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エピソード

122_02

赤穂事件(忠臣蔵)と、日本の歴史
 赤穂事件忠臣蔵)は、300年も経過しているのに、今も人気があるのは何故でしょうか。日本の歴史とからめて検証していきます。
 1651(慶安4)年、徳川家綱(父は徳川家光。11歳)が4代将軍となりました。保科正之が老中として補佐しました。
 1657(明暦3)年、明暦の大火が発生しました。江戸城を再建したことにより、幕府財政はひっ迫しました。
 1666(寛文6)年、山鹿素行は、『聖教要録』を発表して、幕府つまり保科正之が採用している朱子学を、「中国の知識をふるまわすのみで、日用事物の上に役立っていない」と批判しました。これに激怒した保科正之は、山鹿素行を赤穂に流罪しました。
 1680(延宝8)年、徳川綱吉(父は徳川家光。35歳)が5代将軍となりました。
 1681(天和元)年、将軍徳川綱吉は、母桂昌院の願いで、護国寺を建立しました。膨大な予算を注入しました。これを請け負った豪商が、元禄繚乱に花を開かせました。
 1683(天和3)年、将軍徳川綱吉は、代替わりの武家諸法度天和令)を出し、武断政治から忠孝・礼儀を重視する文治政治に大転換しました。
 1684(貞享元)年、若年寄の稲葉正休は、大老の堀田正俊を、江戸城内で刺殺しました。その後、将軍徳川綱吉は、側用人柳沢吉保を登用し、以後側用人政治が実施されました。 
 1685(貞享2)年、生類憐みの令が出されます。人の命より、蚊の命が重視される時代がやってきました。庶民の不満が高揚しました。
 1690(元禄3)年、湯島に聖堂を建立し、林信篤林羅山の孫)を大学頭に任命しました。膨大な予算を注入しました。これを請け負った豪商が、元禄繚乱に花を開かせました。
 1695(元禄8)年、勘定吟味役荻原重秀は、貨幣改鋳によって500万両を得ました。この結果、猛烈なインフレがおこり、庶民の不満が高揚しました。 
 1700(元禄13)年、徳川光圀水戸黄門)が亡くなりました。時に73歳でした。
 1701(元禄14)年、赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に刃傷に及びました。
 1702(元禄15)年、浅野内匠頭の遺臣大石内蔵助ら47人が、吉良上野介を殺害しました。これを赤穂事件と言います。
 湯島聖堂大学頭林信篤室鳩巣伊藤東涯三宅観瀾浅見絅斎などは、大石内蔵助らの行動を、武家諸法度(天和令)に照らして、忠義の士と讃美しました。
 他方、荻生徂徠太宰春台佐藤直方などは、法治主義の立場から厳罰を主張しました。
 1703(元禄16)年、将軍徳川綱吉は、荻生徂徠らの意見を容れて、大石内蔵助らに獄門でなく、武士としての切腹を命じました。 
 1703(元禄16)年、江戸中村座で、『曙曽我夜討』が上演されましたが、現実すぎると3日で禁止されました。
 1706(宝永3)年、近松門左衛門の戯曲である『碁盤太平記』が上演されました。
 1709(宝永6)年1月10日、将軍徳川綱吉(64歳)が亡くなりました。徳川綱吉は、遺言で「生類憐みの令」の存続を命じました。
 1月20日、生類憐みの令が廃止されました。 
 1710(宝永7)年、大坂篠塚座で、『鬼鹿毛無佐志鐙』が上演されました。当時としては異例の124日のロングラン興行でした。
 1748(寛延元)年、竹田出雲らによる『仮名手本忠臣蔵』が、大坂竹本座で上演されました。
忠臣蔵の人気の秘密
 元禄14年3月、刃傷事件があり、浅野内匠頭が切腹しました。
 元禄15年12月、内匠頭遺臣が吉良邸に討入り、主君のあだを討ちました。
 元禄16年2月、助命・厳罰の議論がおこり、将軍綱吉が武士としての切腹を命じました。
 この2年間にわたる物語がドラマチックだったので、すぐに芝居化されました。その集大成が『仮名手本忠臣蔵』で、『仮名手本忠臣蔵』が上演されたから、忠臣蔵の人気が出たのではありません。
 討入りした浅野家の遺臣は47人です。相手方の吉良家、上野介の養子先の上杉家、幕府など様々な人物が登場しました。いろいろなキャラクターの存在が、人気を増幅させました。
 大石内蔵助は、幕府を相手に戦いを挑みました。
 中学時代、水戸黄門の映画を見ました。庶民が生類憐みの令で困っているのを知った黄門さんが、江戸城に乗り込みました。将軍綱吉は、「じいからの土産をはやく開けよみよ」と命じました。黄門さんからの土産は大長持ちに入っていました。ふたを開けると、犬の毛皮が一杯入っていました。激怒した綱吉に、黄門さんがコンコンと説教しました。綱吉は「じい、悪かった」と謝りました。
 私は、これを信じていました。大学に入って調べてみると、上記のように、1700年に黄門さんは亡くなっていました。そして、生類憐みの令が廃止されたのは、1709年でした。
 田舎で、印籠を片手にして「この印籠が目に入らぬか」と威張るくらいなら、将軍綱吉に談判して、悪法を撤回する方が先ではないかと思うと同時に、黄門さんも説教したが、拒否されたかもしれないと思うようになりました。
 この権力者を、内蔵助が悩ませ、喧嘩両成敗を勝ち取ったという事実だけでも、人気の秘密が分かります。
 最大の要素は、当時から庶民が、討入りを支持していたことです。庶民は、生類憐みの令や貨幣改鋳で苦しめられていました。浅野家の遺臣が、憎き幕府に立ち向かったので、これに喝采を送りました。
 その結果、「これは堀部安兵衛さんの手紙や」とか「大石内蔵助さんの盃や」というように、豊富な一級史料を大切にして、子孫に残したのです。

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