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エピソード

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江戸初期の、キリスト教の禁止(元和の大殉教)
 江戸幕府には、キリスト教は禁止したいし、キリスト教と結合している貿易で利益を得たいしという矛盾を抱えていました。以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師が来日するようになりました。
 1600(慶長5)年、リーフデ号に乗ってイギリス人とオランダ人が来日しました。彼らの宗教は、プロテスタントといい、宗教と経済は分離されていました。彼らの情報により、スペイン・ポルトガル人の宗教は、カトリックといい、武力による植民政策に彼らが協力していることを知りました。
 以前、大村純忠長崎領をイエズス会に寄進している事実も知りました。
 1601(慶長元)年、イエズス会の教会が再建され。日本で最初の2人の司祭が叙階されました。
 1604(慶長9)年、糸割符制度により、ポルトガル人は、大打撃を受けました。
 1608(慶長13)年、キリシタン大名の有馬晴信朱印船が、マカオに寄港した時、朱印船の乗組員とポルトガル人が争い、60名の日本人が殺害されました。
 1609(慶長14)年、マカオの日本人殺害に関与したアンドレ・ペッソアが、マードレ・デ・デウス号で長崎に来航し、徳川家康に釈明しました。しかし、徳川家康は、有馬晴信に、ペッソアの召喚命令しました。ペッソアは、これに応ぜずマードレ・デ・デウス号で無理やり出港しようとしました。そこで、有馬晴信は、長崎奉行長谷川左兵衛権六らとマードレ・デ・デウス号を攻撃し、撃沈させました。
 これをマードレ・デ・デウス号事件といいます。この事件で、ポルトガルとの貿易は、中断されました。
 1610(慶長15)年、幕府は、ポルトガルとの貿易を再開しました。
 1611(慶長16)年、スペイン使節が、諸港を測量しました。ウイリアム=アダムスは、徳川家康に「各港にどの船が入港できるか調べ、後で軍隊を派遣する意図があります」と密告しました。
 1612(慶長17)年、岡本大八事件が起こりました。徳川家康の側近である本多正純の与力岡本大八は「マードレ・デ・デウス号事件の恩賞として有馬の旧領を与える意向がある」と、架空の話を有馬晴信に持ちかけました。有馬晴信は、賄賂を岡本大八に贈ると同時に、本多正純にも依頼したので、大八の詐欺事件が発覚しました。苦し紛れに岡本大八は、有馬晴信の長崎奉行暗殺計画を暴露しました。その結果、有間晴信・岡本大八が処刑される事件です。
 有馬晴信・岡本大八がキリシタンなので、徳川家康のキリシタン狩りが始まったとされています。
 1612(慶長17)年、幕府は、直轄地を対象としたキリスト教禁止令を出しました。しかし、この禁教令以降も、スピノラ神父は熱心に宣教を続けたので、長崎奉行の長谷川権六によって捕らえられ、大村に送られました。
 1613(慶長18)年、幕府は、全国を対象としたキリスト教禁止令を出しました。
 3月、宣教師モラレスが捕らえられ、壱岐の牢に入れられました。
 8月、モラレスが大村の牢に移されました。
 1614(慶長19)年、幕府は、キリシタン国外追放令を出しました。
 1615(元和元)年、日本各地にいた外国人宣教師や高山右近(63歳)などのキリシタン、それに日本修道女たちは長崎へ送られ、数隻の船でマニラ・マカオに追放されました。その数300人といわれます。
 1616(元和2)年、絵踏が行われました。
 1616(元和2)年、徳川家康がなくなり、徳川秀忠が2代将軍になりました。
 1619(元和5)年、京都で63名のキリシタンが逮捕され、六条河原に立てられた27本の十字架に52名の信徒が11名の子供たちとともに火あぶりの刑に処せられました。橋本如安の妻テクラは、最後まで3人の子供を抱きしめて亡くなりました。
 1620(元和6)年、ペトロ・デ・ズニガとドミニコ会のロレス神父は、商人に変装して、平山常陳の船に乗船しましたが、イギリスとオランダの連合艦隊に捕ました。
 1621(元和7)年、オルファネルは、ドミニコ会の新管区長代理を選出するため長崎に向かう途中、捕まり、大村の牢に送られました。
 1621(元和7)年、リカルド・デ・サンタナは、長崎で病に倒れた時、背教者の密告によって捕らえられました。
 1622(元和8)年、徳川秀忠は、なかなか禁教令が効果を出さないので、キリシタンの大弾圧の機会をねらっていました。
 長崎の西坂で、カトリックの宣教師・信者55名を火あぶりと斬首に処しました。これを元和の大殉教といいます。
