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エピソード

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都市と町人(町奉行・五人組制度・運上金)
 江戸時代の都市には、城下町と三都がありました。
 城下町は、大名の支配する領国の政治・経済の中心をなす都市をいいます。
 城下町は、軍事的役割を果たしています。
 武士が住む町には、番町徒士町鷹番町などが配置されています。
 町人が住む町には、米町呉服町肴町塩町などが配置されています。
 手工業者の住む町には、鍛冶町大工町紺屋町鉄砲町などが配置されています。
 世界文化遺産の日本第一号に指定された姫路城周辺には、以下のような地名が今も残っています。
 城の北には坊主町、城の北東には鍛冶町・寺町、城の東には同心町、城の西には鷹匠町・農人町・小姓町、城の南一帯には西から魚町・塩町・忍町・綿町・呉服町・紺屋町・大工町・元塩町などがあります。
 三都とは、江戸大坂京都を言います。大坂を大阪と書く人がいますが、歴史的には、明治以降大阪という地名に変更されています。江戸時代は、大坂が正しいのです。
 三都は幕府が直轄して、町奉行が支配しています。
 町の運営は、町年寄(町奉行配下の町役人)や町名主(町年寄配下の町役人)があたります。彼らの主な任務は、町単位で火の番・夜番・木戸番があります。
 江戸幕府の経済的基盤は、本百姓にありましたから、都市の住民である町人は、士農工商という身分では、最下位に置かれていましたが、比較的自由な存在でした。
 都市の住人は、大きく分けて、町人地借店借住込み奉公人になります。
 町人とは、地主・家持・家主をいい、五人組に参加できる資格の都市の住民をいいます。都市に住んでいるから、町人とはいえません。農村の本百姓にあたります。
 地借は、屋敷地を借りている者で、町人ではありません。テナントを借りて商売している人やマンションに住んでいる人は、町人ではないのです。
 店借は、借家住いとしているもので、店子といいます。アパートやマンションに住んでいる人は、町人ではないのです。
 住込み奉公人は、当然、町人とは言われません。
 主たる税の対象として考えられなかったので、税は軽かったといえます。
 冥加金は、営業を免許してもらう時に払うおで、「営業を認めてもらった冥加に(有り難く)存じます」といって支払います。
 運上金は、売上金の何割かを運上(上納)するおです。
 その他、地子銭があります。これは、間口に応じて課税される宅地税です。京都の町屋を、鰻の寝床と表現します。これは、間口を狭くして、奥行きを長くすることによる節税対策の知恵が産み出した町人文化の1つといえます。
 御用金は、幕府や大名が臨時に課す税金です。つまり、幕府・大名に御用(必要)のおです。ここから、癒着が始まります。
 町人の生活は、多くが棟割長屋に住んでいました。井戸や便所や台所が共同使用なので、都市の共同体といえます。
 商人は、丁稚から手代、そして番頭に進み、そして暖簾分けしてもらって、主人になります。
 職人は、徒弟から、親方になります。ヨーロッパでは、親方になるための作品をマスターピース(傑作)といいます。
暖簾分け、職人芸と輸出立国
 今、商店では、近代化(アメリカナイズ)されて、暖簾を上げる店も少なくなりました。親から店を受け継ぐ時代です。丁稚から、厳しい修行をして、暖簾分けという劇的な感動が無くなったのでしょう。
 それでも、暖簾を外に出しているときは、開店中、半分の時は準備中、店内の時は閉店中という目印の店もあります。つい、入ってみたくなります。 
 私の卒業生に、調理の専門学校へ行って、今、コックや板前として活躍している人がいます。
 1人は、専門学校でなく、徒弟として働きたいという生徒がいました。大阪の吉兆へお願いしました。
 卒業後の5月の連休に私の家にやって来ました。聞く話は、異次元の様子です。5人いた徒弟は、1ヶ月で2人辞めたといいます。親方は、板場で、5人を並ばせているだけで、一言も指示をしません。親方が、包丁を洗い出すと、気がついたものが「洗いましょうか」というと、親方は「おう」と言うだけです。
 つまり、徒弟が言わない限り、見ているだけの状態が続きまし。最初は、「楽」ですが、段々苦痛になってくるそうです。気がつけば仕事にありつけますが、気がつかないものにとっては、暇で耐えられなくなり、辞めていくそうです。技術は覚えるものでなく、盗むものだという職人の世界の厳しさを知りました。
 盆や正月に、わが家にやって来ました。その時は同期生は、2人に減っていました。この頃になると、親方は、天ぷら油の温度を人差し指で判断する姿を見せます。温度計で測ると、親方の人差し指の温度と全く同じだったといいます。
 親方がしゃもじですくった量も、計量スプーンで計った量とピタッと一致するといいます。これが職人芸なのだと感心させられたものです。
 いくら技術を覚えても、どの味が美味しいかを見極める舌、どれが美しいと感じる感性が、最後に必要だということです。
 こうした技術、感性が、日本を輸出立国として発展させたのだと、ホトホト感じ入った次第です。

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