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エピソード

110_06

大坂の役U(大坂夏の陣)
 1615(元和元)年1月3日、徳川家康は、二条城を発して駿府へ向かいました。
 1月19日、徳川秀忠は、大坂城二の丸の堀埋めを見とどけ、伏見城に向かいました。
 2月7日、徳川家康と徳川秀忠は、遠江中泉で密談しました。
 2月中旬、京都所司代板倉勝重は、徳川家康に、大坂方が浪人を大量に募集しているという報告をしました。
 2月14日、徳川家康は駿府に、徳川秀忠は江戸に着きました。
 3月5日、板倉勝重は、徳川家康に、大坂城の外郭に塀柵を設け、堀を掘削し、糧食を集めていると報告しました。
 大坂方の作戦は、大坂城の二の丸・三の丸の堀が埋め立てられた以上、籠城でなく、野戦となる。大和・和泉方面、片山・道明寺方面、八尾・若江方面で徳川家康軍を迎え撃つというものです。中心人物は大野治長大野治房兄弟・木村重成薄田隼人真田幸村長宗我部盛親後藤又兵衛らです。兵力は、浪人10万人です。
 この情報を知った徳川家康は、新規浪人の追放か豊臣秀頼の大和への国替という拒否できない条件から、二者択一を迫りました。徳川家康の作戦に乗った大坂方は、当然この申し出を拒否しました。
 4月6日、徳川家康は、駿府を発し、東海地方の諸大名に出陣を命じました。この時、徳川家康は「今度は手間もいるまじく候間…3日の腰兵糧ばかりてに罷り出づべし」と諸大名に申し伝えました。徳川家康は、短期決戦を予想しています。
 4月10日、徳川秀忠は、江戸を発し、西上しました。
 4月27日、豊臣方の大野治房は、2000の兵を率いて、大和郡山城を攻撃しました。大和郡山城主の筒井正次筒井順慶の次男)が豊臣方から徳川方へ寝返ったのを、恨みに思っての仕返しでした。
 4月28日、徳川方の浅野長晟は、5000の兵を率いて、和歌山城を出発しました。これを察知した大野治房は、紀州の一揆衆を扇動して、浅野長晟の背後で一揆を起こさせました。佐野まで来て、大野治房軍2万の兵の迎撃を知った浅野長晟は、逆に、泉南の樫井で迎撃体制をとりました。
 4月29日、大野治房は、大野道犬岸和田城の押さえとして残し、岡部大学に先鋒の命じました。しかし、功名に飢える塙団右衛門は命令を破り、岡部大学と先陣争いをして、わずかな兵を率いて、無謀な斬り込みをしました。団右衛門は鉄砲に狙い撃ちされ、落馬したところを、首を刎ねられました。この樫井の戦いに敗れた大野治房は、大坂城に逃げ帰りました。この緒戦の勝敗は、両軍の士気に大きな影響を与えました。
 5月5日、徳川家康は二条城を発し、徳川秀忠は伏見城を発し、河内に出陣しました。徳川方の先陣である藤堂高虎は河内千塚に布陣、井伊直孝は楽音寺に布陣、水野勝成は河内国分に布陣、徳川方の本多忠政松平忠明伊達政宗らも河内に到着しました。伊達政宗隊の先鋒である片倉重綱は片山に布陣しました。
 5月5日、大坂方の真田幸村らは、平野で、後藤又兵衛と会合し、「6日を期して道明寺で合流し、徳川方の先鋒が、暗峠南部の亀瀬越えと関屋越えの隘路を抜けてくるところを、国分において迎え撃つ」ということを決定しました。
 5月5日夜、道明寺方面に大坂方が向かうという情報を得た徳川家康は、藤堂高虎・井伊直孝を道明寺に向けて出撃するよう命じました。しかし、八尾方面に大坂方が移動していると情報を得た藤堂高虎は、徳川家康の命令に反し、八尾に転進しました。
 5月6日未明、後藤又兵衛は、2800の兵を率いて、平野から奈良街道を東進し、藤井寺に到着しました。しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定どおり到着していなかったので、又兵衛は、単独で道明寺に進出しました。でも、いないはずの徳川方は、すでに、国分に入って戦闘配置についていました。そこで、後藤又兵衛は後続を待たず、先鋒の山田外記古沢満興に命じて、当初の作戦どおり、片山から小松山に向かわせました。又兵衛自身は、石川の河原を渡りました。山田外記の旗幟が山上に立ったのを見て、又兵衛も、小松山に登りました。
