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エピソード

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松尾芭蕉と『奥の細道』
(1)「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」で始まる『奥の細道』は誰でも知っています。その著者が松尾芭蕉ということも知っています。
 私は中学時代に、子供向けの『奥の細道』を読んでいたと思います。高校時代、岩波古典文学大系で『奥の細道』を読破しました。何度も読み返しました。今も読み返しています。私なりにその魅力を、誰かの概説を紹介するのではなく主体的に取り上げてみたいと思います。
(7)「ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。ひとりは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかり」という記述があります。
 芭蕉が、那須の黒羽の知人を訪ねようとした時、親切な百姓に馬を借りました。この時、子供が2人、馬の後について走ってくる。1人は女の子で、名前が「かさね」といい、芭蕉はその名を「やさしかり」と表現しています。「やさし」とは「優美な」という意味です。
 百姓にとって馬は貴重です。それを見知らぬ芭蕉に貸すということは、普通あり得ません。『曽良随行日記』で確かめましたが、芭蕉の創作でもありません。芭蕉は、親切な百姓に感動して、その娘を「かさね」を「やさし」と表現したのでしょう。
 私は女の子が生まれたら「かさね」に決めていました。待望の女の子が生まれました。しかし、やめました。卒業生から「ポルノ女優と同じ名だから、かわいそう」と聞かされたからです。「可愛い」が「可哀」相では申し訳ないと思うと同時に、芭蕉さんはどう思っているのでしょうか。
(11)「清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。…田一枚 植て立去る 柳かな」という記述があります。
 芭蕉は、西行が蘆野で、「道のべに 清水流るゝ 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」と読んだ柳を見に行きました。その時、村の娘(早乙女)が田植えをしていました。芭蕉は、西行への思いと、村の娘の苗を植える「しぐさ」に時間を忘れていました。田植えが終わった時、芭蕉はふっと自分にかえり、再び柳を見て、その場を立ち去りました。
(28)「『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。夏草や つはものどもが 夢の跡五月雨の 降りのこしてや 光堂」という有名な記述があります。
 芭蕉は、中国の詩人杜甫の『春望』の一節「國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心」を紹介しています。冒頭の「古人も多く旅に死せるあり」も杜甫の影響だという説もあります。
 芭蕉は、歴史の敗者である源義経や木曽義仲に同情を寄せています。芭蕉が、平泉の高館を訪れた時、緑の夏草が空しく生い茂っていました。これを見た芭蕉は、功名に失敗した夢の跡、栄華の夢に耽った跡と比較して、無常を感じて涙を流しました。
 次に、芭蕉は、5月に、雨の中、平泉の中尊寺を訪れました。中尊寺の多くは廃れているのに、藤原3代の遺骸を納めた光堂だけは、立派に管理されていました。これを見た芭蕉は、五月雨は、光堂だけは何百年も降らなかったのだろうと、感心しました。
(31)「岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔滑かに、岩上の院々とびらを閉ぢて物の音聞えず。…佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」という有名な記述があります。
 芭蕉が、引き返し、遠回りして来た立石寺での情景です。本文に、俳句の意味が表現されていますので、私の解釈は省きます。
(33)「最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。果ては酒田の海に入る。五月雨を あつめて早し 最上川」という有名な記述があります。
 これも、多くの支流を集めて本川の流れが速いという、有名ではあるが、何の変哲もない歌です。
(35)「日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて、頂上に至れば、日没して月あらはる。…雲の峯 幾つ崩れて 月の山」という記述があります。
 私の好きな句の1つです。日や月の行く道にある雲の関所に入るのかと思うほど、息が絶えだえ、身もこごえて、やっと頂上に至ると、日は没して月が現れました。俳句の意味は、次のようなものです。峯のように立ちはだかっていた6月(今の7月)の雲(入道雲)が割れて透間が出来た。やがて出てきた月が、月山から見た山々を照らし出した。
 しかし、情景が思い浮かびません。今から数年前、朝日新聞の名物記者だった轡田隆史氏が『奥の細道』(映像紀行)をテレビ朝日で解説していました(ナレーションはイルカ)。この解説と映像を見て、やっと芭蕉と同じ場に立つことが出来ました。もっと早くこの映像に出会ったいれば、もう少しましな解説を出来たのにと悔やんだものです。
(37)「象潟に舟をうかぶ。…俤松島にかよひてまた異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。…象潟や 雨に西施が ねぶの花」という有名な記述があります。
 象潟は、隆起現象で陸になっています。芭蕉は、船で西行が「花の上にこぐ」と詠んだ桜の老木を見に行ってます。
