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エピソード

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享保の改革(暴れん坊将軍徳川吉宗の実像)
 徳川吉宗は、「全て権現様お定めの通り」という言葉をよく口にしたと言います。権現様とは徳川家康のことです。徳川家康が1616年に亡くなり、徳川吉宗はそれから100年後の1716年に将軍となったからです。
 徳川吉宗は、自分が徳川家康の生まれかわりであると信じていた節があります。
 「暴れん坊将軍」や大岡忠相の「越前裁き」などによって、実像が歪曲されています。実像はどうだったのか、検証してみました。
 1681(延宝9)年、徳川御三家である紀伊の徳川綱教(父は徳川光貞)は、将軍徳川綱吉の娘鶴姫と縁組を結びました。徳川綱吉が江戸の紀州藩中屋敷を訪 れるたびに、屋敷を新築したり調度品を新しく揃えて、膨大な費用を使いました。
 1684(貞享元)年、徳川頼方(父は徳川光貞)が生まれました。母はお由利の方(紀州藩士の巨勢利清の娘)といわれています。徳川頼方は、家臣である加納五郎左衛門の下で育て られました。
 1697(元禄10)年、父徳川光貞に従い、長兄の徳川綱教と次兄の徳川頼職(父は徳川光貞)は5代将軍徳川綱吉と面接しました。この時、老中の大久保忠朝は、次の間に控えていた徳川頼方(14歳)を徳川綱吉に面接させました。
 徳川頼方は、父徳川光貞より越前丹生郡に3万石の領地を与えられ、紀州の分家の大名となりました。徳川頼方は、田沼意次の父田沼意行を、足軽から小姓役に登用しました。これは大抜擢といえる人事でした。
 1704(宝永元)年、将軍徳川綱吉は、徳川綱豊を養嗣子としました。
 1705(宝永2)年5月14日、紀伊3代目藩主の徳川綱教が病死しました。時に41歳でした。
 5月22日、松平頼方は、越前丹生郡から紀伊の本家に呼び戻されました。
 9月、紀伊4代目藩主の徳川頼職は、江戸から和歌山に向かう途中で急死しました。時に26歳でした。
 11月、徳川頼方が紀伊5代目の藩主となりました。名を徳川吉宗と改めました。時に22歳でした。
 藩主になった徳川吉宗は、江戸屋敷の火事、兄二人と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両(初代藩主徳川頼宣が幕府から借用)の返済に苦心しました。
 1706(宝永3)年、徳川吉宗は、伏見宮理子姫を夫人に迎えました。
 1707(宝永4)年、徳川吉宗は、大 津波が起こるなど災害による出費などで悪化していた藩財政の再建に着手しました。
 藩主徳川吉宗が行ったことは、質素倹約と武芸奨励です。
 徳川吉宗は、自ら率先して、衣服は羽織も下着も木綿とし、染めない白物を着ました。食事は、朝夕の2回とし、献立も「一汁三菜」としま した。高価な「初物」を避け、安くて美味な「旬物」を使うように命じました。これにより、消費癖のついた家臣の精神を引き締めました。
 次に、家臣の賃金を一部カットしています。歴史的には、これを借知といいますが、紀州藩では家臣が藩に給料の一部を差し出すという形式をとったので、「差上金」といいます。また、家臣の中から80人を解雇しましたす。
 こうしたリストラ(再構築)にあたって不満を吸収しようと、徳川吉宗は、和歌山城の一ノ橋門外に「訴訟箱」を置き、徳川吉宗自らが箱を開けるようにしました。これが、後の「目安箱」の原点といわれる発想です。
 藩主徳川吉宗は、「出」(支出)を抑えて、次に「入」(収入)を図りました。
 徳川吉宗は、井沢弥惣兵衛大畑才蔵らを抜擢して、大規模な水利事業新田開発を行わせました。
 特産物として、ミカンや醤油、漁業などにも力を入れました。
 1709(宝永6)年1月、将軍徳川綱吉(54歳)が亡くなりました。
 5月、甲府の徳川綱豊が6代将軍となり、名を徳川家宣と改めました。徳川家宣は、新井白石を側用人として登用しました。
 6月、柳沢吉保が引退しました。
 8月、僧隆光は、護持院住職を免職されました。
 1710(宝永7)年、徳川吉宗は、莫大な借財を完済して、財政を黒字にしました。
 1712(正徳2)年9月、勘定奉行荻原重秀が罷免されました。
 10月、6代将軍徳川家宣(51歳)が亡くなりました。
 1712(正徳2)年、徳川吉宗は、大岡忠相を伊勢山田奉行に抜擢しました。以前、大岡忠相が紀州と松坂の境界問題を厳正に裁いたことがありました。徳川吉宗は、大岡忠相に注目し、山田奉行に抜擢したのです。
 1713(正徳3)4月、徳川家継(父は徳川家宣)が7代将軍になりました。時に5歳でした。徳川家継は病弱で、就任当初から、次の将軍として、御三家の1つ尾張の藩主徳川吉通が予定されていました。
 7月、次期将軍候補の徳川吉通が食事を終えた後、吐血して急死しました。時に25歳でした。その子五郎太は、まだ3歳でした。
 1714(正徳4)年1月、絵島生島事件がおきました。
