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エピソード

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宗門改と寺社の統制(寺請制度・本山末寺制度)
 鎌倉時代の史料に、地頭がどんなに残酷な方法で税の徴収をしようとしても、飢饉にあえぐ百姓は「これ以上は出せません」と答えるばかりでした。
 地頭の家来で、賢い武士がおりました。彼は、神の化身に扮装して、飢饉の村に乗り込み、「米を出さないとたたるぞ!」と脅しました。すると、あれほど厳しい取立てにも抵抗した百姓が、さっと米を出したといいます。
 これは、武力により強制には抵抗できても、宗教による支配には抵抗できない人間の弱さを示す史料といえます。
 徳川家康は、人質時代に、人間のこの弱さを知りました。人間を支配するには、武力だけでなく、主教をも利用することを熟知していたのです。
 家康は、宗教を統制するために、経済的な面と法制的な面を利用しました。 
 経済的な面では、将軍家よりの寄進地として寺社地、大名・旗本よりの寄進地としての黒印地など40万石を与えました。
 法制的な面を見てみましょう。
 1615(元和元)年、徳川家康は、将軍秀忠の名で、寺院法度を出しました。主な内容に2つあります。
 (1)幕府が、直接、全国にある寺院・僧侶を統制するのは不可能です。そこで、京都や鎌倉の諸本山や諸本寺を通して、末寺院として統制することにしました。
 (2)今まで、天皇は、大徳寺と妙心寺に対して紫衣を勅許してきました。法令により、それは、幕府の許可事項としました。この規定により、紫衣事件が発生したことは、別な項で説明しています。
 1629(寛永6)年、絵踏制度を設けました。これは、キリスト教の聖画像を踏ませることで、キリシタンかどうかを検出する制度です。
 1637(寛永14)年、キリシタンの天草四郎をリーダーとした島原の乱がおこりました。
 1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を設けて、宗門改役を設置しました。
 宗門改役は、絵踏などをさせて、キリシタンや日蓮宗不受不施派かどうかを取り調べました。これを宗門改めといいます。キリシタンでないことが証明されると、宗門改帳宗旨人別帳)に記載されます。一度定められた寺院を変更することは出来ません。定められた寺院を檀那寺といい、記載された人を檀家とか檀徒(施主)といいます。こうした制度を寺請制度と言います。
 1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸宗寺院法度を出しました。これは先の寺院法度を強化したもので、幕府は、各宗派ごとに、その本山・本寺の地位を公認し、本山・本寺に末寺を統制する権限を与えました。これを本山・末寺制度といいます。
 内容は、(1)各宗の法式を守る(2)寺院の住持の資格や本末関係を厳正にする(3)自由な布教活動や自由な法談は制限する(4)新寺建立やそのための勧進募財は制限する(5)寺格や僧侶の階位も細かく規定する(6)住職になるための修行年数や学問も定める、などとなっています。
 1665(寛文5)年、4代将軍徳川家綱は、諸社禰宜神主法度を出しました。この法度に関わったのが吉川惟足です。彼は、日本橋の商人の養子で、後に、京都で吉田神道の萩原兼従に入門し、唯一神道の継承者と認められました。保科正之らの信頼を得て、幕府神道方に抜擢されました。
 内容は、(1)社家は神祇道を学び神体を崇敬し、神事祭礼を勤める(2)社家が位階を朝廷から受ける場合、執奏の公家がすでに決まっている場合はこれまでどおりとする(3)無位の社人は白張を着る。吉田家の許状があれば白張以外の装束を着けることができる(4)神領の売買・質入れは、してはならない。(5)神社は小破のときに修理を加えて維持する(6)各神社の神主は、京都の吉田家に行き、一定の修行を積んで装束の許状や神道裁許状・位階を受ける、などとなっています。
