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エピソード

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儒学の興隆(朱子学・陽明学・古学)
朱子学
 儒学の「」は「しっとりしている」とか、「おだやか」という意味で、それに「人」(にんべん)がつく。穏やかな人間に達する哲学と言えます。また、儒学は教(孔孟の教え)を実践する哲といえます。
 朱子学は、宋の朱熹が大成した「上下の秩序・大義名分を重んじ礼節を尊ぶ思想」で、封建社会を維持するための教えです。
 朱子学を日本に根付かせたのが、藤原惺窩です。藤原惺窩は、細川荘(兵庫県三木市)の領主冷泉為純の三男として生まれ、龍野(兵庫県龍野市)で仏門に入りました。やがて、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで仏教と儒教を学びました。
 1590(天正18)年、藤原惺窩は、大徳寺で、朝鮮の使者と豊臣秀吉との対談を筆話しました。これが縁で、儒教を中心に学ぶようになりました。都で儒を広めたので、藤原惺窩の流れの朱子学を京学と言います。
 この話を聞いた徳川家康が藤原惺窩を迎えようとしましたが、惺窩はこれを拒否して、弟子の林羅山を推薦しました。
 1630(寛永7)年、徳川家康に仕えた林羅山は、上野忍ヶ岡に宅地を賜り、私塾聖堂(聖は孔子のこと)を建て、「上下の秩序」「長幼の序」「修身斉家治国平天下」などを説きました。
 江戸幕府が採用した林羅山の主張は「政を為すに徳を以ってすれば、即ち言ふことなくして四海化して行はる」で代表されます。
 この系統に、林羅山の孫である林信篤木下順庵新井白石がいます。
 海土佐の朱子を興したのが、南村梅軒で、彼の流れを南学派と言います。
 『女大学』を著した貝原益軒も朱子学者です。
陽明学
 陽明学は、明の王陽明が創始しました。陽明が始めた問なので、陽明学といいます。その特徴は、「致良知」・「知行合一」という実践を重視する学問で、朱子学の理知主義とは対立する教えです。
 中江藤樹は、11歳の時、「人として生まれた者は、誰でも自分の行いを正しくすることが根本である。それができてこそ本当に人間らしい人間といえる」(『大学』)という孔子の教えを知りました。
 祇園祭の夜、有名な儒者である菅玄同藤原惺窩の弟子)が弟子の安田安昌に刺殺される事件が起きました。林羅山の子である林叔勝は、「安昌、玄同を弑するの論」を書いて、立派な儒者である菅玄同を殺害した安田安昌を批難しました。これを読んだ中江藤樹(22歳)は、玄同と安昌を「これ人面獣心の俗なり」として、林叔勝の考えを厳しく批判しました。
 中江藤樹は、菅玄同を己の才能にたよるだけの口先、耳ざわりのいい「口耳の学問」であって、徳を知らない。そのため玄同が弟子の安昌を待つ態度は、あたかも犬や豚のようであった。それゆえ安昌が常軌をいっして、殺人におよんだのは当然であったろう、と。
 中江藤樹は、また、古代中国の聖賢の教えに学んで、まず自分自身を立派に修養し、そして善の政治をおこなうのが「真儒」、口先だけを「俗儒」と主張しました。林羅山を「俗儒」と非難しています。
 中江藤樹に師事した熊沢蕃山は、『大学或問』で古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を死学と断定し、幕府を批判しました。
 そのことを知った幕府は、熊沢蕃山の著作物の出版を禁止し、古河に幽閉しました。
古学
 古学とは、くからの孔孟の問のことを言います。特徴は、朱子学を道学的と批判し、陽明学を観念的な解釈だと排除し、孔子と孟子の原典に直接あたり、孔孟の真意を汲み取ろうとすることにあります。
 山鹿素行は、実用の学を主張して聖人を規定し、朱子学を静的な修養だと批判し、自らの学問を聖学とよび、ために幕府によって赤穂へ流罪となりました。
 伊藤仁斎は、『論語』や『孟子』の原典を通じ直接聖人の道(実理=経験的知識)を理解しようとしました。京都堀川古義堂を開いて古の発展に尽くしたので、堀川学派とも言われます。
 荻生徂徠は、古典や聖賢の文辞に直接触れる点では、山鹿素行や伊藤仁斎と同じですが、法治主義による治国を主張しました。この立場を古文辞学派といいます。荻生徂徠は、柳沢吉保や将軍徳川吉宗に仕えたことでも有名です。
儒学と、現代に生きる思想
 孔子は前500年頃(今から2500年前)の人、孟子は前300年頃(今から2300年前)の人、朱熹は宋時代(960〜1279年)の人、王陽明は明時代(1368〜1644年)の人です。日本人の心に、中国の思想が大きく影響している様を知りました。
 柔剣道など日本古来の武道や日本のスポーツ界には、長幼の序・上下の秩序が跋扈しています。ここにも朱子学の影響を感じます。
 私が最初に赴任したところは、下宿でした。最初は、近所の食堂で、土曜の昼食と日曜の昼・夕食を食べていました。たまたま、土曜日の昼食をとっているとき、時雨となりました。食堂のおばあちゃんが、洗濯物を取り入れに外に出て行きました。ガスコンロにかけていた鍋がグラグラ煮えて、鍋の蓋が今にもはじきとばされそうになりました。それを見ていた中学の孫娘が、「おばーちゃん!おばーちゃん!」を大声で叫びました。その声が大きかったので、おばーちゃんは何事がと飛んで帰ってきました。
 孫娘が「鍋の蓋が…」というと、おばーちゃんは「こういう時は蓋をとったら、ええんやでー」と怒りました。
孫娘は「そんなん、知らんもん」と口答えしました。
 それを聞いて、陽明学の「知行合一」を思い出しました。つまり、正しい知識があれば、必ずそれを実行する。知っておれば、その他のことを選択することはない。つまり、知ることは即ち行うことである。「出来もしないことを言わない」という立場は、恐い学問ですね。
 孫娘は、今は、母親になっていることでしょうね。
 藤樹は、母を見るため、就職先の大洲藩を辞め、近江に帰りました。30歳になった藤樹は17歳の高橋久子と結婚しました。妻久子の容姿は、あまりにいいとはいえませんでした。そのことを周囲から指摘されると、藤樹は「容貌の美しさは年とともに消える。しかし、心の美しさは年とともに現れる。私の妻は、心が正しい。必ず美しい人になります」と返答しました。
 その言葉どおり、妻久子はよく気が付き、よく働くました。門人からも大いに慕われました。
 私がシュークスピアの『マクベス』や『ハムレット』の話をしていると、「先生は、本当に読んだんですか」と聞かれたことがあります。私は「私が読んだ中では、特に印象に残っている心理小説だ」と答えました。
 「原書で読んだんですか」といわれた時は、頭が真っ白になったことを覚えています。
 以後、翻訳物の『ハムレット』を読んだ時の感想を言うと…と前置きするようにしています。
 古学派を幕府が恐れる理由は分かります。今の評論家、TVのコメンテーターに聞かせたい話です。

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