print home

エピソード

113_01

幕府と朝廷(禁中並公家諸法度・京都所司代)
 征夷大将軍は、形式的には、天皇から任命されます。しかし、実質的には、幕藩体制を維持するために、天皇の権威を利用しています。
 そのためには、天皇の権威を他者に利用されないことが、幕府には必要です。まず、経済的な弱者にする方法を採用しました。
 天皇には禁裏御料として3万石、上皇には仙洞御料として1万石、4宮家には4万石、公家には公家料として3万石が認められました。これでは、何も出来ません。
 次に法令による統制を行いました。
 1609(慶長14)年、沢庵は、後陽成天皇の命をうけ大徳寺の住持となり、紫衣を勅許されました。この紫衣は大徳寺・妙心寺だけに認められた特権で、京都五山には適用されませんでした。
 1611(慶長16)年、公武合体を図る将軍徳川秀忠は、五女徳川和子政仁親王の妃とすることを決めました。ところが、即位した後水尾天皇には寵愛の女官との間に皇子・皇女がいた事が発覚しました。徳川秀忠は、徳川和子の入内を見送ると発表しました。驚いた朝廷は、皇子の母を追放するという事件がありました。
 1615(元和元)年、徳川家康は、将軍徳川秀忠の名で禁中並公家諸法度を出しました。
 内容は、天皇のすべきこととして、第一に学問をあげています。それ以外には改元などに限定し、政治への介入を厳しく禁止しています。また、摂関の任免・公家の昇進など人事面での規制を行っています。
 また、後に問題となる紫衣については、次のように規定しています。
 「一、紫衣の寺は、住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、…甚だ然るべからず。向後においては、其の器用を撰び、沙汰有るべき事」
 この目的は、大徳寺・妙心寺の住持・紫衣は、天皇の勅許と決まっていましたが、それを幕府が制限することで、宗教をも支配する意図を示すものです。
 1615(元和元)年、この法令に違反していないかを監視する職制として京都所司代を設置しました。そして、この職制を有効にするため、武家伝奏という役職を公家の中に設けました。公家の情報を内部から京都所司代に報告する役目です。今風に言うと、幕府とつるんだ内部告発者ということになります。
 1615(元和元)年、徳川家康は、将軍秀忠の名で寺院法度を出しました。これを出した黒幕は、大徳寺派と対立状態にあった五山派の上にあった南禅寺の金地院崇伝です。崇伝は、この法によって、朝廷から特別扱いされている大徳寺・妙心寺を幕府の支配下に置くことを目的としました。
 1620(元和6)年、将軍徳川秀忠の娘徳川和子(14歳)は、後水尾天皇(25歳)の女御となりました。14歳の女御徳川和子に対する女官たちの眼は冷ややかであったといいます。
 1623(元和9)年、徳川和子は、皇女興子内親王(後の明正天皇)を出産しました。
 1625(寛永2)年、後水尾天皇は、財源確保のために、僧侶70人以上に紫衣を勅許しました。
 1626(寛永3)年、前将軍徳川秀忠(48歳)は、上洛して、紫衣勅許の調査を命令しました。
 1627(寛永4)年、将軍徳川家光は、京都所司代の板倉重宗に命じて制定以後の紫衣は公家諸法度違反として取り上げを命じました。
 1629(寛永6)年、大徳寺住職の沢庵は、故郷出石の投淵軒から上洛し、玉室宗珀とともに連署して幕府に強く抗議しました。そのため、沢庵は、幕府から江戸に呼び出され、訊問されました。それを受けた崇伝は、遠島流罪を主張し、天海は寛大な処罰を主張しました。
 1629(寛永6)年7月、幕府は、崇伝の主張を容れ、「権現様の法度に対して意義を申し立て候とは公儀をはばからざる不届の儀」として、沢庵は出羽の土岐頼行に、玉室宗珀は陸奥の内藤信照に流罪と決定しました。
 1629(寛永6)年11月、将軍徳川家光の乳母である春日の局は、将軍の意を受けて上洛し、後水尾天皇に無位無冠の身で、異例の対面を果たしました。
 11月、後水尾天皇は、紫衣事件と春日の局の対面事件がショックだったのか、「あし原や、しげらばしげれ、おのがまゝ、とても道ある、世とは思はず」という無念を歌を詠んで、突然退位しました。女御徳川和子も剃髪し、東福門院和子となりました。
 11月、皇女興子内親王(父は後水尾天皇、母は徳川和子)が即位して、第109代明正天皇となりました。奈良時代の女帝、元天皇・元天皇から一字を取り明正と諡号されました。
