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エピソード

116_01

身分制度と、部落の歴史と、封建的な意識
身分制度と、部落の歴史
 近世江戸時代)は、封建社会ともいいます。封建社会は、ピラミッド型の身分制の社会でもあります。その頂点に立つ将軍と少数の武士が、支配者として君臨するためには、この身分制度は、固定する必要がありました。
 支配者である武士は、士農工商という身分の中にあって、四民の鑑と位置づけられ、「武士は食わねど高楊枝」とか「花は桜木、人は武士」などという倫理観を身に付けさせられました。
 主人に対する絶対的な忠誠心を誓わせられました。
 こうした制度の中で、形成されていったのが、士農工商の下に政治的に設定された「えた」「ひにん」という身分です。目的は、厳しく統制されている農民の武士に対する不満をそらすためです。
 ここでは、詳細に、史料を使って、説明したいと思います。
 ここに1678(延宝6)年の史料があります。
 この地では、延宝6年の検地が行われました。この時の基準は、1間=6尺1寸です。石高は659石5斗6升3勺と記録されています。以前行われた検地の石高は407石6斗7升3合です。
 この差は実に251石8斗8升4合3勺(62%)増加しています。その理由は、この時の基準が、1間=6尺3寸だったからです。同じ1間といいながら、畳2枚で2寸四方少なくして、同じ税を課していたのです。
 ここに1663(寛文3)年の史料があります。
 そこには「皮田村までも出来候」とあります。ここは、村里から少し離れてはいますが、農業をしております。
 姫路藩におけるかわた村の誕生を編年的に調べてみました。1646(正保3)年は、3カ村。1702(元禄15)年は、同じ3カ村。1749(寛延2)年は、29カ村になっています。実に10倍に増加です。
 江戸初期は、ほとんど同じ数だったのが、江戸中期頃、飛躍的に増加しています。中期は、惣百姓一揆といって、村人全体が一揆に立ち上がって時期と一致します。
 ここに3通の史料があります。
 1624(元和10)年、「百姓の内 本百姓、水呑百姓、かわた」と記録されています。
 1690(元禄3)年、「百姓の内 本百姓、水呑」「百姓の外 かわた」と記録が変更されます。
 1820(文政3)年、「穢多村」という記録になっています。
 如何に行政(大名)が、被差別部落を形成していったかを物語る史料です。
 ここに1776(安永5)年の史料があります。行政(大名)が、「皮多村は氏子と相かかわり申さず候」という命令を出しました。それに対して、同じ氏子であった隣村の庄屋が同じ「氏子村にて御座候」と証明して、氏子除外に反対しています。しかし、行政は、皮多村を強制的に氏子から除外し、皮多村だけで氏子を形成するようにさせました。
 1871(明治4)年、解放令が出された時、同じ氏子と称していた隣村の人々は、「昔から別々の氏子だった」と称して、元の祭りに復帰することに反対したということです。昔とは100年ほど前のことで、それ以前の1776年間は、仲良くしていたのです。
 形が変化すると、意識も変化することを示しています。
 ここに1つの統計があります。
 それによると、この村は、1697(元禄10)年には、年貢を79万石納めていました。
 ところが、1759(宝暦9)年には、年貢は163万石に増加しています。元禄年間は、慶長年間より60%近く年貢が増加しています。それより、宝暦年間は元禄の200%も増税を強いられています。これでは、農民は破綻をきたしています。
 このころ、大名や武士は、商品経済に巻き込まれ、膨大な借金生活を余儀なくされていました。この穴埋めを、農民に転化したのです。
 ここに1つの史料があります。
