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エピソード

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幕藩体制と幕府権力の優越(大名・旗本・御家人)
 幕藩体制とは、幕府将軍)と大名)の強力な領主権によって土地・人民を統治する統治体制をいいます。
 その経済的基盤は、本百姓の中心とする農業生産です。
 幕府権力を優越にさせているものに、軍事力と経済力があります。
 まず、経済力を見てみよう。
 全国3000万石のうち、大名領は2250万石(75.0%)、幕領(天領)は400万石(13.4%)、旗本知行地300万石(10.0%)、寺社領40万石(1.3%)、公家領7万石・禁裏御料3万石(0.3%)となっています。幕府は、全国の領地の23.3%を領有しています。
 それに、佐渡伊豆の金山と、生野大森の銀山など主要鉱山を支配していました。
 また、三都(江戸・京都・大坂)など重要商業権を支配しました。
 長崎・堺など主要貿易港を支配していました。
 五街道東海道中山道甲州道中奥州道中日光道中)なども支配していました。
 金座(江戸・駿府・京都・佐渡)や銀座(京都)など貨幣鋳造権も支配していました。
 これでは、幕府に太刀打ちできません。
 次に、軍事力を見てみましょう。
 当時、大名は、1万石に対し235人の軍役(兵馬の備え)を課せかれていました。大名は、幕末で266家あり、大名領が2250万石ですから、52万8750の兵がいたことになります。
 他方、旗本は、200石に対し5人の軍役を課せられていました。旗本は5205人で、旗本領が300万石ですから7万5000の兵がいたことになります。旗本八万旗というのは、この数字をいいます。それに、御家人は1万7399人います。
 最大の外様大名である前田家は102万石なので、兵力は2万3970人となります。つまり、前田家が4大名結束して、幕府の軍事力に対抗できるようになっています。
 別項で詳しく見ますが、外様の周囲には、天領や親藩・譜代を配置するという分裂政策をとっており、とても結束できる構造になっていません。
 大名の規定は、@御目見得以上A1万石以上です。加賀前田家の家老を務めた8家(加賀八家)は、本田家5万石を筆頭に、全てが1万石以上です。つまり、大名には、御目見得以上・1万石以上という2つの条件が必要です。
 大名と旗本の共通点は、御目見得以上です。違いは、1万石以上か、1万石以下かの差です。
 旗本の規定は、B将軍の直参@御目見得以上C1万石以下です。
 御家人の規定は、B将軍の直参D御目見得以下C1万石以下です。
 旗本と御家人の共通点は、将軍の直参・1万石以下です。違いは、御目見得以上か、御目見得以下かの差です。
 御目見得とは、将軍と直接会って話が出来ることを言います。
幕府と藩
 私の忠臣蔵のホームページを見て、多くの方からメールがあります。その中に、赤穂藩の藩は実在したのですかという質問がありました。
 そこで、再度、幕府と藩の語源を考えてみたいと思います。
 中国の歴史では、出征中の将軍が幕を張って軍議をはかる陣営という意味に使っています。
 日本では、近衛府を幕府と言ってましたが、やがて、近衛大将や征夷大将軍を指すようになり、やがて武家政権を指すようになりました。
 中国の歴史では、封建諸侯を王室の藩屏と表現していました。
 藩は、枝を逆方向にぐっとそらせてからませたいけがきのことをいいます。屏は、びっしりと並びたって出入りをとめる意味です。両方とも、王室を守るという意味に使われます。
 日本では、将軍を支える「藩屏」として諸大名を意味するようになりました。「藩」という言葉が使われたのは、新井白石の『藩翰譜』が最初と言われています。
 知行高200石以上が旗本、以下が御家人というのが大体の目安です。
(1)1万石の大名の場合は、規定で235人と定められていました。
 その内訳は、以下の通りです(『日本史広辞典』などより)。
 騎士10人、数弓10人(手替3人)、鉄砲20人(手替5人)、旗指9人(宰領1人)、侍16人、立弓2人、  手筒2人(手替1人)、長刀2人、甲冑侍4人、馬印3人(宰領1人)、小馬印2人、挟箱持4人、
 簑箱2人、茶弁当1人、坊主1人、雨具持2人、草履取1人、口付6人、沓箱3人、(手替1人)、
 押足軽6人、箭箱2人、玉箱2人、十騎口付10人、若党10人、槍持10人、具足持10人(手替5人)、  小者6人、長持2棹8人(宰領2人)、小荷駄10疋10人
(2)2万石の大名の場合は、415人です。
(3)3万石の大名の場合は、601人です。
(4)5万石の大名の場合は、1005人です。
(5)10万石の大名の場合は、1929人です。

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