 1716(正徳6)年4月、7代将軍徳川家継が亡くなりました。時に、8歳でした。これで、7代114年続いた徳川将軍家の血筋(徳川秀忠の嫡流)が途絶えたことになります。
 5月、徳川家継の側用人である新井白石が罷免されました。
 6月、年号が正徳から享保に変わりました。
 8月、御三家の1つ紀伊の藩主徳川吉宗が、8代将軍になりました。時に33歳でした。
 1721(享保7)年、徳川吉宗は、検見法を改め、定免法を制定しました。
 1721(享保7)年、徳川吉宗は、目安箱を設置しました。
 1722(享保8)年、徳川吉宗は、上げ米の制を制定しました。
 1723(享保9)年、徳川吉宗は、足高の制を制定して、大岡忠相を町奉行に抜擢しました。
 1742(寛保2)年、徳川吉宗は、寺社奉行に出世した大岡忠相は『公事方御定書』を制定しました。
暴れ横暴将軍誕生の背景
 1716年は正徳6年です。7代将軍家継が亡くなる前後に、老中の土屋正直・井上正岑が、紀伊の上屋敷を訪ねました。次期将軍を依頼するためです。徳川吉宗は、「新井白石の罷免」を条件に出しました。というのも、実力者である側用人の新井白石が存在しておれば、将軍は飾りに過ぎなかったのです。
 老中が、新井白石の実力を認めれば、吉宗の将軍は実現しません。老中が白石をとるか、自分をとるか、一種の賭けです。
 結果は、老中は、吉宗を選択しました。吉宗の初戦の勝利です。これは私の推論です。その根拠は、白石を罷免した後、吉宗の愛した享保という年号に変わっているからです。年号は、『後周書』にある「茲大命、有万国」からとっていることです。
 次に、将軍吉宗は、老中の土屋正直・井上正岑に、幕府の財政事情を質問しました。老中は「担当者に答えさせます」と答えると、「もういい」と言って、以後、老中の口出しを封ずることに成功しました。
 こうした一連の流れから、将軍吉宗は、徳川家康の生まれ代わりであることを確信しました。
 家康が、御三家を設けていなければ、吉宗の将軍は実現しませんでした。権現様は100年後に、私吉宗を将軍就任を予測していたというのです。ここに将軍独裁制が復活するのです。
 前例を無視して、身分の低い大岡忠相を町奉行に抜擢するために、足高の制を設けたり、上げ米の制を設けて、参勤交代の在府期間を半年に短縮したり、輝かしい成果を上げています。
 家康が御三家を設けたように、吉宗も御三lを設けました。後、御三lの1つ一橋家から将軍が誕生しました。
 次に、暴れん坊将軍になる要素を探してみました。
 吉宗は6歳の時、大奥に通じる廊下の障子に、指で穴をあけました。職人が修理に必要な紙の量を計っていると、吉宗 「紙は5帖で十分」 と言いました。職人が不思議そうにしていると「あけた穴の数を数えただけだ」と答えました。
 吉宗は身長が180センチもありました。当時の平均身長が150センチといいますから、特別な大男でした。狩に行ったとき、手負いの猪を一撃で仕留めたり、逃げる獲物を追って2キロも追っかけて捕まえたりしました。
 私は、人気の秘密は、『公事方御定書』にあると思っています。簡単に言えば、罪に該当する罰を決めたということです。それ以前では、主人の恣意(その時の気分)で、罰が決められていたのです。同じ罪でも、ある時は「叩き」だったのが、次の時は「切腹」だったのです。
 映画やTVはフィクションです。水戸黄門や遠山の金さんと同じ、権力側の人物を描いています。庶民には、なかなか不満を解消されない現状を、上からの「鶴の一声」を期待したのでしょう。
 たくさんの犠牲者が出る前に、「鶴の一声」が欲しいものです。
 吉宗が将軍になるまでには、多くのライバルが急死しています。これは吉宗の陰謀という説もあります。
 最大は、尾張の徳川吉通の急死です。しかし、吉通には、嫡子の五郎太もおります。
 むしろ、吉通の将軍就任の障害になったのは、母親の存在です。有名な朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』によれば、母の下総の方(本寿院)は、夫の藩主綱誠死後、藩士や役者、出入りの町人たちを屋敷に引っ張り込み、やがて幽閉されました。男を絶たれた下総の方(本寿院)は、屋敷内のもみの木につかまって、奇声を発したということです。
 紀伊藩主吉宗は、膨大な借財を返済するなど、実績を上げていたので、妥当な人選だと思います。
* 系図の見方(将軍、御三家)
┏━ 徳川家綱
徳川家康 徳川秀忠 徳川家光 ╋━ 徳川綱重 徳川家宣 徳川家継 徳川吉宗
┗━ 徳川綱吉 鶴姫
下総の方
━━━ 徳川吉通
‖━ 尾張義直 徳川光友 ━━ 徳川豊誠 ━━━ 五郎太
お亀 山 田 氏 ━━ 徳 川 綱 教 九条輔姫
‖  宮 崎 氏
━━━ 徳川頼職
‖━ ━━ 紀伊頼宣 徳 川 光 貞
お万の方 水戸頼房 ‖━ ━━ 徳川頼方(吉宗) ━━━━
おゆり

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