 5月6日午前2時頃、大坂方の木村重成は、4700の兵を率いて、大坂城の東にある若江に出陣しました。
 5月6日午前4時頃、徳川方はの水野勝成は、松倉重政奥田忠次に小松山の占拠を命じました。
 一方、長宗我部盛親は、増田長次増田長盛の子)と共に、5000の兵を率いて、八尾に出陣しました。木村重成が出陣している若江や八尾は長瀬川玉串川に挟まれた低湿地帯でした。徳川方の大軍に勝つには、この低湿地帯に誘い込む必要がありました。
 長宗我部盛親は、八尾にやって来た藤堂高虎と長瀬川と玉串川の土手の上で激突しました。長瀬川の土手に折敷いて待ち伏せた長宗我部盛親の兵は、藤堂高虎の兵が眼前に迫ると、一斉に立ち上がって突撃したので、高虎の兵は大混乱に陥りました。そこを長宗我部盛親の別働隊が斬りこんだので、藤堂高虎の重臣6名が討ち死にするという惨敗を喫しました。これを八尾の戦いと言います。
 徳川方の井伊直孝は、道明寺に向かおうとして、若江で、大坂方の木村重成と遭遇しました。木村重成は、不利を承知で、突っ込んでいって、壮烈な最期を遂げました。これを、若江の戦いと言います。
 長宗我部盛親は、若江の敗戦を知り、孤立することを恐れて、大坂城に引き上げました。
 5月6日正午頃、山下から攻める松倉重政・奥田忠次に、山上から狙い打ちます。その結果、奥田忠次は戦死し、松倉重政は苦戦に陥りました。そこへ、徳川方も水野勝成・本多忠政・松平忠明隊・伊達政宗らの援軍が来て、小松山を三方から包囲しました。そこで、後藤又兵衛は、「死を欲せざるものはこれより去れ」と配下の兵に言うと、兵たちは死を覚悟で、西に駆け下りました。後藤又兵衛は、鉄砲に胸を撃たれて負傷した後に、自害しました。。これを、小松山の戦いといいます。
 5月6日午後1時、後藤又兵衛らを破った徳川方の水野勝成らは、石川を渡河して道明寺に進みました。まもなく道明寺についた大坂方の薄田隼人明石掃部らと激戦になりました。薄田隼人が戦死したので、大坂方の明石掃部らは、道明寺を捨てて、誉田に退きました。
 5月6日昼過ぎ、明石掃部を追って、真田幸村が誉田に着きました。徳川方の伊達政宗の鉄砲隊が、砲火を浴びせてきました。それに対して、真田幸村は、兵たち全員に折敷させて頭を下げさせ、眼前に迫った瞬間、一斉に頭を上げさせ、相手方に鉄砲を向ける余裕を与えず、槍を突き出させて鉄砲隊を破りました。たまらず、伊達政宗は後退しました。
 5月6日午後2時、真田幸村らに大坂城から伝令が届きました。「八尾・若江方面の激戦で、木村重成軍が敗れた」ということと「大坂城に退却すべし」という内容でした。真田幸村を殿に、大坂方は大坂城に引き上げました。
 5月7日10時、徳川家康と徳川秀忠は、平野で合流して、最後の作戦を練りました。徳川家康は天王寺口を本陣とし、徳川秀忠は岡山口を本陣にしました。天王寺口の先鋒は本多忠朝、その西に浅野長重(赤穂浅野家の祖)、その背後に松平忠直、岡山口の先鋒は前田利常に命じ、寄せ手の総勢は15万に及びました。本多忠朝は本多平八郎忠勝の次男ですが、冬の陣の時、持ち場の変更を申し出たため、徳川家康から「平八郎に似合わぬ出来損ないめ」と罵倒されたので、汚名返上の意気込みでした。松平忠直は徳川家康の孫ですが、前日の八尾・若江の戦いの時、徳川家康の命令を守ったため、戦列に間に合わず、徳川家康に叱責されたので、死を以って汚名返上を誓っていました。
 他方、大坂方は、真田幸村が茶臼山に陣を布き、毛利勝永が天王寺に布陣し、大野治房が岡山口に布陣し、その総勢は5万でした。大野治長は、大坂城内に留まり、豊臣秀頼を守護していました。
