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エピソード

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江戸初期の外交(リーフデ号・朱印船貿易・日本町)
 1551(天文20)年、ポルトガル船が、豊後日出に来航しました。
 1581(天正9)年、スペイン領オランダが、イギリスのエリザベス女王の援助を受けて、独立しました。
 1584(天正12)年、スペイン船が、平戸に来航しました。
 1588(天正16)年、イギリスが、スペインの無敵艦隊アルマダを撃破しました。
 1592(文禄元)年、文禄の役が始まると、徳川家康は、豊臣秀吉から、肥前名護屋城に呼び出されました。しかし、徳川家康は、伊達氏の防衛と関東経営を口実に参戦しませんでした。
 参戦しない徳川家康は、平和主義者と理解され、また兵力・経済力を温存し、天下の権力を握ることが出来ました。
 1597(慶長2)年、豊臣秀吉は、慶長の役を始めました。
 1597(慶長2)年、徳川家康は、ノビスパン(スペイン領メキシコ)に使節を派遣しました。
 1600(慶長5)年、イギリスは、毛織物工業の発展を背景に、東インド会社を設立しました。
 1600(慶長5)年、オランダ商船リーフデ号が、豊後臼杵に漂着しました。乗組員110名の内、生存していた24名が上陸しました。翌日、24名の内、3名がなくなりました。
 この情報を知った徳川家康は、船長・航海長ウイリアム・アダムスと航海士ヤーン・ヨーステンを大坂城に招いて、接見しました。徳川家康は、今までのカトリック側の情報しかなかったので、プロテスタント側の情報は新鮮に写ったといいます。
 ヨーステインは、徳川家康から朱印状を得て、コーチ・シャム・パタニ・カンボジア・トンキンなどへ船を遣わして貿易に従事しました。これが朱印船貿易の最初といえます。
 アダムスは、徳川家康から博識を評価され、貿易・外交の顧問に登用されました。 
 1603(慶長8)年、徳川家康は、征夷大将軍職に任命され、江戸幕府を開きました。徳川家康は、こうした世界情報を元に、外国との交渉も積極的に行いました。まず、朝鮮との国交回復に着手しました。
 1604(慶長9)年、朝鮮は、それに対して、使節を日本に派遣しました。徳川家康の朝鮮不出兵が、高く評価されました。
 1604(慶長9)年、徳川家康は、アダムスの助言を容れて、糸割符制度を制定しました。目的は、マカオのポルトガル商人が、中国産生糸(白糸)を一手に長崎へ輸送して暴利を独占していたことを抑圧するためです。
 その方法は、日本の特定の商人に仲間をつくらせ、輸入生糸を一括購入・販売させる制度を確立し、年々春に輸入生糸の値段を決め、その値で独占的に購入しようとするものです。
 この輸入生糸専売証札をもつ仲間を糸割符仲間といい、江戸・大坂・京都・堺・長崎の五ケ所の商人を任命しました。この五ケ所の商人を五ケ所商人といいます。
 1607(慶長12)年、朝鮮から通信使(朝鮮の慶賀使節)が来日しました。ここに、日朝の国交が正式に復活しました。
 1609(慶長14)年、日朝の間に、己酉条約が結ばれました。この結果、対馬の宗氏が、毎年、20隻を朝鮮に派遣できるようになりました。
 1609(慶長14)年、アダムスの要請で来日したオランダ人は、徳川家康の許可で、平戸に商館を開設しました。
 1609(慶長14)年、前のスペイン領フィリピン群島臨時総督のドン=ロドリゴが、メキシコに帰る途中、暴風に遭い、房総半島に漂着しました。
 1610(慶長15)年、ノビスパンからの情報で来日したスペイン人は、徳川家康の許可で、平戸に商館を開設しました。
 1610(慶長15)年、ドン=ロドリゴは、徳川家康が新造した船で、メキシコに向け出発しました。この時徳川家康の命を受けた田中勝介が、同乗しました。田中勝介は、アメリカ大陸に渡航した最初の日本人ということになります。
 1611(慶長16)年、駕籠かきの山田長政は、海外へ進出する商人たちに刺激され、朱印船にのってシャム(現在のタイ国)に渡りました。
