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エピソード

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長崎貿易(長崎口・対馬口・薩摩口・松前口)
 鎖国とはいっても、当時、日本には、「4つの窓」がありました。
 1つ目はオランダ商館長という長崎口(出島)、2つ目は朝鮮通信使という対馬口、3つ目は琉球使節という薩摩口、4つ目はアイヌという松前口です。
 1609(慶長14)年、日朝間で、己酉条約が締結されました。幕府は、対馬の宗氏に、年間20隻の貿易船を許可しました。朝鮮は、釜山に倭館の設置を認めました。
 1609(慶長14)年、オランダは、平戸に商館を開設しました。
 1644(寛永21)年、明王朝が滅亡しました。
 1655(明暦元)年、幕府は、糸割符制を廃止し、相対自由貿易(競争入札制)に移行しました。その結果輸入品価格が上昇して、金銀が流出しました。
 1661(寛文元)年、清王朝が中国を統一し、日清貿易に参加しました。
 1685(貞享2)年、幕府は糸割符制を復活し、輸入額を制限しました。これを定高仕法といいます。
 オランダ船は銀3000貫目、清船は銀6000貫目に制限しました
 この結果、銅の輸出が増加しました。また、この範囲内で、何回も来航する弊害が生じました。
 1688(元禄元)年、清船の来航を年間70隻に制限しました。
 1689(元禄2)年、長崎の町に雑居していた清国人を唐人屋敷に移住させました。
 1697(元禄10)年、清船の来航を年間80隻に増加しました。
 1700(元禄13)年、年間の入港数を制限しました。オランダ船は5隻、清船は8隻に激減しました。
 1715(正徳5)年、新井白石が、海舶互市新例を発布し、金銀流出を防止しようとしました。
 オランダ船は2隻銀3000貫目で、そのうち銅150万斤で支払う。清船は30隻銀6000貫目で、そのうち銅300万斤で支払う。
 1790(寛政2)年、年間の入港数を制限しました。オランダ船は1隻、清船は10隻となりました。
 支払方法としては銅を制限し、俵物(海産物)を代償にしました。これ以降、俵物が増加しました。
 清国からの輸入品は、生糸、ヨ−ロッパ産の綿織物・毛織物、南洋産の砂糖・蘇木(蘇枋の木で赤味の染料)・香木、絹織物・書籍(キリスト教関係禁止)などでした。
 オランダからの輸入品は、生糸・絹織物・毛織物・綿織物、薬品・砂糖・書籍・時計などでした。
 日本からの輸出品は、銀・銅・海産物(いりこ・ほしあわび・ふかのひれ)・鉄・麦粉・樟脳・漆器などでした。
江戸時代、日本は先進国?途上国?
 加工品を輸出する国を先進国、原材料を輸出する国を途上国と言います。
 この規定をあてはめると、江戸時代の日本の、完全に途上国だったといえます。
 TV番組『どっちの料理ショー』は、私が見る数少ない番組です。特に、特産地の部分は、録画して保存しています。以前、「ほしあわび」と「ふかのひれ」を使った料理対決がありました。干しあわびは北陸産、ふかの鰭は人食い鮫のイタチザメ(タイガーシャーク)の鰭を使います。見た目は、ふかひれ料理に分がありましたが、干しあわびの重厚さには及びませんというのが私の感想でした。
 しかし、対決では、ふかひれに負けました。「負けシェフ」が「実は、この干しあわび、1個7万円だったんですがね…」と、悔し紛れに、プロの本音をポロリとこぼしました。と、同時に、中華料理の高級素材である干しあわびを改めて認識しました。
 鎖国という言葉は、ケンペルの『鎖国論』からが最初とされています。ケンペルは、オランダの日本商館にドイツ人医師です。1775年に来日して、1776年に帰国し、滞在記を『日本誌』として発表しました。志筑忠雄が、その一部を『鎖国論』として翻訳しました。鎖国という言葉は、2人によって造語されたといえます。
 上記の長崎貿易でみた内容が、鎖国日本の実態です。
 一般的には、「鎖国によって、大名や農民への統制が強化され、幕藩体制が確立された」とされています。また、世界の進運から取り残され、産業や文化の近代化が遅れたと言われています。
 その分、伝統的な産業や文化が育成されたともいえます。
 私は、世界や国内の情報が、一部権力に握られ、コントロールされたことを重視しています。これは、現在でも同じことが言えます。ただ、IT革命により、インターネットを通じて、世界各地から情報を収集することが出来るようになりました。革命といえる所以です。この武器を、民主社会の発展に活用したいものです。 

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