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NO.121 第6章 幕藩体制の確立(2)

凡例:[1    ](項目)「2    」(人名)『3   』(書籍名・作品名)

[3] 幕政の安定と経済の発展
1] 文治政治への転換
背景エピソード
[1   ](慶安4)年 「2    」(48才)、没
@家光までの武断政治によるB[3    ](領地没収)
A1600年関ヶ原の戦・1615年大坂の役−92家507万石
B慶長〜寛永の末期養子の禁違反 −46家457万石
C慶長〜寛永の法律違反 −59家648万石
D合計198 家で*A[4    ](浪人)37万8000人→社会不安の原因
老中ら13人、殉死(1636年の伊達政宗の時は殉死30人)
三河刈谷の譜代松平定政、武断政治を嘆き領地返上
「5    」(11才。父家光)、将軍
領地宛行状を一斉に発給→将軍の地位が確立
*A[6    ]の変(別名*A「7    」46才の乱。牢人の不満史料
 を利用した討幕計画。丸橋忠弥ら100余人が入獄)
末期養子を許可史料
1652年 承応の変(牢人E別木へつぎ庄左衛門ら増上寺放火・金品略奪計画)
[8    ]政治(徳治主義による政治)への転換エピソード
@老中A保科正之・D松平信綱・E安部忠秋
A法律制度の整備
B社会秩序の維持
C幕府権威の高揚
1651年 *B[9    ]の禁を緩和史料 史料
@末期養子の制(跡継ぎのない大名が死にのぞんで、急に相続人を願い出
 る)の禁を緩和→50才以下の大名に許可
A緩和の目的−跡継ぎを決めずに死んだ大名の改易の減少
B牢人対策史料
1653年 下馬将軍E酒井忠清、大老
「10    」(下総の佐倉領公津村名主)、酷政を家綱に直訴
1663年 [11    ](主の死に際し、従者もその生命を捨て主に従うこを)を禁止
1665年 寛文の三大美事
@D[12  ]の制(幕府が諸大名の妻子を江戸に置かせること)の禁止
A殉死の禁止
B仇討の禁止
E玉川上水完成
1668年 奥平忠昌(宇都宮)、没→従者、殉死→減封処分→殉死の衰退
1716年 末期養子の禁再緩和(50才以上でも病をおして支配頭に願い出れば許可)
藩主の文教奨励(儒学思想にもとずいて家臣や領民を教化する政策)
*B「13    」(会津)−儒学者のA「14    ]を招く
*A「15    」(岡山)−儒学者のA「16    」を招く
@ [17    ]
a 藩士の子弟教育のために設立した学校
b [18    ](最古の藩学)
A [19    ]
a 藩学の延長として庶民教育を目的として設立した学校
b [20    ]学校(閑谷村に創立)
c 後楽園(天下の楽しみに後れて楽しむ)
*A「21    」(水戸)
@ 明の朱舜水を招聘
A 江戸にD[22    ]館(歴史編纂の史局。総裁E藤田幽谷)を設置
B *A『23    』(史実考証にすぐれ大義名分論で貫く史論)
a 水戸学
b 幕末の尊王運動へ
C 偕楽園(衆と楽しみ同じうする)
*B「24    ](金沢)
@ 朱子学者のA「25    」(新井白石の師)を招待
A 兼六園(宏大・人力・蒼古・泉石・眺望・幽□を兼ねている)
解答

正解数(   )問/問題数(25)問=正解率(    )%

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