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エピソード

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5代将軍徳川綱吉と、元禄時代
 1641(寛永18)年、春日の局の養子堀田正俊は、徳川家光の嫡子徳川家綱の小姓となりました。
 1651(慶安4)年4月、3代将軍徳川家光(48歳)が亡くなりました。堀田正盛阿部重次ら13人が殉死しました。
 8月、徳川家綱(11歳)が4代将軍となりました。保科正之松平信綱が老中として、補佐しました。
 1657(明暦3)年、明暦の大火が発生しました。別名振袖火事といいます。江戸時代に発生した火事のうち、三大火事の一つです。江戸城と江戸の町の55%が炎上したと言います。江戸城を再建したことにより、幕府財政はひっ迫しました。
 1672(寛文12)年、保科正之(62歳)が亡くなりました。下馬将軍酒井忠清が実権を握りました。
 1679(延宝7)年、春日の局の養子である堀田正俊が老中になりました。
 1680(延宝8)年5月、将軍徳川家綱(40歳)は、跡継ぎもなく、亡くなりました。大老の酒井忠清が、徳川綱吉(徳川家綱の弟。館林藩主)をさしおいて京から宮将軍を迎えようと画策しました。これに反対した堀田正俊は、徳川綱吉の将軍実現に貢献しました。
 8月、徳川綱吉(父は徳川家光)が5代将軍となりました。時に35歳でした。
 1681(天和元)年、堀田正俊(48歳)は、この功により、大老に就任し、天和の治が始まりました。堀田正俊は、倹約を推進したので、敵も作りました。
 1681(天和元)年、将軍徳川綱吉は、母桂昌院の願いで、護国寺を建立しました。膨大な予算を注入しました。
 1683(天和3)年、将軍徳川綱吉は、代替わりの武家諸法度天和令)を出しました。この時の特徴は、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」と規定し、忠孝・礼儀を重視する方針を表明すると同時に、朱子学者の木下順庵藤原惺窩の弟子)登用しました。
 徳川家光の出した武家諸法度(寛永令)は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと」と規定し、文武を重視する方針でしたから、文治政治に大転換したことが分かります。 
 1683(天和3)年、稲葉正休は、摂津河内の淀川を視察し、治水工事を監督しました。正休は、その治水費用が4万両と見積もりました。倹約家の大老の堀田正俊は、再度、河村瑞賢を派遣して再調査させました。すると、瑞賢は2万両と見積もりました。この時、正休は、若年寄としての面目を潰されました。
 1684(貞享元)年、若年寄の稲葉正休は、大老の堀田正俊に、江戸城内の大老・老中用部屋で挨拶しました。その後、稲葉正休は、堀田正俊を用があるといって次室に呼び出し、「天下のため、覚悟」と叫びながら、脇差で刺し殺しました。稲葉正休も、その場で老中・若年寄らに斬り殺されました。
 稲葉正休は、堀田正俊の父である稲葉正盛の従弟です。刺殺の原因として、(1)淀川の治水工事に関して恥をかかされたという説と、(2)将軍徳川綱吉に対して不遜な態度があったので、その意を汲んだという説があります。
 稲葉家は、その後断絶していますから、(2)の説は成り立たないと思います。
 1684(貞享元)年、将軍徳川綱吉は、側用人柳沢吉保を登用し、以後側用人政治が実施されました。その結果、御側用人や御側衆が権力をにぎり、老中は諮問機関になります。これから以降が、将軍徳川綱吉と側用人柳沢吉保の政治ということになります。
 1685(貞享2)年、生類憐みの令が出されます。人の命より、蚊の命が重視される時代がやってきました。庶民の不満が高揚しました。
 1689(元禄2)年、歌学方天文方が設置されました。
 1690(元禄3)年、湯島に聖堂を建立し、林信篤林羅山の孫)を大学頭に任命しました。膨大な予算を注入しました。
 1695(元禄8)年、柳沢吉保は、勘定吟味役荻原重秀貨幣改鋳案を、将軍徳川綱吉に上申しました。元禄金銀によって、幕府が得た収入は500万両に達しました。これは、幕府の年貢収入(140万両)の3.6倍にあたります。この結果、猛烈なインフレがおこりました。
 誰かが儲ければ、誰かが損をするという原則からすると、幕府が儲けた結果、庶民が損をしたことになります。庶民の不満が高揚しました。
 1696(元禄9)年、荻原重秀は、この功により、勘定奉行に出世しました。
振袖火事と、江戸時代は賛美すべき時代か?
 振袖火事とは、1657(明暦3)年1月18日に本郷の本妙寺でおきた火事のことです。なぜ振袖火事というのかというと、次のような話が残っています。
 質屋の娘は、振袖を作ってすぐに亡くなりました。両親は、不憫に思い、娘に振袖を着せて、棺に葬りました。寺男は、役得として、その振袖を、自分の娘に、持って帰りました。しかし、寺男の娘もその振袖を着て、すぐに亡くなりました。
 そこで、お寺で供養することになりました。僧侶が、読経しながら火中に振袖を投じた時のことです。突風が吹いてきて、お寺が炎上し、その火は次々と周辺を延焼しました。この火事で亡くなった人は10万人以上にのぼりました。
 江戸城をアップで撮影していました。あちこち、炭化した石垣を発見しました。確認すると、やはり明暦の大火(振袖火事)により炎上した石垣だったのです。
 財政難ということで、修復できない石垣が残されていたのです。
 「江戸時代は、それほどひどい時代ではなかった」と賛美する学者・文化人がいます。元禄時代の華やかの状況を一面的に見て、そう評価するのです。なるほど、紀伊国屋文左衛門などは、綱吉の公共事業に食い込み、優雅な社会を演出しています。
 しかし、蚊より人命を軽視する事実をご存知なのでしょうか。
 また、江戸時代の人口は、ほぼ2500万から3000万人で推移しています。現在は1億人を越えています。経済学者によると、人口調整は別として、経済の発展にって、人口は自然に増加するといいます。つまり、江戸時代は、経済的に役圧されていた時代といえます。
系図の見方(将軍、御三家)
増山氏
お江与の方 ‖━ 徳川家綱
お愛の方 ‖━ 徳 川 家 光
‖━ 徳川秀忠 ‖━ 徳川綱重
   ‖   ‖ お夏の方
   ‖   ‖ ‖━ ━━━━━ 徳川綱吉
   ‖     ‖ 八百屋お玉(桂昌院)
徳 川 家 康 ‖━ ━━ 保科正之
   ‖ お静の方
‖━ 徳川義直(尾張)
お亀の方
‖━ ━━━━━ 徳川頼宣(紀伊)
お 万 の 方 徳川頼房(水戸)

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