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エピソード

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水野忠邦の天保の改革(株仲間の解散、上知令)
 1812(文化9)年、水野忠邦は、肥前唐津の藩主になりました。時に19歳でした。水野家は、徳川家康の母である「於大の方」の家系として有力な譜代大名でした。水野忠邦の7代前と6代前が老中職を経験しています。そういう環境にあって、水野忠邦は、自然と幕閣入りを表明します。その時の趣意書には「忠邦不肖な九ども水野の家に生まれ、御外戚の家筋に列なり、御譜代の席に在り、既に御役を仰せ蒙る上は、家の先規に依り、あは九一度は御加判の列となり、天下の政治を掌らんこそ身の本望なれ」と書いています。
 しかし、唐津藩(石高20万石)は、長崎警固という重要な役職があるために、幕府の重要な役職にはつけない決まりでした。そこで、幕閣入りを表明した水野忠邦は、昇進と転封を成功させるために、激しい猟官運動を行いました。
 1817(文化14)年8月、水野忠邦の親戚である水野忠成が、老中格になりました。
 9月、その関係で、水野忠邦は、寺社奉行となり、浜松藩主(石高5万石)となりました。水野忠邦は、この礼として、唐津領の1万7000石を上知行を幕府の納)しました。
 1826(文政9)年、水野忠邦は、京都所司代になりました。この頃、水野忠邦は、水野忠成に年1000両を献金しています。これが数年続いています。
 1834(天保5)年、水野忠邦は、本丸老中になりました。
 1835(天保6)年、水野忠邦は、但馬出石藩の御家騒動を裁きました。出石藩主の仙石道之助は幼弱だったので、家老の仙石左京は、老中松平康任に取り入り、反対派を弾圧して、独裁政治を行いました。その結果、仙石左京を獄門に処し、老中松平康任を隠居させました。水野忠邦の協力者であった川路聖謨は、勘定吟味役に昇進しました。
 1837(天保8)年2月、大塩の乱がおこりました。
 3月、水野忠邦は、勝手掛老中になりました。水野忠邦は、山のような書類を、吟味しながら、水が流れるように決済したといいます。
 4月、徳川家斉は、将軍を辞職しました。
 7月、徳川家慶は、12代将軍になりました。
 1839(天保10)年、水野忠邦は、老中首座となりました。水野忠邦は、享保の改革寛政の改革を目標として、「享保・寛政の御政治向きに相復し候様」と書いています。これでは本当の改革は、出来ないのですが…。
 1840(天保11)年、イギリスと清朝との間で、アヘン戦争がおこりました。
 1841(天保12)年1月、大御所の徳川家斉が亡くなりました。
 4月、水野忠邦は、「三奸」といわれた若年寄の林肥後守忠英や御小納戸頭取の美濃部越前守らを罷免しました。落首に「飛鳥も 落ちて林の 下やしき 肥後が月頃 作る罪科」とか、「美濃部から 出る錆なれば 是非もなし 荒砥にかけて 落す越前」とか詠われました。
 5月、水野忠邦は、大老井伊直亮を罷免しました。
 5月、水野忠邦は、倹約令を出しました。その内容は、ぜいたくな衣服や初物を禁止し、庶民が楽しみにしていた歌舞伎の役者には深編笠を被せて、罪人扱いしました。不満が残る倹約令です。
 12月、水野忠邦は、鳥居甲斐守耀蔵町奉行に抜擢しました。鳥居耀蔵は、倹約令を徹底して、取り締まったので、庶民から妖怪と恐れられました。
 12月、水野忠邦は江戸の十組問屋に対して解散を命令しました。これを株仲間の解散といいます。水野忠邦は、物価騰貴の原因は株仲間が商品の流通を独占していると考え、仲間以外の商人や在郷商人ら新興商人の自由な取引を許可し、物価を強制的に引下げようとしました。
 1842(天保13)年7月、水野忠邦は、天保の薪水給与令を出しました。
 10月、水野忠邦は、人情本の作者である為永春水(53歳)と合巻の作者である柳亭種彦(60歳)を処分しました。2人は庶民に人気があっただけに、不満が残る処分でした。
 1843(天保14)年1月、水野忠邦は、人返しの法を出しました。これは、天保の大飢饉で荒廃した農村を復興させるために、農民の出稼ぎを禁止し、江戸に流入した貧民の帰郷を強制するものでした。
 9月、水野忠邦は、幕府の権力を強化すると同時に、幕府の収入増加をはかって、江戸・大坂十里四方の農村を直轄領に編入する命令を出しました。これを上知令といいます。水野忠邦が自ら行った内容を、大名に強制したのです。
 閏9月、大名・旗本は、財政的に不利と反対を表明し、大奥を巻き込んで、反対運動を行いました。その結果、将軍徳川家慶は、大奥の味方を表明し、上知令は撤回されました。幕府の命令が、大名の反対で撤回されたことは、幕府権力の崩壊を意味します。
 1844(天保15)年、水野忠邦は、大塩の乱の張本人である跡部良弼(水野忠邦の弟)を町奉行に抜擢しました。
 1845(弘化2)年3月、水野忠邦は、遠山景元を町奉行に抜擢しました。この遠山景元が遠山の金さんです。
 9月、老中の戸田忠温は、水野忠邦に蟄居を命じました。
 1851(嘉永4)年、株仲間の再興が許可されました。
水野忠邦とはどんな人?
