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エピソード

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新井白石の正徳の治(シドッチ尋問と、閑院宮家創設)
 1690(元禄3)年、新井白石(34才。木下順庵に師事)は、甲府の徳川綱豊(29才。徳川家光の次男徳川綱重の子)に仕官しました。
 1708(宝永5)年、ヤソ会士でイタリア人宣教師のシドッチが、屋久島に潜入しましたが、捕らわれて長崎へ送還されて来ました。
 1709(宝永6)年1月、将軍徳川綱吉(64才)が亡くなりました。
 5月、甲府の徳川綱豊(48才)が6代将軍となり、名を徳川家宣と改めました。徳川家宣は新井白石(53歳。徳川綱豊時代のの儒学の先生)を側用人に登用しました。
 1709(宝永6)年、側用人になった新井白石の最初の仕事は、シドッチを江戸に呼び寄せることでした。新井白石は、小石川養生所にシドッチを訪ね、様々な質問をしています。シドッチから聞いた西洋のことを書き記しました。これを『西洋紀聞』(西洋事情)といいます。また、新井白石が色々()とみ()たり聞いたりしていた中国の地理書と、シドッチがなってうことを、『采覧異言』(地理書)としてまとめました。
 1710(宝永7)年、新井白石は、紫衣事件以来疎遠になっていた、朝廷と幕府との関係の修復に努めました。そこで行ったことだ、閑院宮家の創設です。
 当時の食糧事情や医療事情から、皇室を維持するため、複数の妻女をもち、多数の男子を出産する必要がありました。しかし、宮家は幕府より三宮家と厳しく制限されていました。
(1)伏見宮家崇光天皇の第1皇子栄仁親王が創立)
(2)八条宮家正親町天皇の皇孫智仁親王が創立。後に常磐井宮、京極宮、桂宮と改称))
(3)有栖川宮家後陽成天皇の第7皇子高松宮好仁親王が創立)
 その結果、男子として生まれても、皇太子や宮になれない皇子が存在するようになりました。そこで、父天皇は、その皇子をお寺に入れました。皇族が住職を勤める寺院を、門跡寺院といいます。
 東山天皇には、第6皇子の直仁親王がいました。新井白石が、直仁親王のために創立したのが、閑院宮家で、1000石の家領を献上しました。米に換算して1000両になります。
 これを今の年収にすると、1両=20万円〜6万円になりますから、最大で2億円、最少で6000万円をプレゼントしたことになります。
 1711(正徳元)年、新井白石は、朝鮮と日本との関係を正すと称して、朝鮮通信使の待遇を簡素・倹約化しました。今まで、将軍の別称として使用していた「日本国大君」は、朝鮮の王子を指す語であるとして廃止し、「日本国王」に改めました。学者らしい発想です。
 1712(正徳2)年、新井白石は、勘定奉行荻原重秀を、やっと罷免できました。インフレを引き起こして、庶民の不満を買った貨幣改鋳でしたが、それが、逆に、幕府の功労者たり得たのです。
 1713(正徳3)年、将軍徳川家宣の子である徳川家継が、僅か5歳で、7代将軍となりました。名も家を継いで欲しいいう気持ちが込められています。
 1714(正徳4)年、引き続き要職を継いだ新井白石は、元禄金銀を改鋳し、正徳金銀を発行して、物価の引き下げを断行しました。
 1715(正徳5)年、シドッチから得た知識をもとに、海舶互市新例を出して、長崎貿易の制限を計りました。白石が計算すると、日本が保有する金の4分の1、銀の4分の3がすでに流出していました。オランダと中国の入港船隻数と取引高を制限し、支払いに銅を使うようにしました。
 1716(正徳6)年4月、一族の願いも空しく、7代将軍徳川家継は、8歳で亡くなりました。8歳では跡継ぎは生まれません。
 5月、バックアップをなくした権力者新井白石は、罷免されました。時に60歳でした。新井白石の政治を年号をとって、「正徳の治」といいます。
 8月、世に言う暴れん坊将軍が紀州から迎えられました。徳川吉宗です。時に33歳です。
シドッチの運命、宮家と西武(堤)王国の関係は?
