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エピソード

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農村の分解と百姓一揆(佐倉惣五郎、渋染一揆)
 18世紀にはいると、商品経済貨幣経済)が浸透します。元々、江戸幕府は、家臣の反抗を恐れて、自給自足自然経済)から切り離して城下町に集住させ、サラリーマン化したことで、自然経済を建前の封建社会でありながら、商品経済に依存する構造になっていました。平和な時代に慣れ、消費生活が拡大して行き、依存がより顕著になりました。
 その対策が、領主による年貢増徴政策です。一部、田沼意次のように、商品経済に依拠する税制を試みた政治もいますが、基本は、農民から収奪する古典的手法を採用しました。
 農村では、年貢増徴と商品経済の浸透で、貧富の差が拡大し、本百姓の没落、農村の分解、村落組織の解体が始まりました。
 疲弊した農村を直撃したのが、飢饉です。武士には餓死者がいなかったことから、人災ともいえます。
 享保・天明・天保の起こった飢饉を三大飢饉といいます。
 享保の飢饉は、1732年におこり、3分作のため、餓死する者は1万2000人に及びました。
 天明の飢饉は、1782〜1787年にわたし、4分作のため、餓死する者は13万人に及びました。
 天保の飢饉は、1833〜1839年にわたり、3分作のため、犬や猫はもちろん、垣根を縛っている縄まで食い尽したといいます。
 その結果、人口は減退していきます。1721年には、天正年間と比較して1300万人増加しています。しかし、18722年には、1721年と比較して380万人しか増加していません。それ以降も3000万人前後を推移しえいます。
 明治以降、どんどん増えて、今では1億人を越えています。経済学者は、経済力と共に人口は増加すると計算しています。江戸時代後半は、経済力は伸びていないことになります。
 以上のことを背景に、農村では階層の分化が始まりました。
 商品経済の浸透により、土地を手放す本百姓が増え、江戸時代の基本的な地主手作(下人・年季奉公人を使う直接経営)が行き詰まりました。
 手放した土地を集積した寄生地主が誕生しました。地主は、土地を手放した小作人に貸付けて、自らは耕作せず、小作料を徴収して生活します。つまり、小作料に寄生して生活する地主という意味です。ここでは、地主と小作人との対立がおこります。
 対立がやがて騒動に発展しました。役人ら富農層に対し、貧農層が村政参加や村役人の交替を要求した騒動が起こりました。これを村方騒動といいます。豪農層と貧農層という階層の対立です。
 農民の反抗は、時代により、様々な形式をとっています。
 江戸初期(17世紀)、120年間に535件の反抗が記録されています。1年間に平均して4.5件になります。
 その代表が、逃散型代表越訴型です。
 代表越訴型で有名なのが、佐倉惣五郎(本名は木内惣五郎)です。1652(慶安5)年、下総佐倉の藩主堀田正信は、飢饉や洪水に関係なく重税を課しました。そこで、村の名主や年寄りが郡奉行や佐倉藩江戸屋敷に年貢の軽減を求めて訴えましたが、冷たくあしらわれたので、名主の惣五郎ら代表者6名が老中の久世大和守に直訴しました。しかし、玄関先で、「佐倉藩の事にて、藩主に相談すべき事」と追い返されました。そこで、名主の惣五郎は、上野寛永寺で将軍徳川家綱公に直訴しました。このことから、直訴を知った佐倉藩主堀田正信は、国許の役人を激しい叱責しました。当時の規定により、直訴した惣五郎及びその家族は、家財没収の上、磔の刑に処せられました。この中には、4人の子供も含まれていました。現在、地元の佐倉をはじめ、全国各地に惣五郎神社が20ケ所あり、惣五郎一家は、神として祀られています。
 中期(18世紀)、70年間に686件の反抗が記録されています。1年間に平均して10件になります。
 その代表が惣百姓一揆村方騒動です。惣百姓一揆の惣は「全」という意味です。つまり、村役人層に指導された、大規模で政治的要求を含んだ村人全員の一揆のことです。首謀者を隠すための方法に、傘連判といって、円形に同盟者の名を記入します。
 岡山藩の渋染一揆が有名です。柿の渋で染めた着物を着ることを強制された被差別部落に対して、村役人を中心村人全員が参加し、渋染の着物を着用することを撤回させ一揆です。村人全員が一致すれば、権力者による不当な差別政策を退けることができることを証明した一揆といえます。
 後期(19世紀)、90年間に1611件の反抗が記録されています。1年間に平均して18件になります。
 その代表が、世直し一揆国訴一揆です。世直し一揆は、貧民層が、富裕な地主・豪商を相手に、土地の再分配つまり世直しを求めた一揆です。国訴一揆は、新興の在郷(農村にいる)商人が、特権的商人を相手に、商売の自由を求めて、国を越えて連合した一揆です。
 税の主役である農民の立場からすると、すでに江戸時代は、世直しの対象となっていたことが分かります。
江戸時代は貧しくなかった? オメデタイ人の発想
 代表越訴に限らず、一揆の首謀者は、家族を巻き込んで、処刑されます。佐倉惣五郎が、将軍に直訴することを家族に話したとき、家族の反応はどうだったでしょうか。惣五郎が直訴すると、妻や両親、子供までが処刑されます。当然「なんでお父ちゃんだけが、行かなあかんの(関西弁)」「私らだけが犠牲になるのは、かなわんわー」と泣いて留めたに違いありません。
 しかし、当時の名主・庄屋は、皆の犠牲になるのが当然と考えられていました。「人は死んで、名を残す」。惣五郎一家は、死んで今に名を残し、授業で扱われています。
 一部の学者や評論家・文化人には、江戸時代はそれほど、貧しくはなかったという人がいます。未だにその発言の意図が理解できません。1年間に18件の一揆(暴動)が現在起きていますか。当時は、裁判も無ければ、弁護士もいない。報道機関もない。自分たちも保護してくれる状況でない人々が、命をかけて起こした暴動が、年に18件も起こっています。
 この現状から何も感じないのでしょうか。感じないなら、保身にゴマをする、本当にオメデタイ人と言えるのではないでしょうか。

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