寺院・僧侶の堕落は、寺請制度・本山・末寺制度より
 私は以前から、現在の寺院・僧侶の問題点を指摘しました。特に、寺請制度・本山末寺制度に組み込まれてからの寺院と僧侶の役割は、葬儀と供養中心の宗教活動となりました。
 以下は、色々なメディア(書物やネット情報)からの指摘を掲載します。
 寺院法度により、教団は固定化し進取的気概を失った。
 寺院法度によって、仏教は民衆の生活の中に普及し、日々の生活や行事も仏教と不可分のものとなった。しかし寺僧は地位と生活が保証され、座位を争うて尊大となり、無為の生活に耽り堕落することも少なくなかった。
 本・末制度の徹底化は、もちろん本寺を頂点としたヒエラルキーであるため、末寺に不利なものであった。住職の任命権なども本山に任されていたため、末寺は様々な機会に、本山からの収奪(木仏・絵伝・鐘・御経・本尊・名号・御文等の購入強制)を受ける事になった。本末制度の進展に伴い、寺院の階級関係は促進され、寺格などが商品として取引されるようになり、宗教意識は薄れていく事になったのである。
 誰もが家単位でお寺の檀家となり、家族の年齢宗旨を書いて家の長が捺印し、所在の組頭らが連署して檀那寺の住職が証明した帳面を作らせていきました。これを宗旨人別帳といい一種の戸籍の役割を持たせ、寺の住職に管理させました。
 こうして、当時は結婚、旅行、引っ越しなどにも必ず檀那寺で寺請証文をもらわなくてはならず、また死亡した際にも住職が検分しキリシタンでないことを請けあいのうえ引導を渡すことが義務づけられました。
 こうして今日のような檀家制度が強要されることになり、さらに亨保七年(1722)頃にはその檀那寺の変更も禁止され、僧侶は尊大となり、ますます堕落を招く結果ともなりました。
 江戸時代は、全国の寺院が徳川幕府による厳しい宗教政策の管理下にあった。キリシタン禁制の名のもとに、「宗門寺請制度」「寺院法度」などで、民衆はどこかの寺の檀家に組み入れられ、国外(県外)旅行に出るときは、この檀那寺から手形を発行してもらい、各所の関所での取り調べを受けては移動するという、不自由な生活を余儀無くされていた。
 僧侶も同じようにして、屋外での自由な説法などはできずに、檀家の法事や葬儀などを真面目に執り行うことを主な仕事とされた。従って円空上人のように、諸国行脚する回国聖と呼ばれ、比較的高僧とは言えない修行僧などの旅などは許されていたようだ。しかし、その旅は決して楽なものではなく、事実、円空上人が津軽藩を追い出されて松前藩に移る様子が、津軽藩の日記から判明している。
 寺請制度と宗門人別帳であるが、これは宗教政策の皮をかぶった農村政策である。寺請制度の実施にて、農民は必ずどこかの寺の檀家となり、仏教教団に身分保証を依存せざるを得なくなった。本山からの収奪下にあった末寺は、農民への搾取、仏教式葬式の義務化や法事(お布施強要)の回数を多くする等をした。農民は拒否すれば、寺請証文を貰う事ができず、キリシタンの烙印を押されたり、村八分にあったりする可能性が大きく、この末寺の強要に従うしかなかった。
 幕藩体制の権力構造に組み込まれた僧侶たちは、もはや彼らにとっての聖人たり得ず、富くじや金貸しなどの副業まで行った。それに対する民衆の反発も強まり、幕藩側の会津藩、津和野藩、水戸藩などでは早くから寺院の統制、新興寺院の破却や合寺などが実施され、林羅山や山崎闇斎等の現実的な儒教意識からの排仏思想も声高に語られた。蕃山熊沢了介や正司考棋は、経済的・政治的な側面から仏教批判も強め、廃仏運動に繋がっていく。
 こうした指摘に、寺院や僧侶はどう対応するのでしょうか。
 現在の制度は、封建社会に組み込まれた状態のままです。近代社会にあった仏教であって欲しいと思うのは、上記の文をみても、私1人ではありません。是非脱皮して欲しいと思います。
 そのためには、やはり、仏教の原点に帰るしかありません。出家の持つ重さです。

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