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エピソード

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江戸時代の自然科学(本草学の稲生若水、和算の関孝和)
 鎖国時代の日本で、自然科学はどのように発展したのでしょうか。
 本草学とは、薬のとなるのことを研究する問ということです。
 『女大学』を書いた朱子学者の貝原益軒は、実は有名な本草学者で、『大和本草』を著して1362種の動物・鉱物・植物を解説しています。
 本草学を大成した稲生若水は、加賀前田藩の儒医でしたが、藩主前田綱紀に願い出て『庶物類纂』を著しました。内容は、古今の漢籍より動物・鉱物・植物の記事を調査し、種類・分類毎に26属に分けるというものです。しかし、若水は、9属362巻を編集した段階で病没しました。弟子の丹羽正伯が、17属638巻を完成させました。
 熱心な学者とその後継者、それを支えるスポンサーがいて、偉業というのは達成されるということを知りました。
 和算とは、大(日本独自)の術という意味です。
 吉田光由は、『塵功記』を著し、「ねずみ算」・「倍増し問題」・「油はかり分け算」・「百五減算」などそろばん(算盤)数学の普及に努めました。以下は『塵劫記』の一説です。これを算盤で計算するのです。
 「米八百十石ある時、銀十匁に付四斗三升二合の相場にして、右の米の銀なにほどといふとき、銀十八貫七百五十目と云也。右に米八百十石とおきて、ひだりにさうば四斗三升二合とおきて、右の米をさうば四斗三升二合にて割れば、十八貫七百五十目として申候。こめと米、さうばで割ればかねになる。かねに掛くれば米となるべし」(算盤の右側に810と入れます。次に算盤の左側に0.432と入れます。そして割るのです)。
 和算の大成者と言われる関孝和は、1674(延宝2)年、『発微算法』を著しました。
 関孝和が子どもの頃、算盤の図が書いてある本を手にしました。本に書いてある通り、算盤を使うと、どんな問題でも自由に解けるようになりました。ある時、算盤では解けない問題に出会いました。そこで、中国から伝わった算木をならべる方程式があることが分かりました。しかし、これは算木を並べるという不便があったので、孝和は、独自に、記号を使う筆算式の代数学を考案しました。
 関孝和は、筆算式の代数学をにより、円に内接する正多角形(131072【2の17乗】)の辺の長さを求める公式(角術)を使い、円周率を小数以下11桁(3.14159265359)まで計算しています。
 天文暦学では、安井算哲渋川春海)が、天体観測を元に、平安時代以来使用していた宣明暦を修正し、太陰・太陽暦という『貞享暦』を完成しました。1684貞享元)年のことです。
 安井算哲は、江戸時代に、1年を365.2417日と計算しています。
 内容は次の通りです。新月から次の新月の前日までを1か月とする。大の月(30日)、小の月(29日)を適当に配置する。太陽の運行に合せるため19年に7回の閏月をおく。農村では、気候と合わないので、太陽の運行をもとにした二十四節気(立春・夏至・秋分・冬至など)をめやすに農作業をする。
和算の発展と限界、現代の拝金主義の落ち行く先は?
 私は代数は好きでしたが、微分・積分になると、チンプンカンプンでした。専門家によると、代数は文系の分野で、微分・積分は理系の分野だそうで、その立場からすると、私の数学嫌いは正しいそうです。
 代数の嫌いな文系人間がたくさん誕生しているそうです。これは、私の体験から言うと、量をこなしていないだけのことです。演繹的に物を考える上で、代数はマスターしてほしいと思います。
 関孝和の偉大さは、数学嫌いな私にはよく理解できません。しかし、多くの書物は、孝和はニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に、微分・積分にたどり着いたとして知られるとか、日本でもこのような高度な数学が確立されていたことに驚くという記述が見られます。
 1665年、ニュートンは、二項定理・微分を発見しました。その頃、ニュートンがリンゴの木の下に座っているときに、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を思いついたというエピソードが誕生しました。
 関孝和は、「連立二元一次方程式の解を求める公式を生みだし、これを多元に広げて行く過程で今日の行列式の考えにたどりついた。これはヨーロッパに先立つこと二百年前である」という記述もあります。
 しかし、不思議に思うのは、ニュートンのことを知らない日本人はいません。でも、関孝和のことを知っている日本人はどれくらいいるでしょうか。ましてや日本人以外では…。
 和算が関孝和の段階で留まってしまった理由は、「運動の本質や法則を研究することなく、実用と計算術そのものにあった」という指摘がありました。今の日本の、哲学のない、拝金・金儲け主義の先が予測される指摘です。

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