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エピソード

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田沼田沼意次の政治(蝦夷地開発、手賀沼・印旛沼開拓、株仲間公認)
 1716(享保元)年、紀伊藩主徳川吉宗が、8代将軍になりました。その時、田沼意次の父田沼意行は、600石の旗本になります。
 1719(享保4)年、田沼意次は、江戸で、旗本の子として生まれました。
 1734(享保19)年、田沼意次(15歳)は、徳川吉宗の嫡子徳川家重の小姓となります。徳川家重は不肖の子で、言語が不明瞭だったといいます。
 1733(享保18)年、将軍徳川吉宗は、徳川宗武(父は徳川吉宗)に江戸城田安門内に屋敷を与えました。これが御三卿の1つである田安家の誕生です。
 1741(寛保元)年、将軍徳川吉宗は、徳川宗尹(父は徳川吉宗)に江戸城一橋門内に屋敷を与えました。これが御三卿の1つである一橋家の誕生です。
 1745(延享2)年、徳川吉宗(63歳)は、徳川家康に倣って、生前に、将軍職を、徳川家重(父は徳川吉宗。35歳)に譲りました。田沼意次は、御小姓組番頭となり、石高も2000石となりました。
 この時、大岡忠光が側用人になりました。石高2万石で、岩槻城主となりました。唯一、徳川家重の言語を理解できる能力を買われての抜擢です。側用人政治の復活です。
 1751(寛延4)年、前の将軍徳川吉宗が亡くなりました。時に69歳でした。
 1751(寛延4)年、田沼意次(32歳)は、御側役、石高も5000石になりました。
 1758(宝暦8)年、将軍徳川家重は、徳川重好(父は徳川家重)に江戸城清水門内に屋敷を与えました。これが御三卿の1つである清水家の誕生です。
 1760(宝暦10)年、9代将軍家重(50歳)は、嫡子徳川家治に将軍職を譲りました。徳川家治も、無気力で、政治には興味がなかったと言われています。
 1760(宝暦10)年、側用人の大岡忠光が亡くなりました。
 1761(宝暦11)年、前の将軍徳川家重(51歳)が亡くなりました。
 1767(明和4)年、田沼意次(48歳)は、側用人、石高も2万石の大名になりました。
 1769(明和6)年、田沼意次(50歳)は、老中格、石高も2万5000石になりました。
 1772(明和9)年、田沼意次(53歳)は、老中となりました。側用人で、正式の老中になったのは、田沼意次が最初です。元禄時代の柳沢吉保でも、叶わなかった権力を手に入れました。田沼意次は、年貢に課税することの限界をさとり、成長する商品経済の流通過程に課税したり、力を発揮している商業資本を利用する政策を推進しました。
 1772(明和9)年、田沼意次が老中となって最初に行ったのが、南鐐二朱銀の鋳造です。
 専門的には、金貨体系による幣制の統一は、徳川家康以来の悲願でした。田沼意次は、従来の秤量貨幣であった銀貨を計数貨幣に改めました。
 分かりやすく説明すると、江戸では金、大坂では銀が通貨として流通していました。そこで、幕府御用の両替商が、両替をしてマージンと手にしていたのです。そこで、田沼意次は、銀を貨幣の形にして、南鐐二朱銀8枚で金1両として流通させました。
 その結果、銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化しました。
 1780(安永9)年、田沼意次は、幕府直営の鉄座・真鍮座・朝鮮人参座を設定しました。
 1782(天明2)年、田沼意次は、江戸と大坂の豪商の資本を利用して、利根川下流の沼地である印旛沼・手賀沼の干拓に着手しました。これは、近くの山を削って沼に運ぶという、江戸版列島改造計画です。山も沼も平地にし、新田化の計画です。田中角栄さんも、田沼意次ファンだったかも知れません。
 1782(天明2)年、天明の飢饉が日本を襲いました。
 1783(天明3)年1月、仙台藩の医師工藤平助(50歳)が、対露貿易と蝦夷地開発を提案する『赤蝦夷風説考』を田沼意次に献上しました。赤蝦夷とはロシア人のことです。
 7月、浅間山が大噴火して、霜害に苦しめられました。
 8月、農村では百姓一揆、都市では打ちこわしが起こりました。
 1784(天明4)年、若年寄田沼意知(田沼意次の嫡子。35歳)が、殿中で、佐野善左衛門政言に刺殺されました。原因は、名門佐野家の系図を借りた田沼意知が返さなかったのが原因と言われています。佐野家の系図は田沼家に書き換えたので返せなかったのです。人々は、佐野政言を「佐野世直し大明神」と言ったといわれています。この段階で、庶民は、田沼意次の政治に反感を抱いていたことが分かります。
 1784(天明4)年、田沼意次は、株仲間を積極的に公認し、石灰・硫黄・油などに専売権を与えて冥加金を得ました。その上、利益の何パーセントを徴収する運上金も得ました。しかし、ここでも、専売により既得権を失った農民の反発を受けています。
 1785(天明5)年、田沼意次(66歳)は、遠江相良城5万7000石の大名になりました。
 1785(天明5)年、林子平は、『三国通覧図説』を発表しました。三国とは朝鮮・琉球・蝦夷地のことで、日本との里程を示して、国防的観点からそれら四地域の地理や風俗について解説しています。蝦夷地を本土並に開発することにより、ロシアの侵略政策に対抗し得ると主張しています。
 1785(天明5)年、田沼意次は、工藤平助・林子平の提案を受け、対露貿易の拠点である蝦夷の開発計画を立案しました。
 1785(天明5)年、田沼意次は、対蘭貿易の拠点長崎に長崎俵物会所を設置しました。
 1786(天明6)年、田沼意次は、最上徳内(33歳)を択捉得撫に派遣しました。
 6月、松平定信(将軍徳川吉宗の孫。28歳)は、次期将軍徳川家斉一橋家)の意を挺して、田沼意次を罷免しました。手賀沼・印旛沼の干拓計画は、中断されました。
 9月、10代将軍徳川家治が亡くなりました。時に51歳でした。
 1788(天明8)年、田沼意次が亡くなりました。時に69歳でした。
早く生まれすぎた田沼田沼意次(江戸版の田中角栄か?)
