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エピソード

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モリソン号事件と蛮社の獄(渡辺崋山、高野長英)
 1824(文政7)年、英米の捕鯨船が、日本近海に出没し、あちこちの港で、薪水と食料を要求するようになりました。
 1824(文政7)年、h摩藩の宝島でイギリス捕鯨船員が、暴れるという事件が発生しました。
 1824(文政7)年、田原藩の家老である渡辺崋山(32歳)は、外国事情に関心をもち、高野長英小関三英鷹見泉石江川坦庵ら洋学者とも交わり、来日したオランダ甲比丹から世界の状勢を知りました。その後、外国事情に精通する第一人者となりました。
 1825(文政8)年、外国船との対応に嫌気が差したのか、幕府は、異国船打払令というとんでもない法律を出しました。別名無二念打払令といいます。異国船とは清とオランダの船以外の国の船をさします。無二念のとは想うということです。つまり、「ああだろうか、こうだろうか」と想うことなく、打ち払えと言うのです。将軍徳川家斉の時代です。
 1837(天保8)年4月、11代将軍徳川家斉(65歳)が辞任し、大御所時代が幕を開きました。
 6月、アメリカ商船のモリソン号は、漂流民7人の送還と通商を求めて、浦賀港に来航しました。しかし浦賀奉行は、幕府の命令どおり打ち払って、追い出しました。
 7月、浦賀の打ち払いに遭遇したモリソン号は、武装解除して、薩摩の山川港に来航しました。次に、漂流民7人の送還と貿易を求める書簡を薩摩藩主の島津斎興に提出しました。しかし、薩摩藩は幕府からの異国船打払令を伝え、漂流民はオランダを介して送還するように言って、モリソン号を退去させました。
 9月、徳川家斉の子徳川家慶(45歳)が、12代将軍となりました。
 1838(天保9)年6月、オランダ商館長は、モリソン号渡来の事情を長崎奉行に渡しました。それにより、幕府は、モリソン号に漂流民が乗っていたこと、その船をアメリカ船でなく、イギリス船であると誤解していたことも分かりました。不幸だったのは、フェートン号事件で、幕府の対英感情が非常に悪かったことが背景にありました。
 日本のトップの外交情報がこれだったのです。
 10月、陸奥水沢出身の町医者であった高野長英(35歳)は、『戊戌夢物語』を著して、モリソン号打払いの無謀さを批判しました。高野長英は、イギリスの国力を具体的なデータで説明し、イギリスが日本近海に接近していることを警告しています。人道の名で来航した外国船を打ち払っては、イギリスは日本を「不仁の国」とみなすであろうと述べています。そして、漂流民をうけとった上で、通商は拒否すべきであると主張しています。高野長英は、「夢物語」(の中の集会で見聞した物語)という形式で、批判はするが、罪は免れようとしました。しかし、『戊戌夢物語』は、幕府も無視できぬほど大評判となりました。
 1838(天保9)年、三河田原藩の家老であった渡辺崋山も、『慎機論』と題して、「人道にそむくという理由で、イギリス人に侵略される口実をつくることになる」とか、「高明空虚の学を排斥し、井蛙の見を打開し、英達の君の出現を要請する」「日本が鎖国している間に、西洋の強国が日本に接近しているので、時まなければならない」とずるなど西洋事情を知ることの急務をメモしました。
 1839(天保10)年、水野忠邦(46歳)が老中首座となりました。
 5月、老中水野忠邦の意を汲んだ目付鳥居耀蔵は、密貿易のため小笠原密航を企てたとして尚歯会の洋学者グループ渡辺崋山・高野長英ら洋学者26人を逮捕しました。尚歯会に参加して、渡辺崋山の蘭学研究を助けただけの小関三英は、逮捕されるのを恐れて自殺しました。しかし、密貿易のため小笠原密航は、冤罪ということが分かり、これで処分できなくなりました。
 12月、そこで、机底から見つけられたメモ『慎機論』と『戊戌夢物語』が幕政を批判していることを取り上げ、高野長英を永牢としました。渡辺崋山は、学問の師や絵の弟子が奔走したので、故郷田原での蟄居ということになりました。これを蛮社の獄といいます。
 1840(天保11)年、アヘン戦争が起こりました。この結果、中国は、列強の植民地となっていくのです。高野長英や渡辺崋山が予言していたことが、現実に中国で起こったのです。
 1841(天保12)年、水野忠邦は、天保の薪水給与令を出しました。
高野長英と渡辺崋山、妖怪といわれた鳥居耀蔵
 1844(天保15)年、永牢の高野長英は、牢屋が火事になったので、3日間、仮釈放されました。期限までに戻ると、減刑されるので、ほとんどの囚人が戻ってきました。しかし、高野長英だけは、帰ってきませんでした。門人や宇和島や薩摩藩主などに守られながら、上毛・信越・東北・江戸・鹿児島などに潜伏しながら、自説を主張しました。
 1849(嘉永2)年、長英は、顔を薬で焼き、咽喉をつぶして、江戸に入り、ここでも自説を主張しました。
 1850(嘉永3)年、顔や声を変えても説を同じということで、見破られ、自害して果てました。時に、47歳です。まさに壮絶な生き様です。「人は死んで名を残す」ということでしょうか。
 渡辺崋山の伝記を子どもの頃読んだ記憶があります。わがままな父のため、雪の降る寒い夜、酒を買って帰る孝行息子という印象です。それにも負けず、立派な絵描きになりました。
 実際、『鷹見泉石像』という絵が教科書で紹介されています。
 小さいとはいえ、れっきとして田原藩の家老です。そんな彼が、蛮社の獄で逮捕されました。弟子達の奔走で、地元で謹慎となります。
 1841(天保12)年、しかし、主君に迷惑がかかることを恐れ、「不忠不孝渡辺登」と大書して、自害しました。時に49歳でした。
 目付鳥居甲斐守耀蔵のことを妖怪といいます。耀蔵の耀甲斐守をかけています。水野忠邦の倹約令を徹底して実行したので、江戸庶民から憎まれた付けられたニックネームです。
 蛮社の獄のきっかけは、鳥居耀蔵が洋学者江川坦庵に江戸湾測量で敗れて以来、洋学者の弾圧を狙っていたといいます。権力者が狙うと、いかようにも罪はでっち上げられるという恐さを知りました。
 当時、洋学を学ぶグループを尚歯会といいました。歯は年齢、尚は敬うという意味で、敬老という感じです。それに蛮社という名を冠したのは、権力者です。蛮社の蛮は野蛮という意味です。一般庶民には、なじみのない団体の様に描き、浮き上がらせるのです。
 庶民の支持を得られない団体は、弾圧しやすいということを、権力者はよく知っているのです。レッテルをはる者には気を付けましょう。

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