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エピソード

127_01

五街道と関所(その覚え方)
 五街道は、道中奉行が直轄支配するつの主要街道です。起点は、江戸の日本橋です。
 現在、東京から大阪までを東海道といいます。当時は、江戸(将軍)〜京都(天皇)間が東海道です。
 江戸から東海道の草津で合流するまで、山中を通る街道を中山道といいます。
 江戸から中山道の下諏訪で合流するまで、甲府(甲州)を通る街道を甲州道中といいます。
 江戸から宇都宮を経由して、日光に行く街道を日光道中といいます。
 宇都宮から奥州の白河に行く街道を奥州道中といいます。
 街道には、それぞれ宿駅を設け、人馬を用意しました。不足のときは、助郷役といって、近隣のから援の労(人馬を出す)を負担しました。
 東海道は、江戸を出て最初の宿駅が品川で、京都直前の宿駅が大津です。53の宿駅があります。東海道53次というのは、ここから出た言葉です。各宿駅に人が100人、馬が100匹用意されていました。
 中山道は、江戸を出て最初の宿駅が板橋で、東海道の草津と合流する直前の宿駅が守山です。67の宿駅があります。各宿駅に人が50人、馬が50匹用意されていました。
 甲州道中は、江戸を出て最初の宿駅が内藤新宿で、中山道の下諏訪と合流する直前の宿駅が上諏訪です。44の宿駅がありました。各宿駅に人が25人、馬が25匹用意されていました。
 日光道中は、江戸を出て最初の宿駅が千住で、日光直前の宿駅が鉢石です。21の宿駅があります。各宿駅に人が25人、馬が25匹用意されていました。
 奥州道中は、宇都宮を出て最初の宿駅が白沢で、白河直前の宿駅が白坂です。9の宿駅があります。各宿駅に人が25人、馬が25匹用意されていました。
 東海道にある関所は、江戸の近くが箱根関、駿府と三河の間にあるのが新居関((今切関))です。
 中山道にある関所は、江戸と下諏訪の間にあるのが碓井関です。
 甲州道中にある関所は、江戸から下諏訪の間にあるのが小仏関です。
 日光・奥州道中にある関所は、江戸から宇都宮の間にあるのが栗橋です。
 江戸の周囲を固めているのが、関所ということになります。目的は、「入鉄砲に出女」といわれるように、江戸へ入る鉄砲と江戸から出る人質の大名の奥方を特に警戒しました。
 それ以外にも、川留という制度がありました。天竜川大井川は、増水時には、通行を禁止しました。
 徒歩渡し(かちわたし)という制度もありました。馬入川酒匂川安倍川には、橋をかけず、徒歩で渡るようにしていました。
関所破りと国定忠治、木枯紋次郎
 授業で関所の話をした時のことです。
 ある生徒が、「関所を通らず、川の上流へ行き、跨いで通れる小川を越えていけば別に問題がないんではありませんか」と聞きました。皆さんはどう答えますか。
 旅行をする時は、必ず道中手形を持参します。関所を越えた時は、通行手形をもらいます。どこかで、道中手形や通行手形を求められた時、それを持参していない時は、関所破りになります。極刑です。
 小川を越えようが、海からもぐって来ようが、手形がなければ、関所破りになります。
 1810(文化7)年、忠治は、江戸末期の上野(上州)の国定村に生まれました。
 1834(天保5)年、国定村の忠治(国定忠治)は、大博徒の島村伊三郎を斬り、有名になります。
 1836(天保7)年、忠治は、信州で殺された義弟の仇を討つために、鉄砲や槍を持った子分を連れ、大戸の関所を破ります。
 1842(天保13)年、忠治は、上州世良田で賭場を開いていたところを関東取締役の手入れを受けました。その賭場に子分の板割の浅太郎とその叔父の勘助がいなかったことから、ふたりを密告者と疑い、浅太郎に勘助の殺害を命じました。
 1850(嘉永3)年8月、忠治は、上州田部井村で、庄屋の西野目宇右衛門の妾のお町の看病を受けていたところを、八州役人に捕えられ江戸に送られました。
 12月、忠治は、大戸の関所で磔の刑に処せられました。時に41歳でした。庄屋の西野目宇右衛門も、忠治をかくまったとして打ち首になります。
 近代に入った大正時代、国定忠治は、大衆のヒーローとして、『浅太郎赤城の唄』(最初のトーキー映画)、『国定忠治』(新国劇の当り狂言)、東海林太郎の「名月赤城山」や「赤城の子守唄」などが創作されました。
 国定忠治は、上州に居られなくなり、赤城の山を下ります。この時の「赤城の山も今宵限りか」が、名文句として、今も、語り継がれています。
 忠治に関する史料は、庄屋の西野目宇右衛門は、田部井村で沼工事を請け負いました。この時、工事用の小屋と偽って賭博小屋を作り、ここで忠治が賭博をしたというものです。
 この史料と、義賊伝説との間に大きな乖離があります。。
 架空のヒーローとしては、笹沢佐保氏の「木枯紋次郎」がいます。長い楊枝を口にくわえ、関所破りをしながら、「あっしにはかかわりございやせん」とニヒルな言葉を発して、旅から旅への長ドスに三度笠に、現代人は共感を覚えるのは、何故なんでしょうか。

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