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エピソード

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江戸の貨幣と金融制度(表示貨幣・秤量貨幣・両替商)
 支配者(将軍・大名)は、反抗や抵抗から身を守るために、色々な制度を考案しました。
 その1つが、在地の武士を、農業(経済力)から切り離して、城下町に集住させました。つまり、サラリーマン化したのです。サラリーマン化した武士は、支配者(将軍・大名)から与えられる給与(米)が唯一の生活源ですから、支配者(将軍・大名)に反攻や抵抗は出来ません。
 支給された米は食べられても、飲んだり、着たり、屋根の修理には使えません。江戸では、米を札差に売ります。そこで得たお金で、酒を買ったり、裃を着たり、屋根を修理できたのです。
 支配者(将軍・大名)は、武士の骨を抜きましたが、逆に、経済は、商人に握られていたことになります。つまり、商品経済や貨幣経済から逃れられない制度だったのです。
 幕府は、貨幣鋳造権を握って、統一貨幣としての金銀銭三種を発行しました。これを三貨といいます。
 大判座は、慶長大判を鋳造しました。1枚が10両の表示貨幣で、日常用でなく、贈答用として使われます。
 金座は、慶長小判を鋳造しました。1枚が1両の表示貨幣です。
 銀座は、秤量貨幣の銀貨を鋳造しました。慶長丁銀宝永永字丁銀が代表です。
 豆板銀は、重量調整用に使われました。
 一分銀は、4枚=小判1枚なので、定位銀貨とか、計数貨幣ともいわれます。
 銭座は、1文銭などの銭貨を鋳造します。その代表が寛永通宝です。
 三貨以外に、諸藩が発行した藩札もあります。1871(明治4)年の統計では、藩札は244藩が発行し、1700種に達したといいます。それほど、日本国中が、貨幣経済に巻き込まれていたことが分かります。
 小判1両を日常に使えません。銀貨50匁も日常に使えません。というのも、小判1両や銀貨50匁を銭(寛永通宝)に換算すると、4000枚になります。銭4000枚もって、旅行には行けません。
 小判か銀貨を持って行き、旅先の両替商で、銭に交換してもらいます。
 そのために、三貨の交換比率が定められています。
(1)金1両=金4分=金16朱
(2)銀1貫=3.75キログラム
(3)銭1貫=銭1000文
(4)金1両=銀50匁=銭4貫文(1609年)
(5)金1両=銀60匁=銭6貫文(1702年) 
 江戸時代、金1両で、米1石=150キログラムが買えました。現在の米価に換算すると、米価10キログラムは約4000円ですから、1両では6万円(4000×15=60000)になります。
派手に儲けて派手に使う、豪商のお大尽
 銭は1枚が1文ですが、天保年間に天保通宝(1枚で10文)が発行されました。重くて余り流通しなかったので、役に立たない代名詞になりました。役に立たない人を「天保銭」と言われるのは、以上のような理由です。
 天保通宝の汚名返上をします。銭形平次が投げる銭は、実は天保通宝なのです。寛永通宝では、小さくて相手を倒す効果はなかったでしょう。でも、投げた天保通宝は、どうなったのでしょうか。銭形平次が、拾い集める姿を想像すると、寒気がしますね。
 1グラムの金は、1キロメートルの金の針金になります。1グラムの金は、1000分の1ミリの金の板になります。このような金の性質が、金の価値を最高に高めているのです。
 銀も、両替商で切り取り、銀座で合わされます。金ほどではありませんが、高い価値を持っているのは、このような使い方に耐える性質だからです。
 商品経済・貨幣経済の結果、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門、淀屋辰五郎などの豪商が誕生しました。
 紀伊国屋文左衛門は、儲けるのも派手なら、使うのも派手です。
(1)「江戸の吉原を総揚げにした」というのです。当時、吉原には2000人の遊女がいました。それを1人で買いきったのです。その後、「大騒ぎ、五丁に客が、一人なり」という川柳がはやりました。五丁とは吉原のことです。
 (2)文左衛門は、「今年は、江戸に入る前に初鰹を吉原で食べたい。金はいくら使ってもよい」と知人の重兵衛に頼みました。重兵衛は、鰹の荷をすべて押さえ、文左衛門を呼びました。しかし、大勢の客を連れてきたので、1本の鰹あっという間に無くなりました。文左衛門が、「次は無いのか」と言っても、重兵衛はなかなか次を出しません。そこで、文左衛門が「何故、次を出さないのか」と問うと、重兵衛は「鰹はこんなにありますが、初鰹というのは1本だけです」と答えたので、文左衛門は、その機知に感心して、褒美に五十両を重兵衛に与えたといいます。
(3)茂左衛門が、遊女たちと吉原で雪見酒で楽しんでいました。これを知った文左衛門は、庭に大金を撒いて遊女に拾わせました。茂左衛門が楽しんでいた雪は、そのために消えてしまったということです。
 もう1人、奈良屋茂左衛門がいます。
(1)茂左衛門は、吉原で遊んでいる有名な遊び人に、蕎麦を一杯贈りました。有名な遊び人は、豪商の茂左衛門がわずか蕎麦一杯を贈ったことが気になりました。そこで、調べると、江戸中の蕎麦屋を買い占めて店を閉じさせて、有名な遊び人に贈っていたのです。わずか一杯ですが、江戸中で一番高い蕎麦だったのです。
(2)茂左衛門は、皆をびっくりさせようと大きな饅頭を作りました。しかし、階段が邪魔で入りません。そこで、階段を壊して饅頭を中に入れ、たくさんのお金を使って、その階段を修理しました。
 豪商の淀屋辰五郎の話もよくクイズに出されます。
 辰五郎は、天井にビロードをはり、その中に水をいれ、そこに 金魚を飼いました。多くの人を招待し、下から天上に吊るしてあるビロードの金魚鉢を眺めさせて、暑気払いをしました。
 最近、バブルがありました。江戸時代もバブルがありました。共に、はじけました。
 誰かが儲ければ、誰かが損する。賢い消費者でありたいものです。

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