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エピソード

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大御所時代と大塩の乱(徳川家斉、大塩平八郎)
大御所時代
 1786(天明6)年、徳川家斉(祖父は徳川吉宗)が11代将軍となりました。時に、15歳でした。
 1788(天明8)年、松平定信の子飼いであった松平信明(26歳)が老中となりました。
 1793(寛政5)年、松平定信(36歳)は、老中を辞職しました。徳川家斉は22歳になりました。徳川家斉には、側室が40人、子供が55人いました。側室や子供の世話をする女中が606人もいました。
 1805(文化2)年、幕府は、関東取締出役を新規に設置しました。複数の州にまたがる犯罪捜査の権限を持つFBIのような性格をもつ警察組織です。
 1817(文化14)年8月、松平信明(45歳)が老中在職のまま、亡くなりました。
 8月、沼津藩主の水野忠成は、将軍徳川家斉の子供の縁組に奔走し、その功で老中となりました。水野忠成は、徳川家斉の大奥の費用や縁組の費用を賄うために、松平定信・松平信明が禁止した「賄賂」を公然と認めました。それだけでは、不足していたので、貨幣を改鋳しました。その結果、猛烈なインフレが発生しました。水野忠成は、父水野忠友の3万石を越え、5万石となりました。
 1818(文化15)年、水野忠成が老中を辞職しました。
 1824(文政7)年、将軍徳川家斉の7男である徳川斉順(24歳)が11代紀伊藩主となりました。
 1834(天保5)年、唐津藩主の水野忠邦(41歳)が老中となりました。
 1837(天保8)年2月、大塩の乱がおこりました。
 4月、将軍徳川家斉(65歳)が辞職しました。在位51年で、将軍在職最長を記録しました。その後、大御所時代が始まりました。大御所とは前の将軍のことです。徳川家康のことを大御所様といいます。徳川家斉の時代を大御所時代というのは、家斉の大御所の治世が長かったからです。
 9月、徳川家慶(父は徳川家斉)が12代将軍となりました。時に、45歳でした。父の徳川家斉に負けじと頑張りましたが、大奥の女中は279人でした。こちらの方は父に負けじと頑張りましたが、政治に対しては、徳川家慶は、「そうせい」と言うのみでした。そこでついた名前が「そうせい様」でした。
 1841(天保12)年、大御所徳川家斉が亡くなりました。時に69歳でした。
 1843(天保14)年、紀伊藩主の徳川斉順(46歳)が亡くなりました。そこで、大御所徳川家斉の21男である徳川斉彊(24歳)が12代紀伊藩主となりました。
 1853(嘉永6)年、徳川家慶が亡くなりました。時に、61歳でした。
 徳川家斉・徳川家慶時代、各地で百姓一揆が頻発し、無宿者や博徒が横行し、社会不安が増大していました。
 大御所徳川家斉や将軍徳川家慶は、政治的立場を理解せず、自己の本能を楽しんでいました。大御所の大奥女中606人、将軍の大奥女中289人の合計885人の生活費だけでも膨大で、子供のおやつに使う砂糖は、庶民が使う量に匹敵したといいます。
 こうした大御所徳川家斉や将軍徳川家慶の贅沢な生活は、武士や庶民の享楽的で退廃的風潮を一般化させました。
大塩の乱
 1830(天保元)年、名奉行と評判の高い高井実徳は、高齢を理由に大坂町奉行の職を辞しました。大塩平八郎は全幅の信頼を置いていただけに、与力の大塩平八郎は衝撃を受け、39歳の若さで、辞職を願い出ました。そして、与力の職を養子の大塩格之助に譲りました。その後、大塩平八郎は、洗心洞陽明学を講義する生活を送っています。陽明学は知行合一を旨とし、そこには、近郷の富農らも通って来ていました。
 1833(天保4)年、飢饉が全国に蔓延しました。これを天保の大飢饉と言います。米1石の価格が、通常の倍の2両に上昇しました。
 1834(天保5)年、唐津藩主の水野忠邦(41歳)が老中となりました。