 5月7日正午頃、真田幸村の決死隊は、松平忠直軍の中央を突破して、徳川家康の本陣に突入しました。徳川家康を守る旗本は逃げ惑い、徳川家康も自殺を覚悟したほどでした。しかし、松平忠直軍の反攻で、ついに真田幸村も討ち死にしました。時に49歳でした。その他の武将も戦死か引き上げました。
 他方、大野治房は徳川秀忠の本陣に突撃し、秀忠も槍をとって戦おうとするほどの状況となりました。しかし、井伊直孝軍の反抗で、徳川秀忠も命拾いをしました。大坂方の武将は戦死か引き上げました。
 5月7日午後2時、台所頭大隈与右衛門が、徳川方に内容して、城内の台所に火を着け、三の丸も落ちました。
 大野治長は、千姫の脱出を条件に、豊臣秀頼と淀君の命乞いをしました。千姫は、父徳川秀忠のいる岡山口に送り届けられましたが、徳川家康は、豊臣秀頼と淀君の助命は許しませんでした。
 5月8日午前8時、大坂城内の山里曲輪に火の手が上がり、淀君と豊臣秀頼母子、大蔵卿局と大野治長母子らが炎の中で、自害して果てました。これを大坂夏の陣といいます。ここに、豊臣氏が滅亡しました。
 この項は、『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
豊臣秀頼は秀吉の子?
 豊臣秀頼は、秀吉の子ではないという説が広く流布しています。本当か、噂か、私も調べてみました。
【1】子供の誕生年と秀吉のその時の年齢
 1570年、最初の子秀勝が誕生しました。母は側室南殿です。秀吉が34歳の時の子です。7歳で亡くなりました。
 側室南殿との間に女子が誕生しています。早く亡くなったようですが、年齢は分かりませんでした。
 1589年、二番目の子鶴松が誕生しました。母は別妻淀君(23歳)です。秀吉が53歳の時の子です。3歳で亡くなりました。
 1593年、三番目の子秀頼が誕生しました。母は別妻淀君(27歳)です。秀吉が57歳の時の子です。
【2】正妻、別妻、側室の数
 秀吉には、正妻のねね(後の北政所・高台院)、別妻の茶々(後の淀君)がいます。
 側室には、分かっているだけで19人います。秀勝を産んだ南殿、竜子(若狭・武田元明の妻)、山名殿(山名豊国の娘)、三条殿(蒲生氏郷の妹)、姫路殿(織田信包の娘)、三の丸(織田信長の五女)、成田殿(成田氏長の妹で絶世の美女)、摩阿(前田利家の娘)などです。
 美女や絶世の美女と言われた側室ばかりです。彼女たちには子供がいません。
 秀吉が34歳の時に子が生まれて、長い間ブランクがあって、突如53歳、57歳の時に子が生まれました。20年以上もたって、しかも57歳という年齢で、相手が淀君ばかりという点が、私にも、不自然に思えました。
 医学的・生物学的には、そういう例は存在するのでしょうか。
 秀頼の父として一番噂が高いのが、大野治長です。
 大野治長の生まれた年は、分かっていません。ただ、父は浅井長政の家臣で、母は茶々の乳母ですから、治長は茶々とほぼ同じ頃に生まれたと考えられます。
 浅井長政が自害した後、茶々らは柴田勝家の元に移ります。乳母の大蔵卿局(治長の母)と共に、治長も移ったと思われます。
 柴田勝家が自害した後、茶々は30歳も違う、父のような豊臣秀吉の別妻に迎えられ、淀君となります。乳母の大蔵卿局(治長の母)は、父母のいない淀君の相談役として信頼を集めます。同年齢の治長は、淀君のよき話し相手でした。
 治長は、母の縁で、秀吉の側近に抜擢されます。
 秀吉が死んだ後も、大坂の役でも、淀君は治長を寵愛しています。そして、自害する時は、淀君と秀頼母子、大蔵卿局と大野治長母子が一緒という異常な関係でした。
 私は、状況証拠から、「豊臣秀頼の父は、大野治長であった」説に軍配を上げたいと思います。

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