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エピソード

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近代工業のめばえ(農村家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業)
 現在、私たちは資本主義社会という時代に住んでいます。しかし、人間の誕生と共に、資本主義社会だったわけではありません。
 人間は、食べ物がなくては生活できません。その食べ物を得る方法の発達が、人間の歴史であったとも言えます。
 人間は、初めは、自給自足でした。自分で食べるものは、自分で調達したのです。他の人を助ける余裕はありません。最近、土器や道具などの相次ぐ発見によって、自然食を中心にしていたとして、縄文時代は、それほど悲惨ではなかったという学者が増えてきました。しかし、縄文人の骨の研究から、多くの縄文人は栄養失調で死亡しています。
 貯蔵できる米の生産が増大することによって、余剰が産まれました。その時間を有効に使って、農民が自分で食べる物や着る物を副業で、生産する時代がやって来ました。原料や器具も自前です。これを農村家内工業といいます。
 17世紀初め、明から機法が伝来した金欄・緞子・縮緬などの高級絹織物は高機で織られていました。日本人を、その技法を学び、生産は京都の西陣で独占的に行なうようになりました。
 18世紀になると、問屋商人が生産者に、資金や原料・機械を前貸しして生産を行わせ、その製品を買い上げる生産形態が発達しました。特に木綿分野で発達しました。これを問屋制家内工業といいます。これにより、農民は、自給自足経済から脱皮できました。尾張木綿・河内木綿などの誕生です。
 19世紀になると、間屋制家内工業に限界を感じた一部の地主や問屋商人が、工場(作業場)を設置しました。
(1)一部の地主や問屋商人は、工場に機械・原料を準備します。工場や機械・原料を資本といいます。
(2)農村からの奉公人は、作業場に集められます。彼らを賃労働者といいます。
(3)仕事は、それぞれ、専門性に従って、分担します。これを分業といいます。
(4)仕事は別々ですが、流れ作業によって、品物が生産されます。これを協業といいます。
(5)手工業的(資本的)生産を行うようになりました。
 (1)〜(5)の要素をもつ生産形態を、工場制手工業といいます。アダム=スミスは『諸国民の冨』で、マニュファクチュアによって針を生産すると1日で数千本出来ると書いています。1人で最初から最後まで作ると1日1本出来るそうです。つまり、工場制手工業は、問屋制家内工業の数千倍の生産能力を持っているのです。
 元禄時代、1000石以上の伊丹や池田・などの酒造業、1万石以上の銚子や野田の醤油製造業では、工場制手工業が発達していました。
 田沼時代、北関東の桐生・足利などの民間の絹織物業者で、10台以上の織機を置いて10人以上の奉公人と雇っている工場制手工業者が多数存在しています。
 寛政時代西陣では高機を用いて、工場制手工業で高級織物を生産するようになります。
 幕末時代、川口では鋳物業、大坂では製油業、伊万里では製陶業の工場制手工業が発達していました。
 藩営としては、肥前藩で反射炉での大砲製造、h摩藩では紡績工場、水戸藩では石川島造船所の工場制手工業が発達していました。
 工場制手工業者にとって、生産を拡大させるのに、重大な障害がありました。
(1)鎖国です。原材料の供給や製品の販路の障害になっています。
(2)封建制による農民の移動禁止です。労働者の獲得の障害になっています。
(3)専売制による商品の独占販売が障害になっています。
 そこで、工場制手工業者は、次のような要望を持っていました。
(1)鎖国を止め、市場の開放を要求しました。
(2)農民の移動の禁止を止め、雇いたいだけ雇えることを要求しました。
(3)原料・材料の自由な獲得を要求しました。
ピンチはチャンス、発想の転換の必要性
 問屋制家内工業の限界を皆さんはお感じになりますか。
 私は、問屋さんが、自動車のない時代です。荷車を引いて、約束に日に製品を取りに行ったことを想像します。しかし、契約農家では、風邪で数日寝ていました。当然製品はもらえません。次の家では、材料がなくなったので、契約数しか出来なかったと苦情を言われました。ある家では、機械が故障して、仕事にならなかったと文句を言われました。
 限界を感じた問屋制家内工業の経営者は、この問題を解決するために、工場を建て、働き手を一箇所に集め、原料や機械を一括管理する方法を考え出しました。
 不便を感じても、発想の転換を出来ない問屋制家内工業の経営者は、次の時代には姿を消していきました。
 日本の歴史に、マニュファクチュアという英語は存在しません。存在するのは、工場制手工業という日本語(漢字)です。マニュという英語は日本語に直すと、手動という意味になります。カメラのオート(自動)とは反対のマニュ(手動)です。ファクチュアの語源は、ファクトリで、工場とか製造所という意味です。つまり、手動で製品を製造するということです。鎖国日本でも独自に、イギリスで発達した生産形態が発達していたことは、注目に値します。
 マニュファクチュアは、英語では、機械で大量に生産する意味で使用されています。
 工場制手工業者は、江戸時代の封建社会に限界を感じて、新しい社会(資本主義社会)を模索していました。鎖国時代の日本で、このような開明的は発想があったとは注目に値します。
 ことさら、日本の誇りを誇張する余り、近隣諸国と摩擦を起こさなくても、事実だけでも、近隣諸国と仲よくして、しかも日本には素晴らしい財産があるのです。

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