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エピソード

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列強の接近(エカテリナ2世、ナポレオン)
 「歴史は繰り返す」と言われます。
 白人が最初に日本に来たのは、1543(天文12)年のことで、ポルトガル人種子島に漂着しました。白人が日本に来たのは、重商主義政策を背景とした大航海時代です。
 次に、白人が日本に来たのは、1792(寛政4)年のことで、ロシア人ラクスマン根室に来航しました。白人が日本に来たのは、産業革命を背景とした絶対主義主義時代です。
 白人が来たことは、繰り返していますが、時代背景は全く違います。「歴史は繰り返さない」が正解です。
 1727年、ロシアは清朝政府とキャフタ条約を結び、露清間の国境を画定しました。
 1769年、ワット蒸気機関を改良しました。これが産業革命の初めです。
 1775年、アメリカがイギリスより独立するための戦争、つまりアメリカ独立戦争が始まりました。
 1778年、ロシアのエカテリナ2世は、ロシア船を蝦夷地に派遣し、松前藩に通商を要求しました。
 1789年、フランス革命が起こりました。
 1792年、ロシア人のラクスマンは根室に来航し、通商を要求しました。根室の代官は、通商は長崎で交渉するように言って、その場を逃れました。友好を重視していたロシア政策により、ラクスマンはそのまま本国に帰りました。
 1793年、イギリス国王の使者マカートニー北京に到着しました。イギリス人が、日本に来航するのは時間の問題となりました。
 1804年、ロシア人のレザノフは、ラクスマンの助言に従い、長崎に来航し、通商を要求しました。拒否されたレザノフは、本国への帰途、あちこちを測量したり、略奪を繰り返しました。ロシアの膨張政策が日本に及ぶのは時間の問題となりました。
 1804年、ナポレオン帝政を開始し、ヨーロッパを支配しました。
 1805年、フランス皇帝ナポレオン1世は、イギリス・ロシアと交戦しました。その結果、イギリス・ロシアの日本接近が遠のきました。
 1810年、フランスは、オランダを併合し、アジアの植民地はフランス領となりました。
 まさに、日本の歴史は、世界の歴史の一環であることを象徴する出来事です。
世界の歴史(産業革命)と日本
 「ワット」は日本では、電球の明るさとして「20ワット」などと親しまれています。1ワットは746分の1馬力を現します。世界中で使用されているこの「ワット」は実は、イギリス人Wattのことです。子どもの頃読んだ伝記には、ストーブにかけているヤカンの蓋を水蒸気が吹き飛ばすのをみて、蒸気機関を発明したことになっていました。
 しかし、これは間違いで、既にニューコメンという人が蒸気機関を発明していました。彼の蒸気機関は、バケツ1杯の水を汲み出すのに、一部屋位の大きさの装置を必要としていました。ワットが行ったのは、シリンダーと冷却器を分離して、小型化に成功したということです。
 小型化すると、工場内で利用できます。水蒸気が最初に使用されたのは、紡績工場です。しかし、木製の支柱と心棒が激しく摩擦を起こすと、次々に火災が発生しました。
 保守的な経営者は、蒸気機関から手を引きました。進歩的な経営者は、発想を転換して、木製を鉄製に変えたのです。この結果、イギリスでは、製鉄所は誕生しました。鉄の原料である鉄鋼石や鉄を溶かす石炭が大量に必要となりました。それを運ぶ蒸気機関車が誕生しました。
 紡績関係では、アークライトの蒸気機関を動力にした紡績機などがあります。大量の綿糸が生産されると、紡織機械の発明が必要となりました。カートライトは織布工程に蒸気機関を利用した力織機を発明しました。
 大量にあふれ出た商品は、国内で裁ききれないので、海外に輸出するために蒸気船が誕生しました。この延長上に黒船が日本に来航するのです。
 ワットの蒸気機関の改良は、あらゆる産業構造に大影響を与え、大変化をもたらしました。こうした一連の大変化を産業革命といいます。現在、私たちが好きな物を好きな時に好きなだけ買えるのは、産業革命のお陰です。
 同時に、機械の導入によって、賃金の安い女性や子供が労働者として雇われ、様々の労働問題が発生したことも事実です。こうした歴史の流れの中に、現在があるということを知って欲しいと思います。物は大切にしましょうね、といいながら、大量生産方式では、大量に消費する必要もあるのです。
 「1792年に、ロシア人のラクスマンが根室に来航しました。これは大切なことなので、年号は、異な国(1792)の人ラクスマンと覚えましょう」と得意に説明をしていました。
 すると、ある生徒が予期せぬ質問をしたのです。「ラクスマンは日本語が話せたのですか」。今までの生徒は、語呂合わせ年号記憶術に感心したものです。この質問に準備をしていませんでした。「後で調べて報告する」というしかありませんでした。
 1783年、船頭の幸太夫は、カムチャッカに漂流しました。
 1791年、光太夫は、シベリアを横断しペテルブルグ着き、エカテリーナ2世に謁見しました。
 その後、幸太夫は、エカテリナ2世から才能を見出され、ロシア人に日本語の教えることを支持され、日本語学校の先生になります。
 1792年、ラクスマンの通訳として、日本にやって来ていたのです。後に井上靖氏が小説化(『オロシア国酔夢譚』)して、緒方拳さん主演の映画では、ロシアでの生活、エカテリナ女王も登場してきます。
 「芸は身をたすく」という諺があります。見知らぬ世界で、食っていける技術のことです。予期せぬ生徒の質問で、私は大変勉強をしました。お師匠さんとは、年齢・男女の差は関係ないということでしょうか。

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