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エピソード

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列強の接近と、フェートン号事件とゴローウニン事件
 19世紀初頭、世界は産業革命を背景とした植民地主義時代に突入していました。日本は、鎖国の夢の中にありました。
 1792(寛政4)年、ロシア皇帝の正式な使者であるラクスマン(27歳)が、エカテリナ号根室に来航して、通商を要求しました。彼はれっきとしたロシアの陸軍中尉です。のちに大尉になっています。ラックスマンは、松前で長崎入港許可証与を得て帰国しました。
 1793(寛政5)年、イギリスのマカートニー北京の到着しました。
 1793(寛政5)年、フランスが、オランダを占領しました。オランダ国王ウィレム5世はイギリスに亡命しました。
 1798(寛政10)年、幕府は近藤重蔵(28歳)を千島の国後島択捉島に派遣し、「大日本府恵登呂府」の標注を建立しました。
 1800(寛政12)年、伊能忠敬(55歳)は、蝦夷地を測量しました。
 1802(享和2)年、幕府は、蝦夷地に函館奉行を設置し、東北諸藩に警備させました。
 1804(文化元)年、ロシア皇帝の正式な使者であるレザノフ(41歳)が、軍艦ナジデダ号で長崎に入港します。当然ラクスマンに与えられた長崎入港許可証与を持参していました。しかし、軍艦ナジデダ号は、半年以上も長崎港に閉じ込められ、開国の要求まで拒否されました。この時、日本の兵3万8000人が動員されたという説もあります。
 1805(文化2)年、フランス皇帝ナポレオン1世は、ヨーロッパを支配しました。
 1806(文化3)年、レザノフは、部下に命じて、「択捉」や「樺太」を攻撃させました。
 1806(文化3)年、幕府は、文化の憮恤令を出しました。別名薪水給与令といいます。
 1806(文化3)年、ナポレオン1世は、弟のルイ・ポナパルトをオランダ国王に任命しました。そこで、ウィレム5世は、イギリスにオランダの海外植民地の接収を依頼しました。
 1807(文化4)年、幕府は、箱館奉行を松前奉行とし、蝦夷地全土を幕府の直轄としました。
 1808(文化5)年4月、幕府は、間宮林蔵(34歳)を樺太に派遣しました。この時はたまたま暖かく、間宮林蔵は、偶然にも、樺太がシベリアから離れた島であることを発見しました。樺太とシベリアとの間の海峡を間宮海峡というのは、そのためです。
 8月15日、日本も世界史の一ページであることを証明する事件がおこりました。それがフェートン号事件です。
 オランダ国旗を掲げた船が長崎港に入ってきました。ベリュー大佐が率いるイギリス軍艦フェートン号です。入港すると、すぐに、オランダ国旗を降ろして、イギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて長崎港内を検索しました。
 この軍艦をオランダ船と勘違いしたオランダ商館員らが出迎えにいって、逆に捕えられました。オランダ商館長ズーフは、身の危険を感じて長崎奉行所内に避難しました。長崎奉行松平康英は、フェートン号を焼き討ちしようとしました。しかし、長崎警衛の守備兵が150人だったので、焼打ちは断念しました。
 16日、フェートン号のベリュー大佐は、オランダ人1名を釈放して、食料と水を要求しました。長崎奉行の松平康英は、要求を入れて、食料や水を与えました。
 17日、フェートン号のベリュー大佐は、残りのオランダ人を釈放し、長崎港を立ち去りました。その後、責任をとって長崎奉行の松平康英は、自害しました。
 11月、幕府は、鍋島藩主の鍋島斉直を、長崎警備怠慢として、100日の蟄居を命じました。
 1811(文化8)年、ロシア海軍のディアナ号の艦長ゴローウニン少佐らは、南千島にやって来て測量し、国後島に上陸して水と食料を要求しました。日本守備隊は、先年、日本を攻撃した仕返しとして、それに応じるふりをして油断させ、ゴローウニンら7人と通訳1人を捕まえ、松前に監禁しました。ディアナ号の副艦長だったリコルド少佐は、上司の指示を仰ぐために、ロシア海軍基地のオホーツク港に一度帰りました。
 1812(文化9)年、リコルドは、捕虜の五郎次や漂流した日本人を連れて国後島へやって来ました。しかし、人質の五郎次は逃亡してしまいました。そこで、リコルドは、国後島の近くを通過していた観世丸を拿捕し、高田嘉兵衛ら5人と通訳のアイヌ人を人質としてカムチャツカペトロパウロフスクへ連行しました。
 リコルドは、英明な高田屋嘉兵衛の進言を受け、箱館に上陸しました。外交手段によって、日露に間に和議が成立し、ゴローウニンら8人は直ちに釈放されました。
ラクスマンやレザノフは軍人か?
 ラクスマンについては、教科書では「ロシア使節ラクスマンが根室に来航し…」という記述があり、レザノフについては「ロシア使節レザノフが、…長崎に来航した…」という記述があります。私はこの記述にわだかまりを持っています。彼らは平和の使節として来たのか、軍事使節として来たのかということです。軍人とは、戦って成果を上げる役人です。
 あちこち調べて、ラクスマンは陸軍中尉という資格で来日しています。レザノフは、軍艦ナジデダ号で来日し、『レザノフ来航絵巻』を見ると、軍服を着ていることは分かりましたが、軍における地位が分かりません。さらに調べ進むと、レザノフの部下である海軍軍人フヴォストフ大尉とダヴィドフ少尉が、樺太のオフィトマリ、クシュンコタン、択捉島、利尻島など攻撃したという記録がありました。太尉を部下に持つということは、佐官クラス(大佐〜少佐)か将官(大将〜少将)なのでしょう。
 1806(文化3)年、幕府は、薪水給与令なる法律を出しました。薪水の薪は燃料のマキ(たきぎ)のことであり、水は当然ウォーターです。なぜ、薪と水を給与する命令なのでしょうか。
 日本に来航する船は、ほとんどが、蒸気船だったのです。往復の薪水を船に積めば、荷物が少なくなります。そこで当時は着いた港で薪水を購入していたのです。それを拒否されると、出港できないのです。当然、死活問題ですから、暴動が起こる可能性が出ます。そこで、国際法では、薪水は給与するという法律が出来ていたのです。
 鎖国時代の日本でも、国際法を知っていたということになります。
 日本の世界性を考えるとき、国際的な視点が必要だということがよく分かります。
 時々TVなどで、一部の評論家が近隣諸国を侮辱する発言をしていますが、日本人に媚びる国内向けの発言でしかありません。自国に誇りを持つと同時に、近隣とも友好関係を深める立場の感覚が欲しいものです。

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