 これは、称徳天皇以来859年ぶりの女帝ということになります。春日の局は、朝廷側の視点で見れば許されざる者になりますが、幕府側から見れば、最大の功労者となります。
 歴史の評価が分かれることは、歴史の悲劇といえます。
 1678(延宝6)年、東福門院和子が亡くなりました。時に72歳です。誕生の地である江戸の幕府が、嫁ぎ先の地である京都の朝廷を圧倒する姿を見続けてきた徳川和子は、泉涌寺に葬られています。
沢庵漬けと沢庵、平等を説く僧侶が法衣で差別の不思議
 紫衣事件で、沢庵宗彭は、出羽(山形)に追放されました。沢庵は、貧しい農民のために、大根を糠と塩で漬ける保存食を考案し、これを「貯え漬」と呼びました。
 流罪が許された後、沢庵は、将軍家光に重用され、江戸に東海寺を与えられました。ある時、美食に飽きていた家光は、沢庵が美味しい料理を出すと聞き、急にに東海寺を訪れました。準備中といってなかなか料理が出てきません。しびれを切らしていると、やっと、湯漬けに貯え漬けが出されました。その素食を見た家光は、びっくりしましたが、食べてみると、とても美味しい。そこで、「この漬物は何か?」と問うと、沢庵は「貯え漬けといいます」と答えました。そこで家光は、「今日からは、この漬物を沢庵漬けと名付けてはどうか」と言ったので、沢庵が誕生したといいます。
 沢庵誕生秘話は、平安時代にすでに「たくわえ漬け」が存在していたので、フィクションです。
 「空腹が最大の美食である」という説は大賛成です。最近、娘の用事の関係で、2歳半の孫を1日中見ることが時々あります。雨が降って、散歩が出来ず運動不足の時は、食欲が余りありません。しかし、天気がよく、公園で、友達と夢中で遊んでいて、「お腹が空いた」という時は、びっくりするほどの食欲をみせます。
 次の伝説は、宮本武蔵です。宮本村の武蔵(またぞう)といわれてきた時、悪さをするので、木に吊るされました。これを説教して、木から降ろしてくれたのが沢庵ということになっています。
 また、沢庵の晩年、武蔵に「禅の修業は、愚堂(大仙寺八世住職の愚堂国師)に習え」という言葉を残して亡くなりました。武蔵はさっそく、美濃の大仙寺に行って禅の修業をしたといいます。そんな関係で、武蔵が座禅を組んだ言われる座禅石が残っています。
 1573(天正元)年、沢庵は、但馬の出石(私の住んでいる兵庫県)に生まれました。そんな関係で、沢庵寺といわれる宗鏡寺に何回か行ったことがあります。その裏の庵を「投淵軒」といいます。また、沢庵作庭といわれる庭園や、沢庵の墓などがあります。
 1605(慶長9)年、沢庵(33歳)は、堺の南宗寺の一凍紹滴和尚に従って禅の修行を行い、ついに悟りを開いて、「沢庵」という号を授けられました。
 1620(元和6)年、沢庵(48歳)は、「富貴を求め、人にへつらい、仏法を売るより、野僧たるべし」と感じて、生まれ故郷の出石に戻り、宗鏡寺の裏に「投淵軒」という庵に住みました。
 紫衣事件後、沢庵は、将軍秀忠の死による大赦令で許されましたが、何故か、江戸に行きました。柳生宗矩の進めと言います。それに応えた将軍家光は、4万坪の土地に、万松山東海寺を建立し、その開山として沢庵を迎え入れました。
 これを受け入れた沢庵は、「野僧たるべし」という生き方を捨てたことになります。そして、沢庵は「権力者にこびる”つなぎ猿”」と自分を評したといいます。私はこの事実を知った時、とてもショックでした。
 大徳寺の一休さんは、こだわりを捨てることを説いたのに、同じ大徳寺の沢庵和尚は、こだわりを選んだのです。
 最近、かなり大きな葬式に参列しました。僧侶が十人近くいました。衣の色が皆、まちまちでした。ある人に聞くと、本山への上納金の多寡によって法衣の色が違うということでした。
 修行とか徳の問題なら檀家の少ないお寺でも高位の法衣を着ることが出来ます。しかし、上納金が多いお寺は、檀家の多いお寺になります。
 それだけでも問題であるのに、仏の前の平等を説く僧侶自らが、法衣で差別を受けていることに不思議を感じました。沢庵が、紫衣にこだわった理由も、ここら辺りにあるのでしょうか。遠くなり、一休さん。
系図の見方(斉藤家、天皇、将軍)
斉藤利三 春日の局
お江与 ┏━ 徳川家光
  ||━ ┻━ 徳川和子
徳川家康 徳川秀忠   ||━ 明正天皇
後水尾天皇
  ||━ 後光明天皇
藤原園子
‖━ ━━━━ 霊元天皇
藤 原 国 子

index