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エピソード

118_02

島原の乱と、鎖国の完成
鎖国の完成
 1623(元和9)年、イギリスは、オランダとの競争に敗れて、平戸の商館を閉鎖しました。
 1624(寛永元)年、マニラからのスペイン商船で、宣教師の密航が発覚しました。その結果、幕府は、スペイン船の来航を禁止しました。
 1624(寛永元)年、オランダは、台湾南部にゼーランディア城を築いて、台湾を占領しました。オランダは、外国船から10%の関税を徴収しました。中国商人は、これを承諾しましたが、日本商人は拒否しました。オランダ総督は、日本の朱印船の積み荷を差し押えるという事件が発生しました。
 1627(寛永4)年、長崎代官末次平蔵は、朱印船を台湾に派遣しました。その船長が浜田弥兵衛でした。オランダは、ピーテル・ノイツを台湾長官に任命し、平戸に派遣することにしました。
 あわてた浜田弥兵衛は、先住民14人を連れて、ノイツのあとを追って平戸に入りました。連行した先住民は「台湾全土を将軍へ献上します」と言わされました。
 平戸から江戸へ出発したノイツを追って、末次平蔵は、先住民を台湾からの朝貢使に仕立てて江戸へ送りました。そのため、江戸幕府は、ノイツを正式な使節として認めませんでした。ノイツは、手ぶらで台湾に帰りました。
 1628(寛永5)年、台湾に戻ってきた浜田弥兵衛は、武器を没収され、船員と先住民らも拘束されました。浜田弥兵衛は、部下の170人を率いてで長官府を襲撃し、ノイツらを拘束しました。お互い人質を5人ずつ出して、長崎で双方解放することで、この問題は決着しました。
 1631(寛永8)年、幕府は、奉書船制度を発足させました。内容は、徳川家康が許可した朱印状以外に、老中が許可した奉書がなければ、海外渡航を禁止するというものです。幕府縁故以外の商人を排除する制度です。
 1633(寛永10)年、奉書船以外の日本船の海外渡航と海外居住5年以上の者の帰国を禁止します。
 1634(寛永11)年、内容は、1633年と同じです。
 1635(寛永12)年、日本人の海外渡航と海外居住者の帰国を全面的に禁止しました。この結果、朱印船貿易は途絶えました。
 1636(寛永13)年、ポルトガル人が出島に移されました。通商に関係のないポルトガル人の子孫(混血児)が、ジャガタラジャカルタ)に追放されました。 
 1637(寛永14)年、島原の乱が起こりました。 
 1638(寛永15)年、老中松平信綱は、オランダ船の援護により、島原を乱を鎮圧しました。
 1639(寛永16)年、幕府は、ポルトガル船の来航を禁止しました。
 1640(寛永17)年、幕府は、寺請制度を発足させました。
 1641(寛永18)年、幕府は、平戸のオランダ商館を閉鎖し、オランダ人を長崎の出島に移しました。 
 鎖国といっても、日本には「4つの窓」が開いていました。
 オランダ、李氏朝鮮、蝦夷地、琉球王国を通じて中国と朝貢貿易の4つです。
 イギリスは撤退し、カトリックのスペイン・ポルトガルが来航を禁止されただけで、鎖国といって大騒ぎすることではありません。鎖国を通じて、幕府がすべての貿易・情報をコントロールしただけのことです。
島原の乱
 1601(慶長6)年、肥前唐津寺沢広高は、関ヶ原の戦いの功で、天草4万石(飛地)を加増され、計12万3000石となりました。そこで、寺沢広高は、富岡城を築き、代官を配置して天草を支配しました。天草は、キリシタン大名小西行長の領地でした。寺沢広高は、元々2万1000石の石高を4万2000石として、前領主の2倍の税金を課しました。年貢を納められない農民には、キリシタンだと断定して、「蓑踊り」などの拷問をかけました。
 1616(元和2)年、松倉重政は、肥前島原城主(4万3000石)となりました。島原は、キリシタン大名の有馬晴信の領地でした。 松倉重政は、元々4万3000石の石高を6万石として、前領主の1.4倍の税金を課しました。年貢を納められない農民をキリシタンだと断定して、「蓑踊り」などの拷問をかけました。
 1616(元和2)年、松倉重政から国外追放になったママコス神父が、「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし」と予言して、日本を離れました。
 1634(寛永11)年〜1637(寛永14)年、凶作が続き、餓死者も出ました。
 1637(寛永14)年6月、天草では、毎日、夕方になると、西の雲が赤く焦がれる不思議な現象がおこりました。秋には桜が咲きました。また、数千匹の蛙が共食いをしたり、山犬がかみ合う異常現象が見られました。
 人々は、ママコス神父の予言を思い出しました。天草の大矢野島に住む小西行長の浪人の子で、名を益田四郎(16歳)といいます。彼は、5歳の時に字を書き、習わずして書を読みました。
 キリシタンの一部は、この噂を積極的に利用し、「22年前に国外追放された神父が予言したことが起きている」と言って、キリシタンへの再改宗を勧めて回りました。
 1637(寛永14)年10月23日、島原の有馬村で、「デウスの絵」を掲げ、「改宗しない者はこれから起きる最後の審判で火の地獄の中に沈む」と布教していた2人のキリシタンが、家族と一緒に捕まりました。
