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エピソード

126_02

名産の成立U(有田焼)
 豊臣秀吉は、文禄の役慶長の役(朝鮮出兵)を行いました。朝鮮から撤兵する時、肥前の藩主の鍋島直茂は、朝鮮の陶工連れて帰りました。その1人に韓国忠清南道鶏竜山金江出身の李参平がいました。
 1616(元和2)年、李参平は、有田泉山良質の磁石を発見し、上白川天狗谷窯を築いて、日本ではじめて白磁を焼きました。これが有田焼の始まりだといわれたいます。
 当時、有田泉山で焼かれた有田焼は伊万里港から積み出されたので、伊万里焼といわれました。これが初期伊万里です。藍色の染付磁器を特徴としています。
 その後、深みのある濃い色彩による色絵磁器が作られるようになりました。
 1646(正保3)年、酒井田喜三右衛門は、苦労に苦労を重ねて、白磁の焼物に柿の実のような赤色を出すのに成功しました。これを濁手(にごして)の赤絵磁器といいます。酒井田喜三右衛門は、柿の色を創出したことから初代柿右衛門といわれます。
 「濁し」は、佐賀県地方の方言で、米の研ぎ汁のことです。真っ白でなくて、乳白色の柔らかい磁器の素地のことです。特色は、濁手といわれる乳白色の余白を十分に生かしながら、赤・黄・青・緑で草花文様や動物文様を控えめに配し、左右のバランスをくずして、独得の調和美を描くことにあります。これをを柿右衛門様式といいます。
 オランダ貿易でヨーロッパに輸出された「柿右衛門」の大半はこの濁手の作品でした。 
 柿右衛門様式は、製法が煩雑だったため、一時中断されます。
 そこで、17世紀後半、陶工は、中国磁器を模倣して、やがて独自の磁器を生産するようになりました。豪華絢燗な大皿や壷が作られました。その特徴は、皿や壷の全面に模様を描き、金や赤色を大胆に使い、鳳凰・龍・菊・牡丹などを豪華な装飾性で描くことにあります。これを古伊万里様式といいます。
 17世紀後半、肥前の藩主の鍋島家は、明の景徳鎮を模倣して藩窯を築き、赤絵町(赤絵師を集めた町)で絵付し、将軍・朝廷・大名への献上品を作りました。
 光沢のある白磁の染付に上絵を施しました。藍色で精緻に描かれた「藍鍋島」、赤・黄・緑を基調とした「色鍋島」、自然の青翠色の「鍋島青磁」などが有名です。
 その特徴は、写実性よりも図案的な構成による精緻さ・流麗さにあります。これを鍋島様式といいます。
柿右衛門伝説はフィクション?、有田焼とドイツのマイセン
 小学校の頃読んだ伝記に、村人から変人扱いされていた陶工がいました。彼は毎日、仕事もせず、山や木をみたり、自然と話をしているように、村人には写ったようです。ある時、彼は、熟した柿の実の赤色をみて、探し物をやっと見つけました。これがきっかけで、赤絵を開発したというのです。彼の名は、酒井田喜三右衛門で、後に柿右衛門と名を改めました。
 また、別な話もあります。肥前藩主の鍋島侯は、酒井田喜三右衛門の命で柿を描いた磁器を作りました。その柿の磁器が素晴らしかったので、鍋島侯は、柿右衛門という名を与えたといいます。
 しかし、実際には、柿右衛門以前に赤絵は開発されていました。 
 柿右衛門様式は、大和絵的な花鳥図・左右非対称の伸びやかさを特徴とします。古伊万里様式は、豪華絢爛・華麗さを特徴とします。鍋島様式は、精緻さを特徴とします。
 同じ有田焼の系統であるのに、何故名前が違うのでしょうか。
(1)江戸時代、有田で焼かれた磁器は、伊万里港から積み出されていました。消費地では、「どこから来ましたか」と聞くと、船頭たちは「伊万里から来ました」と答えたので、@伊万里焼といわれました。
(2)濁手を特徴とする有田で焼かれた磁器は、A柿右衛門焼といわれます。
(3)明治時代、有田で焼かれた磁器は、生産地の名を付け、B有田焼といわれるようになりました。江戸時代の@伊万里焼は、C古伊万里といわれます。
(4)肥前の藩主の鍋島家が専売制をしいた、有田で焼かれた磁器は、D鍋島焼といわれます。
 今も、有田焼を代表する柿右衛門窯と今右衛門窯は有田町にあります。
 鍋島窯は、初めは有田の岩谷川内、次に南川原山に移りましたが、現在は伊万里市の大川内山にあります。
 有田焼は、ヨーロッパ人を魅了しました。英国女王メアリー2世とドイツのアウグスト1世の柿右衛門コレクションは有名です。
 ドイツのマイセン窯、イギリスのチェルシー窯・ボー窯、オランダのデルフト窯、フランスのセーブル窯・シャンティー窯などは、柿右衛門様式の模倣から磁器を製作したといわれています。
 ドイツのマイセン磁器に、魅せられるのは、日本的なデザインというか、柿右衛門様式の主題が取り入れられているからなんでしょうね。

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