 本来宣教師は、処刑されるのが当然の時代です。
 新井白石も、シドッチを尋問して、自分以上の知識・技術を有しておればいいし、有していなければ、法に照らして処刑する予定だったといいます。
 しかし、シドッチの知識・技術は、白石の力量をはるかに超えるものでした。シドッチの力量を見極めた白石も立派な権力者といえます。世界で食える力量を有していたシドッチ、その力量を認めた白石、この2人の英雄の出会、交流を思い浮かべるだけで、楽しい人間世界が描かれます。
 門跡寺院とは、皇族や身分の高い貴族などが出家して居住する寺院をいいます。徳川家康は、門跡
を(1)親王が出家した宮門跡、(2)摂関家が出家した摂家門跡、(3)その他の貴族が出家した准門跡の3種類に分けていました。(山川出版社『日本史B用語集』を参照しました)
 最近、「西武帝国」が話題になっています。堤康次郎氏が一代で成し遂げた王国を義明氏が継承して現代に至っています。その帝国が崩壊したという話題です。
 私は、どうして一代で帝国をなし得たのかということに関心があります。最近、七尾和晃氏の『堤義明 闇の帝国』(2005年2月、光文社発行)という本を購入しました。そこには、次に様な記述があります。
 「昭和二十一年五月二十三日、GHQは『皇族の財産上の特権剥奪に関する五・二一付覚書」を発表し、皇族の一切の特権および課税の免除を含む特典は、すべて廃止されることになった。そこで皇族の財産調査が行なわれ、十四宮家のうち秩父高松三笠の直宮家を除く十一宮家が、二十一年三月三日現在の財産にたいして、翌二十二年二月十五日を期日として申告し、一ヶ月以内に財産税を納税しなければならないこととなった。
 十一宮家とは、東伏見宮伏見宮賀陽宮久通宮朝香宮東久邇宮北白川宮竹田宮閑院宮山階宮梨本宮であり、二十二年十月十三日には翌日をもって十一宮家五十一人が臣籍降下 (皇籍離脱)することが決定した。そして、皇籍離脱にともない、軍籍にあった十一人を除いた四十人にたいして、総額四千七百四十七万五千円の一時金が支給されることとなった」。
 免税特権を失ったは、膨大な土地を維持できません。これに目を付けた様々な人々が登場します。そして、様々な方法で、買収します。その1人が堤康次郎です。
 「康次郎が買い入れた土地の敷地面積および購入価格について判明しているものをあげれば、次のようである。
 朝香邸(港区芝白金町)が九千二百五十四坪で坪当り価格七百円、竹田邸(港区芝高輪南町)が約一万坪で三千五百円、北白川邸(港区芝高輪南町)が約一万二千坪で八千円であった。なお、朝香邸については、その後、昭和二十七年二月に約五百六十坪、三十年十二月に約二百二坪が買い入れられた。支払い条件を北白川邸の場合についてみると、内金五百万円、中間金一千万円、残額は支払い猶予金として年一割の利息を支払うという方法をとっていた。そして、北白川家の職員の就職について、西武鉄道などで採用を考慮する旨の一項目が入っていた」
 歴史は、栄枯盛衰を移す鑑といいます。宮家の没落によって、西武帝国が繁栄しました。しかし、二代目で崩壊する。歴史とは、「妙」なものですね。
系図の見方(将軍、御三家)
増山氏
お江与の方 ‖━ 徳川家綱
お愛の方 ‖━ 徳 川 家 光
‖━ 徳川秀忠 ‖━ 徳川綱重
   ‖   ‖ お夏の方 ‖━ 徳川家宣
おほら ‖━ 徳川家継
   ‖   ‖ ‖━ ━━━━ 徳川綱吉 おきよ
   ‖     ‖ 桂昌院
徳 川 家 康 ‖━ ━━━ 保科正之
   ‖ お静の方
‖━ 徳川義直(尾張)
お亀の方 徳川綱教
‖━ ━━━━━ 徳川頼宣 ━━━ 徳川光貞 徳川頼職
お 万 の 方 徳川頼房(水戸) 徳川吉宗

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