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エピソード

121_02

文治政治への転換(保科正之・徳川光圀・池田光政ら)
 1651(慶安4)年4月、3代将軍徳川家光(48歳)が亡くなりました。この時、堀田正盛阿部重次ら13人が殉死しました。 
 8月、徳川家綱(11歳)が4代将軍となりました。幼少の将軍なので、保科正之松平信綱が老中として、補佐しました。
 江戸幕府は、大名を統制するために、将軍から大名知行地を与えられるという原則を徹底しました。そのため、幕府は、大名の跡目相統人を届け出させました。
 養子についても、厳しい条件を設定しました。それが末期養子の禁止です。末期(死にぎわ)に、幕府に養子を届けた後、元気になって、実子が誕生し、それが原因で御家騒動に発展する例があったからです。
 しかし、末期養子の禁止は、大名改易(取り潰し)の大きな理由となっていました。徳川家康から徳川家光までの間に、63家413万石が改易されています。その結果、約10万人の牢人が発生したことになります。
 1651(慶安4)年、由井正雪の乱に衝撃を受けた老中の保科正之と松平信綱は、牢人の発生の原因となっている末期養子の制度の禁を緩和しました。
 その内容は、大名が50歳以下に限り認めるというもので、それに、(1)大名がが17歳以上で50歳以下である(2)届けが大名自身の意志であることを確認するため、大目付を派遣する、という条件を付加しました。
 1663(寛文3)年、幕府は、戦国時代の遺風である@殉死の禁止を命じました。
 1665(寛文5)年、幕府は、戦国時代の遺風であるA証人の制の禁止B仇討ちの禁止を命じました。これを寛文の三大美事といいます。
 1716(正徳6)年、末期養子の制度の禁をより緩和しました。それは、大目付が確認する前に、大名が亡くなる場合もあったからです。より緩和された内容は、50歳以下の大名でも、本人が病をおして支配頭に届け出れば、末期養子を認めるというものでした。
 幕府の基本政策の変更を知って、文治政治(儒学思想にもとずいて家臣や領民を教化する政策)に取り組んだ大名がいます。
 会津の保科正之(将軍徳川家光の弟)は、老中ですから、当然です。儒学者の山崎闇斎を招いています。
 水戸の徳川光圀も、天下の副将軍ですから、当然です。明から朱舜水を招いたり、彰考館を設けて、実証的な『大日本史』を編さんさせています。水戸の偕楽園は、偕(衆)と楽しみを同じくする趣旨で作られました。
 岡山の池田光政は、外様大名です。幕閣の外にありながら、時代の流れを読んだ大名といえます。儒学者の熊沢蕃山を招いたり、藩学として閑谷学校を設立しています。後楽園は、天下の楽しみに遅れて楽しむとして作られました。
 加賀の前田綱紀も、外様大名です。幕閣の外にありながら、時代の流れを読んだ大名といえます。朱子学者の木下順庵を招いています。兼六園は、宏大・人力・蒼古・泉石・眺望など六の特色を兼ねるとして作られました。
藩 主 資 格 招聘学者 藩  校 @情報を得ている保科正之や水戸光圀
 が文治政治を率先しているのは理解で
 きます。情報を得ていても取り入れてい
 ない大名がいますから、すごいです。
A池田光政は情報を得る立場になくても
 時代を先取りしています。すごいです。
保科正之 老中 山崎闇斎 稽古堂
徳川光圀 副将軍 朱 舜水 彰考館
池田光政 外様大名 熊沢蕃山 閑谷学校
前田綱紀 外様大名 木下順庵 藩財政の窮乏でならず
子どもを出産できない割合、殉死(森鴎外の『阿倍一族』)
 私は、結婚して1年後に長男が生まれ、その3年後に長女が生まれました。今、長男に長女が、長女に長女がうまれ、長女はこの6月(2005年)に第二子が誕生します。
 そんな関係で、「お宅の子どもさんは?」と気楽に聞くことがあります。「いません」という返事の方がかなりの割でいます。
 調査資料によると、10組の夫婦に1組の割合で、子どもさんがいないということでした。今まで随分失礼なことを聞いたと反省しています。
 私は、高校時代、夏目漱石・芥川竜之介・森鴎外三人衆を全冊読破しました。殉死ですぐ思い出すのが、森鴎外の『阿倍一族』です。のちに、三国錬太郎さんの息子の佐藤浩一さんが映画で演じたので、若い人もご覧になったかもしれませんね。
 1641(寛永18)年、熊本藩主細川忠利が亡くなりました。当時、主君が死ぬと、重臣は主君に殉じて自害(殉死)することになっていました。18人が殉じました。しかし、1100石の重臣阿部弥一右衛門通信には、生前の細川忠利は「どうぞ光尚に奉公してくれい」と言って、殉死を認めませんでした。
 しばらくすると、けしからん噂が流れました。「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪に油でも塗って切ればよいに」という噂です。
 そこで、父弥一右衛門は「そこでその死なぬはずのおれが死んだら、お許しのなかったおれの子じゃというて、おぬしたちを侮るものもあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。…瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」 といって、子供らの面前で無念の切腹をしました。
 細川忠利の1週忌の時のこと、弥一右衛門の嫡子権兵衛は、髻を押し切って仏前に供えるという行動をしました。激怒した新藩主の細川光尚は、権兵衛に対し、白昼の縛首を命じました。その結果、阿部一族は立て籠もり、藩の兵と壮絶に戦い、そして消滅しました。

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