 1831(天保2)年、水野忠邦は、国家老に献金を要請すると、国家老は「藩の財政難打開のため、7000両を5000両に減額したい」と申し出ると、忠邦は、「もしそんなことをすると、公務にさしつかえ、かつ自分の昇進にもひびくので、なんとかやりくりして、向こう五か年間7000両を送るように…」と繰り返しています。
てくれるように、とたのんでいる。
 水野忠邦は、本丸老中になると、国もとから運動費を送ることはやめさせています。送る立場から受ける立場に変わっていきました。
 1841(天保12)年、金座の後藤三右衛門は、忠邦への上書で、「寛政改革のときの人事は、田沼意次・松本秀持の両名だけ免職にし、その他は急激に左遷の処置をとらなかったが、天保の場合は、すでに数十人にのぼっている。これらの人びとは罷免・左遷されるだけの理由はあったろうが、一応は教誨を加え、それでもいうことをきかない者にはどんなきびしい申し渡しをしてもよかろう。しかし、改心のひまも与えないようでは、ほかの役人はもちろんのこと、軽輩の町人まで薄氷をふむ思いをし、ひいては執政の人びとをうらみ忌避する傾向が生まれてくる」と痛烈に批判している。
 町奉行の鳥居甲斐守耀蔵は、庶民から「妖怪」と言われ、恐れられました。耀蔵は、倹約令を取り締まるために、若くて美人の役人(今で言う婦人警官)を使いました。ご禁制の品を売っていないか、色仕掛けで、罪を暴きました。
 具体的には、噂のある店に行き、ウインクしたり、着物の裾をチラッとまくって、「私にだけ売ってちょうだい」を言って色ボケの主人をだまし、品を出してお金を受け取った瞬間に、身分を明かし、逮捕したというのです。こういう政治を恐怖政治といいます。
 庶民の感想は、「(家斉死後)やがて世の中眉に火のつけるが如く俄に事あらたまりて、士農工商おしからめておののくばかり」といい、水野忠邦に対する政治不信を物語っています。
 庶民感情を窒息させた人情本や合巻の禁止では、例えば、為永春水の「春水」は特別な意味があり、柳亭種彦の柳と種にも特別な意味があります。潔癖症の忠邦は、許せなかったのでしょう。
 上知令に大奥が反対しました。女性ばかりの密室にいる大奥生活では、手紙を入れる文箱に神経を使いました。当時流行したのが、文箱を結ぶ紐でした。華やかに、長く、競いました。これを、水野忠邦が禁止したのです。これを怨んだ女性が、上知令反対の大名と共に、将軍家慶に泣きついたのです。ウーマンパワーが政治を変えたのです。
系図の見方(水野氏、松平氏、水野家の老中経験者、1つで一代略)
 娘
‖━ 忠守 水野忠元 ■■ 忠盈 忠之 ■■■■■ 水野忠邦 忠精
水野忠政
‖━ 於大
お富 ‖━ 徳川家康
‖━ 広忠
松平清康

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