 1782(天明2)年、「真言宗を浄土真宗に改宗仰せつけられ候…御領主方へ真言宗相続の嘆書さし出し候えども、いったん大公儀の御裁許されば、再許の儀いたしがたき旨仰せ渡され…真言宗本寺願い等いたし候えども、…穢多寺を末寺にいたし候古例これなしとの返言…」とあります。内容は、真言宗であった寺院を浄土真宗に改宗させるということです。
 周囲の寺院が真言宗であるのに、自分とこの寺院のみが浄土真宗になるのです。孤立化政策です。
 藩(大名)の収奪が進みにつれ、差別・分裂政策が強化されていく過程がよくわかります。
10  ここに2通の史料があります。 
 1716(正徳6)年、他の村と同様に「皮田村の林と申す場所 西は…、東…」と記録されています。これは、皮多村にも入会権の所有を示す史料です。入会権とは、農業をする上で必要は草木灰などを獲得する共有林の権利のことです。れっきとした農民を意味しています。
 1765(明和2)年、「皮田村者ども儀は、峯通り草山の分、入会の証拠これなき上は、以来右草山へ立ち入り申すまじく候」とあります。わずか50年後にして、入会権を剥奪して、農民と切り離す政策がとられていることがわかります。信じられない事実です。
11  ここにも、信じられない史料が1通あります。
 1774(安永3)年、「衣服の定め…御定めの通り、浅黄無紋たるべし」とあります。
 1840(天保11)年、再び命令を出しています。
 当時、浅黄の無紋は葬儀用の衣装だったのです。外観で、周囲と切り離す政策です。ヒトラーがユダヤ人にダビデの星を付けさせたのと類似しています。
12  ここに1通の史料があります。
 1749(寛延2)年、姫路藩でかなり大きな百姓一揆が起こりました。指導者がなめら甚兵衛です。結局武士の武力の前に弾圧されました。処分された10人の内、遠島になった名前の中に、「穢多」として3人が記載されています。
 これは、藩(大名)の分裂政策を乗り越え、収奪されるという立場で利害が一致した者たちの抵抗を示しています。
13  1855(安政2)年、岡山藩は、財政危機に直面し、これを打開するため、29カ条の「御倹約御触書」を出しました。最後の5ヵ条に「穢多衣類無紋渋藍染に限り候義勿論之事に候」とか、「よその村へ行くときは下駄をはくことは許さない」などの項目がありました。
 そこで、岡山藩内の53カ村の代表千数百人が、岡山藩筆頭家老の伊木忠澄に強訴することにしました。八日市河原に結集した代表は、伊木の軍勢と対峙しました。その結果、「御倹約御触書」は撤回されることになりました。
 しかし、当時の法律では、一揆の首謀者は処罰するという規定があり、12名が牢に入り、そのうち6名は獄死ししました。その後、牢内外の被差別部落民などの歎願運動により、残りの者は、2年後に釈放されました。これを渋染め一揆と言います。
  これも、藩(大名)の分裂政策を乗り越え、収奪されるという立場で利害が一致した者たちの団結の勝利を示しています。
封建的な意識
 ピラミッド型の身分制が誕生すると、それに対応する者の考え方が生まれました。
 人間が2人寄れば、どちらが主従かを決める必要があります。陰陽思想ともいいます。
 主人(主君・親分・主人)と従者(家臣・子分・家来)の関係です。
 家を継ぐことは、家を代々維持することになります。家を継ぐ者がいないと、その家は断絶します。家長が絶大な権限を持ち、次三男は厄介と呼ばれました。
 結婚は、家の存続のためなので、「子なきは去る」と言われました。簡単な離縁状を「三行半」といいます。妾の制度も当然視されました。
 ここから、男尊女卑の考えが生まれます。「女子三従」の教えと言って、「幼にして父に従い」「嫁しては夫に従い」「老いては子に従う」があります。
 「七去」というのもあります。「姑に従わない」「子を生めない」「多言」「窃盗」「淫乱」「嫉妬」「悪疾」は、妻を離婚できる七つの理由となっています。
今に残る封建遺制
 私は、剣道を指導していました。練習が終わると、額を背に私が座ります。それに正対して、3年生が一列目、2年生が二列目、1年生が三列目に座ります。主将は、私から見て一列目の左端に座って、