 松島と象潟の比較が面白いのですが、今となっては確認のしようもありません。「ギター侍」ではありませんが、「残念!!」
 俳句の意味は、次のようなものです。芭蕉は、雨にけむる象潟にやってきました。憂いを含んだ美女を連想します。合歓は雨に叩かれ葉を閉じています。つまり、合歓の花が咲いているが、雨に叩かれた合歓の表情は、中国の伝説の美女西施が憂いを含んで目を閉じているようだ。「合歓の葉を閉じて」と、「西施の目を閉じて」がかけられています。
(38)「荒海や 佐渡によこたふ 天河」という有名な俳句があります。
 意味は、次のようなものです。黒々と凄まじい、日本海の荒波の向こうには佐渡がある。空を見上げると、銀河がきらきらと佐渡の方までのびて、雄大である。と、同時に、佐渡の流人への思いも感じる。
10 (39)「一間隔てて…若き女の声二人ばかりときこゆ。…物語するをきけば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。…物いふを聞く聞く寝入りて…一家に 遊女もねたり 萩と月」という有名な記述があります。
 俳句の意味は、次のようなものです。同じ家の下にでは、美しい遊女と諦観した僧衣の旅人とが一夜を明かす。外では、庭に咲く美しい萩と、冷たく光る月との対称が見られる。屋内の屋外の情景を対比させている。
11 (50)「駒にたすけられて大垣の庄に入ば…」と終点の地大垣にたどり着き、『奥の細道』の旅は終りました。
松尾芭蕉と私
 私は、結納金を納める時、預金通帳を見ると17円しかありませんでした。そこで、未来の妻にお金を借りて、無事結納を納めました。
 どうしてお金がなかったのかというと、芭蕉の憧れ、時間があれば旅に出て、旅に死ぬ覚悟だったのです。学生時代、家庭教師で得たお金で、1万分の1の地図を買い集め、『奥の細道』の全行程を色鉛筆で塗り、同じ日程で歩く予定をしていました。4回生の時、時間に余裕があり、いざ実行という段階で、銀行員が私の計画を先取りしたという記事が新聞に掲載されました。絶望に、私は青春の凝結したその地図を捨ててしまいました。
 しかし、冷静に考えると、銀行員が、私と同じ計画を実行するためには、3月27日に江戸を出発して、8月24日に大垣に着くのですから、5ヶ月間の休暇をとる必要があります。そんなことは、サラリーマンにはできません。
 再度、新聞を取り寄せ、読んで見ると、何年もかかって、同じ日程で、実行していることが分かりました。しかし、私には、1万分の1の地図を買い集め、『奥の細道』のを全行程を色鉛筆で塗るエネルギーは残っていませんでした。
 私の住んでいる相生市には古池という地名があります。その池の側に「古池や かわずとびこむ 水の音」という石碑が立っています。古池と、有名な芭蕉の「古池や…」を単純にかけあわせたもので、芭蕉が相生に来たことはありません。
 しかし、この俳句の意味は何なんでしょうか。普段、蛙が池に飛び込んでも、水の音は聞こえません。冷静に、注意深く、耳を澄ませば、聞こえてきます。「岩にしみいる 蝉の声」も、同じです。嫌なことがあったり、急ぐことがあったりすると、水の音も蝉の声も耳に入りません。心を無にして、初めて聞こえたり、見えたり出来るのです。
 松尾芭蕉は、やはり禅的な思想の持ち主で、芭蕉の句を理解するには、禅的な考えが必要です。
 西行や芭蕉、映画『フーテンの寅さん』に通ずるのは、「日々旅にして旅をすみかとす」という心情です。実際には家族を持つ私には、憧れであっても、実行できません。でも、自然は悠久で、人間の命は有限だとすれば、私も人生を旅して、いずれ死に至るという考えはしています。「人間は自然から生まれて自然に帰る」ということです。
 芥川竜之介が「自分は死ぬのが恐いから生きている」と言い、その死を超越した後、自殺をしています。
 松尾芭蕉の一連旅は、情報探索が目的だったという話をご存知でしょうか。今も昔もあります。
(1)芭蕉が生まれた伊賀上野は忍者の里であるというのです。
(2)諸国を遍歴する連歌師(柴屋軒宗長など)は諜報活動を担わされていたというのです。
(3)『奥の細道』に関しては、河合曽良の『曽良随行日記』との記述が80ケ所以上食い違いがあるというのです。
(4)紅花の技術を探ろうとした産業スパイであるというのです。
(5)伊達藩が日光東照宮の修繕に非協力的だったので、その真意を探らせた。そのため、伊達領内の芭蕉の行動は異常であるというのです。
 いずれも状況証拠ばかりで、反論するにも同じ土俵に立てません。しかし、何度も蒸し返されることなので、私なりに意見をまとめてみました。
(1)伊賀上野は忍者の里なら、伊賀上野の人は、全てスパイなのでしょうか。
(2)連歌師がスパイだからといって、高野聖やお遍路さんはスパイなのでしょうか。
(3)『奥の細道』は文学書、フィクションです。記録ではありません。
(4)紅花の技術を盗んでも、山形の風土が育てた紅花を真似できません。
(5)伊達領内の芭蕉の行動は異常であるといっても、どの部分を指しているのか、分かりません。反論できません。
 私の結論です。松尾芭蕉はスパイではありません。
(1)スパイが「息絶え身こごえて」月山の頂上に登る必要はありません。
(2)「一見すべきよし、人々のすすむるによつて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり」。そして苦労して登ったのが、立石寺です。紅花を盗むのに立石寺に登って、「岩にしみいる 蝉の声」などという歌を詠んでいる閑はありません。
(3)西行の跡地を追っていますが、西行とスパイの関係はあるのでしょうか。お聞きします。
(4)また、芭蕉は手紙をあちこち出しています。スパイが、人に疑われるようなことをする筈はありません。

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