 マニラから鹿の革を積んで長崎に向かう平山常陳船長の御朱印船が、平戸を基地にしていたイギリス・オランダ連合艦隊に捕まり、平戸に連行されました。積荷の隙間に身を隠していた2人のスペイン人宣教師が見つかりました。平戸の役人は、長崎奉行の長谷川権六に報告しました。鈴田の牢屋からスピノラとモラレスが呼ばれました。また、平戸で捕らえられていたペトロ・デ・ズニガも、フロレス神父も、2人を宣教師とは言いませんでした。
 しかし、転向(棄教)したトマス荒木が、ペトロ・デ・ズニガの身分を話したので、全てが明るみに出ました。
 日本に着いたばかりのドミニコ会のコリアド神父は、フロレスの救出をはかりました。しかし、同行した信者が逆に捕まりました。。コリアド神父は、無責任にも日本から逃げ出しました。コリアド神父を捜していた役人は、平戸で活躍していたコンスタンソ神父とその伝道士の存在を知ることになりました。この一連を動きを知った将軍徳川秀忠は、激怒して、捕えられていた宣教師や信者を処刑するよう命じました。
 長崎奉行長谷川権六が、刑を執行しました。
 火あぶりの刑に処せられたのは25人で、アウグスティノ会のペドロ・ド・ツニガ、ドミニコ会のフロレス神父と、イエズス会員カルロ・スピノラ神父、船長の平山常陳らがいます。スピノラ神父をかくまったポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人イサベラとその子イグナシオ(4歳)もいました。
 残る30人は、斬首されました。女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった家の家族全員を処刑にしたからでです。
 1623(元和9)年、徳川家光が3代将軍になりました。
 1623(元和9)年、江戸で、キリシタン50人が火あぶりの刑に処せられました。
 1624(元和9)年、東北で、キリシタン109人が火あぶりの刑に処せられました。
 1624(元和9)年、平戸で、キリシタン38人が火あぶりの刑に処せられました。
転向の手段、様々な拷問
 1868(明治元)年、ローマ教皇ピウス9世は、55人全員を聖人に加えました。神を愛して死ぬものは、死後、神により愛されるという殉教の精神が、認められたのです。
 拷問に苦しめられて、転向するものを、当時は「転ぶ」といわれています。背教者はヨーロッパ風の転向者です。
 拷問は、転向・入信者の密告・入信の予防が目的なので、非常に残酷で、見せしめ的なものが多い。もう1つは、キリシタン特有の「殉教」を体験させないことも重要な目的でした。
 これを考え出した者のエネルギーを疑いたくなります。いくつかを紹介します。
 「穴吊り」は、深い穴の中に、グルグルに縛って逆さに吊るします。そのままでは、下部の頭に血が下がって、すぐ、死んでしまいます。それでは意味が無いので、耳に穴を開けて血を流させ、苦しみを長引かせました。
 「雲仙地獄責め」は、硫黄がツブツと沸き立っている真上に逆さに吊るします。硫黄の臭いと、熱気で気絶すると、吊り上げます。気がつくと、吊り下げます。これを何回も繰り返します。
 「晒し責め」は、裸にして、面前で縛りつけたり、寒中、屋外に立たせたりします。これは、辱めるのが目的の拷問で、女性信者に利用されました。 
 「算木責め」は、三角形の板を三枚並べ、裸にして、その上に正座させます。自分の体重の半分くらいの大石を一個、二個と膝の上に乗せていきます。自分の体重と大石の重さで、脚は千切れます。
 「火あぶり」は、柱にくくりつけ、足元に置いた薪を燃やします。とろ火にして、苦しみを長引かせました。
 「簑踊り」は、手足を縛り、その上に着せた藁製の簑に火をつけます。熱くて、苦しみもだえる姿は、まるで蓑が踊っているように見えたといいます。
 転向を取り扱った小説で、最も印象に残っているのは、遠藤周作著『沈黙』です。
 その拷問のシーンは、海に立てた柱に縛りつけ、満潮になるにつけ、海面が口から鼻へと徐々に迫り来る状況が描かれていました。
 パードレ(宣教師)は、自分への拷問には耐えられますが、信者への拷問にどう対処するのかが、この小説のテーマに思えました。パードレの前で、埋められて首だけ出した信者が、役人の乗った馬の蹄で蹴散らされようとしています。それに我慢できず、パードレは「転び」ます。この時は、神も許す…それをクリスチャン遠藤周作さんは言いたかったのではないでしょうか。
 これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高と言われています。
 島原の乱の伏線が、ここらにありそうです。

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