 1836(天保7)年、跡部良弼(兄は老中の水野忠邦)は、大坂町奉行として、着任しました。
 1836(天保7)年、上州館林藩士で、国学者生田万は、越後柏崎に招かれて、塾を開きました。
 1836(天保7)年、米の平均が3〜4分作という飢饉が、全国を襲いました。大阪の豪商は、米の買占めに走りました。このことを知った元与力の大塩平八郎は、養子大塩格之助を通じて、当時の大坂町奉行跡部良弼に米の買占めを禁止する要望書を提出しました。しかし、跡部良弼は、元与力の立場を無視しました。その時の返事が残っています。それには、「貴公の儀は当時隠居の事に候えば、此様の事は構いこれあるまじく、強いて申され候はば曲事たるべく、強訴の罪に処すべし」とありました。
 7月、大坂町奉行跡部良弼は、大塩平八郎の神経を逆なでするように、米価暴騰につき、白米を自由に江戸へ回送することを認めました。しかも、跡部良弼自身は、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ送ることさえしました。大塩平八郎には、町奉行が困窮にあえぐ大坂の庶民より、江戸の将軍家を重視していることに我慢できませんでした。大塩平八郎は、『洗心洞箚記』で「君子の善に於けるや、必ず知行合一す。…君子もし善を知って行わずんば、即ち小人に変ずるの機なり」と書いています。
 8月、甲斐郡内の貧農・日雇・大工等が、手に武器をもって武装蜂起して、甲斐城下に迫り、武士と交戦しました。これを甲斐郡内一揆といいます。この情報を知った大塩平八郎は、門弟に砲術の稽古や火器・火薬の製造を行っています。
 9月、大坂で、暴利をむさぼっていると噂のあった高津五右衛門町の米屋が打ちこわしにあい、それがきっかけ、近隣の米屋13軒が襲撃を受けました。
 9月、三河加茂郡の農民が、足助町・挙母城下で打ちこわしを行いました。しかし、挙母・尾張藩兵により鎮圧されました。これを三河加茂一揆といいます。
 この年、奥羽地方で餓死者が10万人を超えました。
 1837(天保8)年、全国的な凶作が続き、米1石の価格が、通常の4倍の4両に達しました。
 1月、大塩平八郎は、挙兵を決意して、同志連判状を作りました。そこに名を連ねたのは、大塩平八郎・大塩格之助父子ら与力・同心が12人、豪農が11人、その他神官・医師2人の25人でした。
 2月2日、大塩平八郎は、自分の蔵書を売って、700両を得て、お粥を窮民1万人に分配しましたが、焼け石に水の状態だったといいます。
 2月18日、挙兵の前日のこの日、与党の同心2人が変心して、奉行所に密告しました。
 2月19日朝8時、大塩平八郎は、自邸に火を放ち、挙兵しました。本当は、午後4時頃、大坂町奉行跡部良弼を殺害する計画だったのです。時間を繰り上げたため、加勢する近郷の豪農の参加もありませんでした。
 正午頃、平八郎ら100人は、「救民」の旗をかかげ、大筒を撃ったり、炮烙玉を投げつけたので、天満一帯は火の海と化しました。次に、難波橋を南に渡って北船場に入りました。この頃には、300人に膨れ上がりました。北船場の鴻池屋・天王寺屋・平野屋・三井なの豪商を襲撃ました。鴻池屋庄兵衛は4万両を略奪されました。
 やがて、町奉行ら城方の兵が出動し、内平野町で最初の砲撃戦がおこると、大塩側は逃亡者が続出して100人に減ってしまいました。次の淡路町の砲撃戦で、大塩側の2人が戦死すると、ほとんどが逃亡してしまいました。大塩平八郎らも姿を隠しました。町奉行の跡部良弼は、密告を受けながら有効な対策を立てず、大塩平八郎の砲声に驚いた馬から地面に叩き落されました。これを見た庶民は、幕府権威を崩壊を感じたといいます。
 2月20日夜9時、全市街地の5分の1炎上させて、ようやく鎮火しました。焼失家屋は3389軒にのぼりました。
 その後、参加者は逮捕されたり自害して果てました。
