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エピソード

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元禄絵画(土佐派・住吉派・初期の浮世絵)
 ここであらためて日本美術史をまとめてみます。
 日本古来の大和絵といいます。中国的な主題を扱った唐絵に対する用語です。
 平安時代には、日本の世俗的な風物を描いた屏風絵や障子絵が大和絵と言われました。
 鎌倉時代には、水墨技法を用いた宋元画およびそれにならった唐絵・漢画が渡来すると、平安時代以来の伝統的な絵画様式を踏襲する絵画を大和絵と呼びました。
 14世紀、宮廷絵所絵師の藤原行光が伝統を継承し、土佐光信が確立したので、土佐派といわれるのです。
 桃山時代以降、江戸時代を通して土佐派は、大和絵の伝統を守りました。
 元禄時代の土佐光起には『三十六歌仙図屏風』・『百人一首』があります。
 安土桃山時代に、狩野正信は、漢画様式を基調とした日本画を創出し、狩野派の祖となりました。
 以降、狩野元信狩野永徳狩野探幽などが出て、隆盛を極め、江戸時代には、幕府の御用絵師として画界の主流をなし、世襲制でその地位を維持しました。しかし、この体制が、狩野派の勢いを失くし、衰退させました。
 江戸時代初期に、住吉具慶は、大和絵を基調に優雅繊麗の画風を確立しました。そこで、住吉派 といわれますが、土佐派の分派です。
 住吉具慶は、幕府の御用絵師となりましたが、以後衰退しました。
 住吉具慶の作品には『洛中洛外図風』があります。
 江戸時代中期に、尾形光琳は、江戸時代初期の俵屋宗達と大和絵と狩野派を融合して、金や濃彩の絵具を多用した装飾的で、華麗な画風を確立しました。そこで、光琳派とか琳派といわれます。
 尾形光琳の作品には、『紅白梅図風』と『燕子花図屏風』があります。
 それ以外に、岩佐又兵衛は、大和絵と水墨画を融合した画風を確立しました。
 特徴は、「豊かな頬、長い顎、芝居がかった大仰な仕草や熱っぽい姿の群衆、人物を描く流暢なそれでいて画面に食い込むように強靱な線」と千葉市美術館の説明にあります。
 岩佐又兵衛の作品は、『三十六歌仙図額』・『人麿・貫之図』・『浄瑠璃物語絵巻』などです。以上は全て重要文化財に指定されています。
 元禄美術の特徴はなんといっても、浮世絵の創出です。2〜6までの作品が、肉筆であるのに対して、浮世絵は木版画を特徴としています。
 余に1つしかない肉筆画は、高価で、庶民には縁のない世界でした。それが、版画となると、1枚の木版から多数の絵を摺ることがことができるので、庶民の手の届く範囲になりました。
 制作は、絵師が下絵を描き、彫師が、木版に彫っていきます。最後に、摺師が紙に摺り上げます。初期には、黒一色から簡単な紅を基調とした彩色を施したので、錦絵と呼ばれました。
 化政時代の錦絵は、色をたくさん使用しています。
 菱川師宣の作品では、『見返り美人図』が有名です。 
美術の鑑賞・鑑定
 以前に書いたかもしれませんが、美術館に行くときは絵の先生と行くことにしています。素人では分からないことを教えてもらえるからです。そして、素人ながら、たくさんの作品から1点を選んで、あらゆる角度から何度も何度も、時間をかけて鑑賞することにしています。
 それでも、鑑賞は困難です。好き嫌いしかないというのが、現在の心境です。
 菱川師宣の『見返り美人図』が有名です。私は、懐月堂安度の『美人立図』の方が好きです。この2人の画家は、化政期の喜多川歌麿と違い、美人の全身を描いています。姿かたちの美しさは、全身がいいし、表情はアップがいいし、アルバムなどはこの両方を採用してほしいものです。
 以前、菱川師宣の『見返り美人図』をモジッた自動車メーカーのCMが放映されていましたね。授業でも大いに利用させてもらいました。
 TV番組に「なんでも鑑定団」がある(あった?)ようです。
 依頼人が「鑑定書が付いており、それにはかの有名な土佐光起筆のものであると書かれている」と『百人一首』を鑑定に出しました。依頼人は1200万円はすると考えています。
 それに対して、プロの鑑定人は「画風や紙の時代からみて土佐光起のものではない。光起は350年前の人。依頼品はせいぜい文化文政、200年程度の時代しかない。江戸時代にはお姫様の嫁入り道具で百人一首は屏風や絵巻き、画帳でよく作られた。これもその一つだろう。光起のものであれば1500万円はする」という結果から、300万円と鑑定したということです。

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