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エピソード

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松平松平定信の寛政の改革(人足寄場と長谷川平蔵、寛政異学の禁と遠山の金さん)
 1786(天明6)年、一橋家(祖は徳川宗尹)の徳川家斉徳川吉宗のひ孫)が徳川家治の後を継いで、11代将軍になりました。時に14歳です。
 1787(天明7)年、田安家(祖は徳川宗武)の松平定信(徳川吉宗の孫。白河藩主。29歳)が幼少の将軍である徳川家斉を補佐するために、老中となりました。松平定信は、天明の飢饉の時、他藩では多くの餓死者をだしたのに、白河藩では1人の餓死者を出さなかった功による抜擢でした。名実共に江戸幕府のエースといえます。
 松平定信の人物像を探して、あちこち本を探しましたが、エピソードらしい物はありません。藩政の基本方針は、「政者正也」であり、絵も描けるし、学者でもあります。地位もお金もあります。祖父の徳川吉宗を理想としており、享保の改革を自分で行おうと決意しています。しかも、29歳の若さであり、理想に燃えています。
 1788(天明8)年、尊号一件問題が起こりました。これは、119代光格天皇は、閑院宮典仁親王の皇子でしたが、後桃園天皇の養子になり即位しました。その結果、父より位が高くなったので、父親王の「太政天皇上皇)」という尊号を贈ろうと考え、中山愛親正親町公明らがその事を幕府に訴えました。自分に厳しく、他人にも厳しい理想主義者の松平定信は、皇位についていない人間に尊号を贈った先例がないと拒否しました。
 11代将軍徳川家斉は、父一橋治済に対して「大御所(前の将軍)」の尊号を贈ろうと考えていました。松平定信の決定は、14歳の将軍徳川家斉の機嫌を損ね、後、松平定信が失脚する一因になります。
 1788(天明8)年、田沼意次が始めた幕府直営の鉄座・真鍮座・人参座を、武士が商業に手を出すことを否定して、廃止します。
 1789(寛政元)年、松平定信は、棄捐令を出します。棄捐の「」は破棄すること、「」は取り除くことを意味します。つまり、旗本・御家人を救済するために、札差から借りている借金を破棄させ、その重荷を取り除くための命令です。
 しかし、札差から借金をしなければ生活できない旗本・御家人は、「どんな法律が出ても返済します」と一札を書かされたといいます。武士のだらしなさを象徴する一件です。
 1789(寛政元)年、白河藩で成功した福祉政策を実施します。余裕のあるときに、余裕のある者が、社倉(住民が拠出した凶作用穀物倉)、義倉(住民が拠出した凶作用穀物倉)、囲米(1万石につき50石の割合で、備荒貯蓄・米価調節の為の籾米の貯蔵)をさせました。
 1790(寛政2)年、松平定信は、長谷川平蔵が提案した石川島に人足寄場をつくり、無宿人に職業訓練を行いました。
 1790(寛政2)年、朱子学を正学とし、それ以外を異学とする寛政異学の禁を出し、聖堂学問所での異学を教授することを禁止しました。そして、私立の聖堂学問所を、官立の昌平坂学問所と改称し、優秀な教授を採用しました。柴野栗山尾藤二洲岡田寒泉(後に古賀精里と交替)らで、彼らを寛政三博士といいます。
 1790(寛政2)年、旧里帰農令を出し、江戸で定職のない者に資金を援助して帰村を奨励し、農村の復興に努めました。
 1791(寛政3)年、洒落本・黄表紙の発行を禁止し、当時人気の作家山東京伝の『仕懸文庫』に手鎖50日という刑を課しました。
 1791(寛政3)年、男女の混浴を禁止しました。
 1791(寛政3)年、都市での福祉政策に手を出します。町費を節約し、その7割(7分)のお金を町会所に積む立てるという制度です。これを七分金積立といいます。
 1791(寛政3)年、林子平が『海国兵談』を著し、ロシアの南下による危険性を説いて、海の国日本の海防を主張しました。
 1792(寛政4)年、松平定信は、民間の学者が幕府に意見することに激怒して、林子平を投獄しました。林子平は、翌年獄中で亡くなりました。
 1792(寛政4)年、林子平の予告通り、ロシアの使節ラクスマン根室に着て、通商を要求しました。根室の役人は、通商は長崎にて問い合わせるようにと説明し、その場は何とか逃れました。
