徳川家康は、威嚇的に、大砲を城中に向け発砲させました。その1発が、天守閣の柱が1本吹っ飛び、侍女数人が即死しました。具足を身につけて城内を見回っていた淀君も、これに衝撃を受け、大野治長に和睦を急がせました。
 真田幸村・後藤又兵衛らは「義の戦いは、長期になるが、必ず勝つ」と反対しました。淀君の意を汲んだ大野治長は「新参の武将が和議により働き口を失うので主戦論を支持している」と豊臣秀頼に諌言して、和議を主唱しました。
 12月22日、第2回目の和平交渉で和議が成立しました。その内容は「大坂本城のみ、二之丸・三之丸は皆壊平すべし。然らば母(淀君)儀質たるに及ばず。修理(大野治長)・有楽(織田有楽)は人質を出すべし」というものでした。淀君は、「秀頼の移封がない、自分の人質はない、大坂城本丸だけの犠牲ですんだ」と安堵したといいます。徳川家康の本音を伺い知らない目出度いリーダーといえます。
 12月23日、松平忠明本多忠政を奉行として、二の丸・三の丸を破却しました。和議にない二の丸の堀も埋め立て始めました。大野らが抗議すると、奉行は「徳川家康の命令である」と言うだけで埒が明かない。そこで、大野治長らは本多正信に徳川家康へのとりなしを依頼すると、本多正信は「すぐに大御所に伝えよう」と約束しましたが、返事を待っている間に、二の丸・三の丸の堀がすべて埋められてしまいました。難攻不落の大坂城も本丸だけの裸にされてしまいました。
 12月25日、徳川家康は、大坂より凱旋し二条城に入りました。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
徳川家康になれなかったダイエー創業者、秀頼は秀吉の子?
 1605年、2年前に武士の最高位である征夷大将軍となった徳川家康(64歳)は、あっさりと、若い秀忠(20歳)に将軍職を譲りました。もっとしがみつきたかったと思います。
 1616年、大坂の役で、秀忠のために大掃除を終えた徳川家康が、亡くなりました。時に75歳でした。若かった将軍秀忠は、この時38歳になっていました。これが、徳川幕府を15代も長続きさせた理由です。
 私は、創業者の後継者へのバトンタッチをこの目線で見ることにしています。
 ダイエー創業者は、一時、若い息子にバトンタッチした時がありました。「やるなー、徳川家康を見習っている」と思っていると、いつの間にか創業者が前面に出てきました。結局、ダイエーの創業者は、徳川家康になれず、源頼朝の道を選び、短期政権で終わったということです。
 この文章を書いたのが、2005年の1月でした。
 2005年9月19日、ダイエー創業者が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
 1957年、ダイエーの創業者は、「主婦の店・ダイエー」の第1号店を開店させました。彼は、アメリカ式セルフ販売によるスーパーマーケット方式を取り入れました。大幅な人件費と削減です。産地直送方式を採用し、中間マージンを撤廃し、「よい品をドンドン安く!!」をモットーにしました。
 ノンフィクション作家の佐野眞一氏は「野菜売り場に置かれたモヤシに目をやった彼は、つかつかと歩み寄ったかと思うと、それを手に取り、売り場主任の頭からそれをザルごとぶちまけた。私には新鮮に見えたが、彼の目にはくたびれてみえたらしかった。手作りのパン売り場の前では立ち止まって、…5メートル離れてパンの香りがしなければ、即刻店舗改装を命じられる」と体験を報告しています。
 ここでは、彼が、品質を見るめの確かさとその厳しさが描かれています。お金も品物もない時代には、庶民には彼が救世主だったことが分かります。
 1972年、ダイエー創業者は、小売業の王様である百貨店の三越を抜いて、ダイエーを小売業の売上高でトップにさせました。
 彼の功績のもう1つは、「価格破壊」でした。
 1964年、彼は、王者である松下電器産業の製品を安売りしました。松下電器産業は、ダイエーへの出荷を停止しました。ある日、彼は、松下幸之助氏に招かれ、松下幸之助氏から「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と言われました。しかし彼は「そうですか」と答え、同意はしませんでした。
 1995年、松下電器産業から取り引きを再開されました。松下幸之助氏が亡くなってから7年後のことでした。それまでメーカーが握っていた価格決定権を消費者側に奪取したのです。まさに、流通業界の徳川徳川家康でした。
 1994年、ダイエーは、グループ187社、従業員10万人、総売上高5兆円超に成長しました。この頃です。彼は、彼の長男を副社長とし、次期社長として売り出しました。しかし、結局は、彼自身が社長にとどまりました。
 彼は、徳川徳川家康になろうとして、なれなかったのです。
 西武王国も、結局2代目から3代目にバトンタッチできず、崩壊しました。
 改めて、徳川徳川家康の偉大さがよくわかります。

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