 10月24日、村人は、捕まった2人の家の前に集合しました。林兵左衛門本間九郎左衛門の2人の代官が、現場に赴き、解散させようとしましたが、拒否されました。そこで、代官の林兵左衛門が「デウスの絵」を破って、農民を叩いて追い払おうとしました。怒った村人は、林兵左衛門を取り囲み、叩き殺してしまったのです。もう1人の代官本間九郎左衛門は、島原城に、「キリシタンの反乱」を報告しました。
 村人としては、後には引けない状況になっていました。今までの重い年貢とキリシタン弾圧への不満がいっきに、一揆へと駆り立てたのです。
 10月24日夜、有馬の一揆の噂は、島原藩南部の諸村に飛び火しました。
 10月25日、松倉重政は、島原城内の兵を総動員して、有馬村方面に向かいました。しかし、一揆は手が付けられない状態でした。やむを得ず鎮圧軍は島原城に引き上げました。
 10月26日、一揆側は、各村を糾合しながら、島原城に迫りました。城側は、籠城作戦を採用しました。
 10月、島原の一揆は、天草にも伝わりました。大矢野島の益田四郎をいただく人々が動き始めました。この報告が唐津城に届くと、寺沢広高は、1500の兵を出発させました。そして、大矢野島を急襲して益田四郎の母などを捕まえました。この結果、平静を保っていたキリシタンの一部が暴徒化し、これが村人を巻き込んだ一揆に発展していきました。
 一揆は、富岡城を包囲し、城側は、籠城作戦を採用しました。
 11月9日、幕府は、島原と天草の一揆の情報を知りました。
 11月10日、幕府は、板倉重昌を派遣しました。
 11月14日、島原の一揆は、富岡城代の三宅藤兵衛を戦死させました。
 11月下旬、幕府軍派遣の知らせを聞いた島原と天草の一揆勢は、島原城・富岡城の攻略をやめ、合流して島原の廃城になっている原城跡にたてこもりました。一揆に参加したキリシタン・百姓がが全員、親も子も、原城跡に入りました。その数は、3万7000人になりました。益田四郎(天草四郎時貞)を総大将としました。
 12月上旬、板倉重昌が率いる幕府軍は、島原に到着しました。板倉重昌は、松倉重政・寺沢広高の両軍、それに鍋島・細川の協力軍とともに、原城跡の攻略にとりかかりました。しかし、急な連合軍に、1万5000石の板倉重昌と54万石の細川家・36万石の鍋島家との対立もあり、ほとんど成果が上がりませんでした。
 12月27日、幕府は、板倉重昌の指揮に問題を感じて、老中松平信綱を任命しました。その兵の数は一揆勢の3倍にあたる12万人でした。
 1638(寛永15)年1月1日、老中松平信綱の派遣を知った板倉重昌は、あせって、松平信綱が来る前に、手柄を立てたいと無謀にも原城跡に突入を図りました。しかし、一揆勢の鉄砲に撃たれて、あえなく戦死してしまいました。この戦闘で、幕府軍の死者は4000人、一揆勢の死者はわずか100人だったといわれています。
 1月4日、老中松平信綱が、島原に到着しました。松平信綱は、状況を判断して、兵糧攻めを採用します。また、松平信綱は、オランダに、船からの原城砲撃を依頼します。オランダは、砲撃の条件として、ポルトガル船の日本来航禁止を提案しました。
 2月27日、幕府軍は、海陸から、総攻撃をかけます。一斉射撃で、城内がひるんだ隙に、突撃隊が塀を乗り越えて、城内に突入しました。
 2月28日、益田四郎の首は、細川家の家臣である陣佐左衛門が取りました。そして、一揆勢は、事情聴取のために残された山田右衛門(天草四郎の陣中旗をつくった南蛮絵師で、内通者)をのぞいて、女子供を含め、3万7000人の全てが殺害されました。
 その後、島原藩主の松倉重治は、斬罪に処せられ、天草藩主の寺沢堅高は、切腹しました。
ジャガタラ文、出島
 外国人は、その頃、エリートコースの人間と見られていました。喜んで嫁になった日本の娘との間に、ハーフ(当時でいえば混血児)が生まれました。
 時代が変わり、外国人の父は国外に追放され、ハーフの子供はジャガタラ(今のジャカルタ)などに追放されました。ジャガタラお春という有名な子供がいました。その子の銅像を見たことがあります。その子には何の罪も無いのに、歴史が、その子を苦しめます。
 「日本こいしや こいしや かりそめに たちいでて 又とかえらぬふる さともおもへば 心もこころなず
なみだにむせびめもくれ ゆめうつつと候ども あまりのことに ちゃつつみ一つ しんじまいらせ候
あらにほんこいしや こいしや こいしや うばさままいる こしょろ」(この短い手紙に、こいしやという表現が5ヶ所あります。その子と同じ立場に立ったとき、胸がつまる思いです)
 島原の北部は領主側に付いた村です。板倉重昌が上陸したのは神代で、松平信綱が上陸したのは東古閑です。領主側の村です。
 島原の中部は、島原の乱に一部が参加した村です。
 島原の南部は、全員が島原の乱に参加した村です。その中心に原城があります。
 幕府は、島原の乱をキリシタンによる反乱と位置づけ、徹底したキリシタン弾圧の口実にしています。しかし、以上のことから、一部キリシタンも加わった百姓一揆だったことが分かります。
 出島は、読んで字の如く、長崎の港に突き出た島です。長崎と出島を結ぶのは出島橋という橋だけです。橋の出島側には、番所があって厳しく取り締まることになっています。
 唯一ヨーロッパへの窓口を管理する長崎奉行が、幕府の重要な役所だったことも、理解できます

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