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エピソード

127_02

水上交通(高瀬舟と西廻り航路)
河川交通の高瀬舟
 宿駅は2〜3里ごとに置かれ、東海道には人足が100人、馬が100頭用意されていました。1里は4キロメートルですから、人馬の1日の歩行距離が8〜12キロメートルとなります。徒歩では、1キロを15分で歩くとされています。1時間で4キロですから、1日の歩行時間は2時間〜3時間とされます。
 これでは、大量に物資を運ぶには、無理があります。
 そこで、利用されたのが、河川です。河川を使って物資が上流へ、下流へ輸送されました。この時に利用されたのが、高瀬舟です。京都の豪商の角倉了以高瀬川で、船底の浅い、頑丈なを開発したのが、最初とされています。
 舟は、全長16メートル、幅2メートルの平底の木造舟です。帆柱の高さは8メートルで、帆柱の横木にはった帆は、30平方メートルもあります。
 30石舟とか50石舟とか表現されます。1石は米俵10俵です。1俵は60キログラムですから、50石舟は3000キロ(約3トン)ということになります。河川は、急流や岩の多いのが特徴です。下りは、船頭3人が帆や舳先で棹を操りました。上りは、綱引き船頭が川岸から船を網で上流まで引き上げていました。
 私が生まれ、育った家の前を千種川が流れています。千種川の下流が、忠臣蔵で有名な播州赤穂です。その上流が、上郡を経由して佐用、さらには分水嶺の千種になります。
 佐用の平福という宿場町には、千種川の支流の佐用川に面して、さまざまな形をした白壁の土蔵や納屋が並んでいます。また、家の中から建物の床下を通って川へ抜けられる構造になっています。四季にあわせて変化するので、カメラマンが絶えません。地元の人は、「蔵に保管した農産物などをこの出入口から高瀬舟に積み込んで下流に運んだ」と言います。
海上交通の南海路、東廻り・西廻り航路
 海上交通の基幹ルートは、江戸・大坂間の南海路です。南海路を走る舟が初期は菱垣廻船といい、太平洋の波で荷物が落ちないよう菱形の垣をしていました。時間を急ぐ酒を積んだである樽廻船も就航していましたが、後には、時代の要請で、樽廻船が主役となりました。
 西日本の物資輸送の基幹ルートは、瀬戸内海航路といいます。
 この時代に特筆すべきは、河村瑞賢が開いた東廻り航路と西廻り航路です。
 米どころ秋田・新潟から、大消費地大坂・京都への輸送ルートは、敦賀まで船で来ます。敦賀から馬を利用します。『石山寺縁起絵巻』などを見ると、馬1頭に、脇腹に1俵ずつの2俵を振分て運んでいます。船から降ろし、大量の馬に積み替え、琵琶湖の今津に来ると、再び高瀬舟に積み替え、淀川を大坂へ向かいます。この積み替えに要する労力・時間は大変なものです。 
 これを改良したのが、河村瑞賢です。彼は、敦賀に上陸せず、九州の玄界灘を越える船を開発し、瀬戸内海に入ることを実行しただけなのです。これを近畿の西を回って大坂に入ってくるので、西廻り航路といいます。この話を聞いた今なら、誰でも「なあーんだ」というでしょう。実行は、難しいですよ。
 その結果、米どころ秋田・新潟から、直接、船で、積み替えなく、一度の大量に大坂に運ばれるようになったのです。流通革命です。逆に、港町敦賀や今津が衰退することになります。
  米どころ秋田・新潟から、大消費地江戸への輸送ルートは、銚子まで船で来ます。銚子で高瀬舟に積み替え、利根川の上ります。利根川の支流の江戸川に入り、中川(現在は旧中川)を経て、小名木川に入り、最後に隅田川から江戸に入ります。
 その間、大きな高瀬舟から小さい高瀬舟の積み替えたかは、私の勉強不足で、分かりません。
 河村瑞賢は、何を改良したのでしょうか。房総半島の、ある町から妻を迎えた知人の話では、房総半島の嵐は凄いということでした。つまり、河村瑞賢は、この嵐に耐えうる船を改良したのです。
 その結果、米どころ秋田・新潟から、直接、船で、積み替えなく、一度の大量に江戸に運ばれるようになったのです。これを青森などの東を廻って江戸に入ってくるので、東廻り航路といいます。
薄口醤油と高瀬舟、玄界灘
 私の住んでいる相生の隣が、龍野です。龍野は、薄口醤油の特産地として有名です。どうして、特産地となったのでしょうか。濃い口醤油は、大豆と小麦をほぼ同量使って 発酵・熟成させたものです。龍野の薄口醤油は、色や香りを抑えるために、濃い口に比べ発酵・熟成を抑え、塩分は濃い口より1割ほど多く使っています。醤油の量を少なくして調理し、素材の美を引き出すためです。
(1)水分中の鉄分が少ないほど、色が薄くなります。揖保川は、鉄分が県下で最も少ない。
(2)醤油の主原料の大豆が宍粟郡・佐用郡で生産され、その品質にも恵まれていました。
(3)播州平野で生産される小麦の品質にも恵まれていました。
(4)赤穂産の「にがり」を除去した塩が、良質でした。
(5)龍野の歴代藩主である脇坂公が専売商品として保護奨励しました。
(6)物資の輸送には揖保川の水運、特に高瀬舟が利用されました。
 わが家では、さしみを食べる時、妻は、濃い口もたまりも色が同じだと言って、濃い口の醤油を出すことがあります。私は、たまり醤油にこだわります。同じなら名前が違うはずだという理屈です。
 そこで、今回調べてみました。濃い口や薄口は、大豆と小麦粉を原料としています。たまりは、大豆を原料とし、小麦をほとんど使いません。だから、トロリとした濃厚な味が出るんですね。香りも違うことが分かりました。
 再仕込み醤油というのも知りました。仕込む時、食塩水の代わりに、火入れする前の醤油を使います。醤油を2度仕込む形なので再仕込みと言います。たまりより、味・色とも濃厚で刺身、寿司、冷奴、湯豆腐のつけ醤油に向いています。
 再仕込み醤油を買うぞ、しかし、相生で売ってるかなー。
 私の親戚に、スカッシュでアジア大会に出場した選手がいます。彼は、大学を卒業して、スカッシュのインストラクターとして小倉に赴任しました。
 正月に帰ってきた彼に、色々話を聞きました。北九州の人はよく酒を飲む。その理由が、冬は、玄界灘の嵐で「寒くて寒くて」、飲まずにはいられないという。
 河村瑞賢の玄界灘を越える船の発想は、小倉の「寒くて寒くて」を越える発想だったんですね。

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