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エピソード

125_01

諸産業の発達(入浜式塩田)
 5000年前、ヨーロッパでは魚を塩漬けしていた記録があります。中国では、4000年前、山西省にある塩湖から塩を取っていたり、2500年、四川省の岩塩から塩を取っていたという記録があります。
 日本では、塩湖や岩塩がないので、幸い周囲を海に囲まれています。そこで、3%の塩分を含んでいる海水から鹹水(濃度の濃い塩水)を採る方法(採鹹)と、鹹水を煮つめて塩の結晶をつくる方法(煎熬)がありました。 
 『万葉集』に「藻塩焼く」という記述があります。煎熬の方法で塩を作ります。
(1)乾燥させた海藻を焼いて灰塩を作ります
(2)灰塩に海水を注ぎ、鹹水を採ります。
(3)採った鹹水を製塩土器に入れ、煮つめて塩を作ります。
 中世から近代まで、塩浜を利用した採鹹の方法には、揚浜系塩浜入浜系塩浜がありました。
 揚浜式製塩は、海面より高い所の地面を平坦にならして、粘土で固めます。人力で海水を汲み上げ、塩浜にかけ、太陽熱と風で水分を蒸発させ、砂に塩の結晶を付着させます。この砂を沼井(濾過装置)に集め海水をかけ、鹹水を採ります。
 入浜式製塩は、潮の干満差を利用した製法です。遠浅の海岸に堤防を造ります。干潮水面より満潮水面が2メートル高い場合、満潮・干潮の中位を1メートルにして塩浜を築き、砂を撒きます(撒砂)。堤防の下の干潮水面より30センチ上部に伏樋を通し、堤防の陸側の浜溝に海水を導きます。干潮時、毛細管現象によって撒砂部に海水を供給し、太陽熱と風で水分を蒸発させ、撒砂に塩の結晶を付着させます。この砂を沼井(濾過装置)に集め海水をかけて、鹹水を採ります。
 鹹水を煮つめていくと、塩の結晶ができます。
 1906(明治38)年3月末現在、全国の塩製造人は24,459人でした。塩田面積は、入浜塩田が7,300町歩(7,319ヘクタール)、揚浜塩田が687町9反(682.2ヘクタール)でした。
「敵に塩を送る」と、忠臣蔵の塩スパイ説
 塩は、人間には欠かせません。塩にまつわるドラマが、誕生する背景にあります。
 1567(永禄10)年8月、川中島で、上杉謙信と武田信玄が激しく戦っていました。それを利用して、駿河の今川今川氏真と相模の北条氏康は、同盟を結び、遠江・駿河・伊豆から甲斐に送っていた塩の輸送を停止し、商人の往来を禁止しました。塩不足で困ったのは兵だけでなく、百姓も弱りました。
 これを知った越後の上杉謙信は、「争うべきは弓箭にあり、米・塩にあらず」(戦争の手段は弓と矢で、米や塩ではない)と、糸魚川の浜塩(北塩)を甲斐・信濃に送りました。
 このことから、「敵に塩を送る」という言葉が誕生しました。
 しかし、糸魚川の浜塩(北塩)は、それ以前から松本地方の市場に運ばれていました。「上杉鎌信は、従来どおり塩の輸送を続けただけ」という説をとる人がいます。それにしても、この時、謙信が塩の輸送を停止すれば、今川・北条と共に、信玄包囲網ができて、塩攻めの効果は抜群に上がったと思います。それをしなかったということで、やはり「敵に塩を送る」ことには変わりがありません。
 吉良上野介が、浅野内匠頭をいじめた理由として、塩田スパイ説があります。
 吉良上野介は吉田塩田を発達させようと赤穂にスパイを潜入させた。彼らは塩田労働者として働いている内に、他国者ということが分かり、捕まえられて土牢に入れられ死んでいった。一人は無事逃げかえって真相を告げたが、これ以後両藩は反目し合うようになったというのです。
 しかし、赤穂塩田はマニュファクチャー生産でオープンかされていました。浅野長直(内匠頭の祖父)は正保3(1646)年に姫路の荒井・的形から浜人を11人招いて塩田を開いています。何も秘密にする必要はありません。
  孫の浅野内匠頭(例の赤穂事件の主役の一人)の時に、大野九郎兵衛が藩札の発行に踏み切り、塩田からの収入を増加させました。また、塩の生産と販売を一手に赤穂藩が握ることになりました。
 また、貨幣経済の浸透は、農村・漁村社会の分解を招き没落した地主は浜子として賃銀労働者となり、一層のマニュファクチュウア化が進みました。
 その結果、赤穂塩はどんどん江戸に進出し、吉良塩と競合し、大量生産された良質の赤穂塩は吉良塩を侵食していきました。赤穂事件の遠因はここらあたりにあるのではないでしょうか。

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