 1613(慶長18)年、伊達政宗が、宣教師ルイス=ソテロの助言を容れ、支倉常長をスペインに派遣しました。支倉常長は、メキシコからスペイン国王に会い、そしてローマ教皇に謁見しました。これを慶長の遣欧使節といいます。
 1613(慶長18)年、アダムスの要請で来日したイギリスのジョン・セーリスは、徳川家康の許可で、平戸に商館を開設しました。
 1620(元和6)年、支倉常長は、ヨーロッパから帰国しました。
 1621(元和7)年、山田長政は、アユタヤにとどまらず、マラッカや今日のインドネシアなど東南アジアを股に掛ける大仲買商人として活躍します。やがて、山田長政は日本人町(住民1万人)の頭領となり、ルアンというアユタヤの官位を与えられます。優れた軍事的才能を持っていた山田長政は、日本人の武士たちで構成された日本人義勇隊の隊長として、タイの内乱や外征に日本人義勇隊を率いて参戦し、つぎつぎと武勲を立てます。
 山田長政の活躍で分かるように、この頃の日本人は、海外に飛躍しました。海外渡航者は、10万人を越えたといいます。
 渡航場所は、ルソン・トンキン・カンボジャ・シャム・コーチ・高砂などです。
 鎖国のイメージが強い私には、海外で活躍していた夢のような時代があったのです。
異国で食える技術・知識は、重たくない財産
 豊臣秀吉は、口実を設けて朝鮮出兵を拒否した徳川家康の真意を知るために、千利休に家康の茶会を設けさせました。秀吉は、千利休に「家康に口実以外の真意がある時は、毒殺せよ」と命じました。
 逆に家康は、千利休の立場を理解して、「武力でなく平和的な貿易を望んでいる」と告白します。千利休は、家康が自分と同じ考えだと知り、毒殺することを諦めたといいます。
 後に、このことを秀吉が知ることなり、千利休の死の原因の1つになったという伝聞があります。
 徳川家康は、リーフデ号の生き残りから、アダムズとヨーステンのみを厚遇しました。
 アダムスは、三浦半島に250石の領地を与えられ、名前も「三浦按針」と名乗りました。按針は、パイロットのことです。
 ヤーン・ヨーステンも、今の東京駅あたりに屋敷を与えられました。この土地のことを、東京「八重洲」口などというのは、「ヤーン・ヨーステン」の名前から由来しています。
 異国でも食える技術・知識の大切さを、知らされる一件です。技術や知識は、重たくない財産です。
 何故日本へ来航したヨーロッパ人の商館が、平戸に開設されたのでしょうか。
 平戸には、2回行きました。現在は、平戸大橋で繋がれていますが、当時は平戸島だったのです。平戸港は、奥深く入った入り江で、天然の良港です。平戸城からは、港が一望できます。港の出口の北側にオランダ商館跡が残っています。その周辺には、オランダ塀・倉庫の壁・井戸・埠頭の階段なども残っています。
 1628(寛永5)年、長政は、シャムの王女と結婚して、タイで最高の官位オークヤーに任じられました。
 1629(寛永6)年、長政は、ソンタム王に仕え、日本兵を率いて勇敢に戦い、ついに大臣になりました。
 ソンタム王が亡くなると、後継者争いが起こりました。長政は、日本兵を率いて、反乱を鎮め、ソンタム王の子を即位させました。
 しかし、長政は、王位を狙っていた王族で摂政のオークヤー・カラホームに妬まれて、アユタヤからはるか南のリゴールの太守に左遷されました。
 ある時、リゴールにあるパタニー族が侵入してきました。この時の戦いで、長政は、右足に傷を負いました。しかし、治療したシャム人は、長政の傷口に毒を塗り、それが原因で、亡くなりました。
 1630(寛永7)年、カラホームは、王位につきました。日本人義勇隊は、この事実を認めなかったので、カラホーム軍によって、アユタヤの日本町は焼き払われました。
 1632(寛永9)年、アユタヤの日本町は、人口も400人になり、再建されました。しかし、日本の鎖国政策のため、やがて、アユタヤの日本人町は消滅しました。
 山田長政は、身一つで、海外に雄飛し、異国に地で、大臣になりました。
 アダムズは、日本に来て、将軍家康の顧問になりました。
 異国で食える技術・知識があれば、どこへ行っても、恐くないということを教えられました。

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