「黙想」などの号令をかけます。これは、どの学校でも、柔道部でも共通しています。上座・下座を意識しているからです。
 他方、私は、バレーボールやソフトボールも指導しました。私を中心に、学年関係なく、円陣を組みます。キャプテンは、私の左側にいて、色々な指示を出します。ヨーロッパ系のサッカーなども共通しています。
 会社の幹事になった教え子がいます。上司が来て、一番いい席に座席に案内した時、先輩から「上座は、そこではないだろう」と注意されたといいます。そういえば、宴会場には、確かに床の間や掛け軸があるので上座ではあるが、窮屈で貧弱な所もあります。それより、中央で、ゆったりしている場所もあります。どちらにするか迷うこともありますが、上座は上座だと割り切って、案内することにしています。
 かなり年配の先輩の家を訪問した時、上座に案内された時があります。座り心地が悪いものです。
 毎年4月には歓送迎会があります。日常会話することがない人と会えたり、先輩から説教されたり、後輩を指導したり、お互い本音が言える場なので、大切にしています。この一次会は、自分の積み立て金が当てられます。ただ問題は二次会です。上司が、「来い」といって、スナックに行くのはどこでも見られる光景です。「わしのおごりや。どんどん飲んでいいよ」と言われ、一定の時間が来ると帰りたい私を、なかなか開放してくれません。「今夜はオールナイトや」と盛り上がる。
 最近、「自分のお金で飲むのに、説教されたり、指導されたりされなあかんのや」と言って、歓送迎会に出席しなかったり、二次会も自分たち気の合った者同士で行く若者が増えているそうです。
 会社を離れたら、個人として独立するという意味では、いい傾向ですが、異年齢・異文化を持った人との交流は、面白みもない均質の金太郎飴に刺激を与えるという意味では、大切にしたいものです。
 初めて、二次会に行った時きのことです。顔も体型も違う若い女の子が、年配の人に「ママさん」と盛んに言っている。そこで、私は、素直に「母娘(おやこ)ですか」と聞いたものです。
 母娘でもないものが、親子の振りをするのが擬似親子関係という色街の話を知っていましたが、体験したのは初めてでした。売られた娘に、飼い主の女主人が「これからを私を親と思いなさい」という場面があります。本当の親なら、優しさがあるから、厳しさが活きてくるのです。擬似はあくまで擬似です。
 自治会などの集会では、「うちのオナゴ」と表現する年配の人が多い。アナゴやイナゴは聞いたことがありますが、最初「オナゴ」という意味が分かりませんでした。話の前後を聞くと、どうやらその人の奥さん(妻)のことを言っていることが分かってきました。
 妻を、言葉で説得や納得をさせられない夫は、暴力を振るったり、このような言葉で優越感を持つしかないのでしょうか。基本的な解決にはなりません。本を読んだり、相手の話を聞いて、読解力を強め、自分のメッセージを伝える表現力を磨くしか、方法はありません。
 先日、『たけしのTVタックル』をみました(2005年5月)。私も読んだことのある『タッチ』というマンガを描いたヒゲの漫画家が出演していました。彼は「ペリー来航」によって日本がダメにされたと語っていました。別なゲストがペリーの来航によって日本に民主主義という考えがもたらされたと発言すると、ヒゲの漫画家は「日本では、江戸時代に民主主義は確立していたんだ」と反論しました。
 もっと、歴史を勉強して発言して欲しいと思いました。
 「あとがき」に「欧米列強さえ来なければ幕藩体制で良かったのだ。たとえ身分制度があり、差別のある社会だったとしても」という一文が気になったので、2005年8月発行のゴーマンな漫画家の本を初めて買いました。
 今(2005年)は、何を言っても、表現の自由や思想・信条の自由が保障されています。しかし、時流に乗って売れた漫画家なので、哀れさも感じます。

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