 3月27日、大塩平八郎・大塩格之助父子のは潜伏先が見つかりました。大塩平八郎・大塩格之助父子は、包囲されると、覚悟の爆薬で焼死しました。焼けただれた死体となって発見されたため、その後も「大塩死せず」の噂がいつまでも消え去らなかったとされている。
 6月、越後の柏崎で、国学者の生田万は、門弟・村役人を率いて幕府の陣屋を襲撃しました。これを生田万の乱といいます。
 大塩の乱は、幕府の元与力が、天下の台所の大坂という場所で、窮民のために、鉄砲などの武器を所持して、挙兵したということです。
 その後、4月に備後三原の一揆、6月に生田万の乱、7月に摂津能勢の山田屋大助による百姓一揆は、「大塩門弟」「大塩残党」などと称して騒動をおこしています。また、幕府のきびしい取り締まりにもかかわらず、大塩平八郎の檄文が写し伝えられ、木版刷が出回るほどでした。
 この項は、『人物・日本の歴史(9)』(読売新聞社)などを参考にしました。
徳川家斉・家慶父子と大塩平八郎・格之助父子
 徳川家斉に本当に40人の側室がいたのか、調べてみました。正室は島津重豪の女で寔子、側室は平塚為喜の女でお万、押田敏勝の女でお楽、水野忠芳の女でお梅、水野忠直の女でお宇多、能勢頼能の女でお志賀、朝比奈矩春の女でお里尾、梶勝俊の女でお登勢、曾根重辰の女でお蝶、大岩盛英の女でお喜曾、吉江政福の女でお保能、牧野忠克の女でお八重、内藤就相の女でお美代、阿部正芳の女でお喜宇、高木広允の女でお波奈などがいました。
 まだまだ、いましたが、気分が悪くなりました。本当だったのです。
 10代目の紀伊藩主が亡くなると、家斉は自分の7男を11代目にしました。11代目が亡くなると、自分の21男を12代目にしました。この段階で21人もの男の子がいたことが分かります。
 東京大学の赤門は、加賀前田家の屋敷門だったことはよく知られています。
 1827(文政10)年、13代目の加賀藩主前田斉泰が自分の妻となる11代将軍徳川家斉の娘である溶姫のために建てた「御守殿門」が赤門にです。これもご存知の事実です。
 しかし、溶姫が家斉の何番目の娘か知っている人は、歴史通といえます。家斉にとっては、実に36番目の女の子だったのです。
 父が父ならというわけで、子の徳川家慶の側室を調べてみました。正室は有栖川宮 織仁親王の女で楽宮喬子、側室は、跡部正賢の女でお美津、押田勝長の女でお定、太田資寧の女でお加久、菅谷政徳の女でお波奈、稲生正方の女でお筆などがいました。
 蛮社の獄で自害した小関三英が、大塩平八郎について、兄に送った手紙によると、「町奉行与力のあいだにて、彼の右に立候者これなく、諸人其徳に服し、在勤中にすこしも私曲これなく、廉直の聞え」があったと書いています。
 裁判での出来事です。ある原告が、平八郎宅をおとずれて、菓子箱を置いて帰りました。翌朝、平八郎は、原告・被告双方の主張に耳を傾けていました。聞き終わると、平八郎は、咋夜、原告が届けてきた菓子箱をもち出し、列座の同僚を前に、「このような菓子を好むために、なんでもない訴訟も容易に解決できない」と言って、蓋を開けると、小判が入っていました。これを見た同僚は、ずっと下を向いたままであったといいます。
 平八郎は、近づきがたく、厳格で、潔白であったといえます。
 私が不思議に想ったのは、放火にしろ、延焼にしろ、自分の家が焼けた場合の対応です。悲嘆にくれると同時に、相手に激しい怒りを持つはずです。
 しかし、大坂の人は、平八郎に放火され、延焼して、家を失っているにもかかわらず、平八郎を非難する人がいないのです。西郷隆盛は、西南戦争で、多くの若い生命を失っています。しかし、鹿児島では英雄です。理屈では理解できないカリスマ性が、両者の共通点なのでしょうか。
系図の見方(一橋家、将軍家、紀伊家)
将軍の徳川吉宗 家重 家治 家斉 家慶 家定 徳川慶福(家茂)
宗尹 治済 家斉 斎順 ━━ 慶福
斎彊
斎敦 ━━ 昌丸
治宝 斎順 斎彊 慶福

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