 将軍家重が、諸大名と対面していた時です。急に家重がニコニコしだしたので、老中も愛想笑いをしました。すると、座をたった家重は、急に立ち上がって、老中の頭を扇子でポカポカ殴ったといいます。後で分かったことですが、家重が対面中、小便を座布団の上にしてしまいました。それが何と言えず、生暖かく気持ちがよかったのでニコニコしたというのです。
 将軍である自分はいいが、家臣の身分で、将軍の前で、座布団に小便してニコニコするのは許せないので、殴ったというのです。
 江戸時代というのは、こんな人でも将軍になれるのですね。と、同時に、このような人の機嫌をとれる田沼田沼意次はどんな人なのか、とても興味があります。
 「金とりて 田沼るゝ身の にくさゆえ 命捨てても さのみおしまん」の田沼は当然田沼田沼意次です。「さのみ」の「さの」は、田沼意次の嫡子意知を刺殺した佐野善左衛門政言です。
 「役人の 子はにぎにぎを よく覚え」というのは、役人である父が、ワイロを要求するのを、言葉でなく手をニギニギするのをその子が真似する様を描いたものです。
 田沼田沼意次とは、ワイロ政治家として、悪名高い人です。実際、田沼意次は「この世で一番大切なものは、お金である。お金の多寡が、真心の多寡である」と豪語しています。
 田沼田沼意次の肖像を見ると、シャープな二枚目です。今の俳優に例えると、村上弘明さんでしょうか。
 田沼意次は、将軍吉宗に接するために、吉宗の愛妾の侍女にプレゼント攻撃をします。収入の殆どをプレゼントします。これで会わない女性はいないでしょう。侍女が田沼意次を見て、一言話すと、田沼意次ファンになってしまします。侍女が自分の言いなりになった段階で、主人の愛妾へプレゼント攻撃をかけます。ここでも収入の殆どをつぎ込みます。中途半端なことはしません。
 侍女に勧められ、田沼意次にあった愛妾は、田沼意次に魅せられます。ついに、将軍と接見できました。田沼意次の容姿と知識と話術で、女だけでなく、男も魅了されます。男が惚れる男、それが田沼意次だったのです。
 身分の低い田沼意次には、実力者と会う機会がありません。その機会を作ったのが、プレゼント攻勢、つまり賄賂だったのです。この賄賂で、田沼意次は、600石の旗本から、側用人、5万7000石の大名、ついには老中にまで登りつめたのです。
 印旛沼・手賀沼干拓計画は、田中角栄さんの日本列島改造論の先駆けです。以前夏の甲子園に印旛高校が出場しました。今は干拓されていることが分かります。
 対露貿易にしても、現在日本は輸出立国です。
 現在、消費税や印紙税などをみても、あらゆる流通過程に税金をかけています。
 今、商品経済では当たり前のことを、自然経済を建前とする江戸時代で行ったのが、田沼田沼意次の悲劇といえます。今なら、大政治家・大社長になったことでしょう。早く生まれすぎました。
 藤田まことさん主演のTVドラマ『剣客商売』は池波正太郎さんの原作です。池波さんは、好意的な目で田沼田沼意次を描いています。
 賄賂政治は、田沼田沼意次が身分低き故の結果で、上級武士として生まれたなら、多分違った展開になっていたと思います。西武の堤義明さんをみても、父が違った生き方をしていたら、また、違った人生を送っていたでしょう。評論家や、TVのコメンテーターは、事件後、さも知ったように痛罵します。知っていたなら、事件前に批判して欲しいと思います。弁解できない状況の相手を攻撃するのは卑怯だと思います。
系図の見方(将軍、御三家、御三卿)
家綱 お須磨 お幸
‖━ 徳川家治
‖━ 徳 川 家 重
家康 秀忠 家光 綱重 家宣 家継 徳川吉宗 ‖━ 重好(清水)
お遊喜
綱吉 ‖━ 徳川宗武(田安)
徳川義直(尾張) お古年 ‖━ 田安定信
近衛通子  ┃
徳川頼宣(紀伊) ‖━ ━━━ 徳川宗尹(一橋)  ┃
徳川頼房(水戸) お 梅  ┃
松平定邦 松 平 定 信 ←┛

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