 1792(寛政4)年、ショックを受けた松平定信は、あわてて、伊豆・相模を巡検しました。
 1792(寛政4)年、将軍徳川家斉(20歳)は、松平定信(35歳)に、父一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうと思うと、正式に相談しました。しかし、松平定信は、尊号一件の前例もあり将軍徳川家斉の申し入れを拒否しました。ここに将軍と老中が対立し、理想主義者の松平定信に反感を持つ大奥が、将軍を支持しました。
 1793(寛政5)年、松平定信は、老中を辞職しました。時に36歳で、わずか7年の任期でした。
松平松平定信と、鬼平こと長谷川平蔵・遠山金さんの関係
 お金はあるし、地位も名誉もあるし、絵(『柳に白鷺図』)も上手い。朱子学者でもある。書いた本は130冊に及び、その中で有名なのが『宇下人言』(定の字の冠をとって宇、下の字が下、信の字のヘンをとって人、右が言)である。署名からして風流を理解する人のようである。
 あまりエピソードがなくて、面白みに欠ける人物の様だ。しかし、実像はどうなのだろうか。
 白河藩主時代、松平定信は、社倉・義倉などを行っている。豪農が「なんで百姓の為に、備えねばならんのでしょうか。自分のことは自分で責任を持つべきでは」と疑問を呈すると、「一揆がおきても知らんぞ。お前らで責任をとるのだな」と突き放しました。
 真意を知った豪農は、余裕がある時に備蓄を行ない、飢饉のときにその備蓄を供出し、貧農から感謝されました。松平定信の偉大さをやっと理解したといいます。
 私は、TVは余り見ません。たまに見るときは、録画をしていて、CMを飛ばして、時間を節約して楽しみます。私の好きな俳優であっても、シナリオが悪いと、最初の30分だけみて、残りは見ません。
 ましてや、連続のTV物はほとんど見ません。しかし、例外があります。それは『鬼平犯科帳』です。主演は、中村吉右衛門さんです。原作は、やはり池波正太郎さんです。以前、黒澤明さんが、「シナリオを書ける監督になるように…」と言われていたことを思い出します。山田洋二さんも、シナリオが書ける監督です。
 逆に、人気俳優が主演・監督した作品を見たことがあります。三船敏郎さんであったり、勝新太郎さんです。コケてしまいました。
 上記で松平松平定信と長谷川平蔵の関係は書きました。
 遠山の金さんと松平松平定信との関係をご存知でしょうか。松平松平定信は、異学を禁じて、正学(朱子学)を勧めました。道徳的に、あるいは、口先だけの提案ではありません。正学を昌平坂学問所で学んだ者の中から、優秀な者を、身分に関係なく抜擢する制度を設けたのです。その1人が、遠山左衛門尉金四郎だったのです。
 松平松平定信が老中になっていなければ、鬼平も金さんも誕生することはなかったのです。これが、歴史の個人の役割ということでしょうか。
 江戸時代、男女混浴は日常的です。生まれてからズーッと混浴になれておれば、年頃になっても、男女を意識することはありません。覗き見する必要もなく、「手鏡」を持つ必要もないわけです。
 私は、自宅に風呂があったので、大学の下宿から銭湯に行ったときはショックでした。殆どの人は、裸で、何も隠さずに「堂々」と歩いて、浴槽に入るのです。しかし、慣れてない私は、誰もいない、開湯時間になると一番風呂に入ったものです。松平松平定信は、武士なので、当然銭湯は知りません。だから、混浴を禁止したのでしょう。禁止するから、見たくなるのではないでしょうか。
 1789年は、世界史でも有名なフランス革命が起こった年です。1789とゴロがいいので覚えやすいです。フランス革命の時、日本では、松平松平定信の寛政の改革の最中だったのです。
 8代将軍徳川吉宗以降、14代将軍家茂まで、すべて吉宗の系統からです。
 15代将軍徳川慶喜は、水戸家からです。
 この事実を見ると、徳川吉宗の布石を打つ戦略が凄かったかが分かります。
系図の見方(将軍、御三家、御三卿)
お須磨 お幸
‖━ 徳 川 家 治 徳川家斉
‖━ 徳 川 家 重
徳川吉宗 ‖━ 重好(清水)
お遊喜
‖━ 徳川宗武(田安)
お古年 ‖━ 田 安 定 信
近衛通子 ↓養子
‖  白河藩松平定邦 松 平 定 信
‖━ ━━━ 徳川宗尹(一橋) 一 橋 治 済 一橋家斉
お 梅 一橋斉敦

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