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エピソード

146_02

塙保己一と知識のデータベース化
 盲目の学者塙保己一に戻ります。
 1746(永享3)年、武蔵の国保木野村で、誕生しました。
 1753(宝暦3)年、保己一は、7歳で失明しました。
 1760(宝暦10)年、15歳の時、江戸の雨富須賀一検校に入門しました。保己一は、按摩・音曲は不得手でしたが、『太平記』全40巻を6カ月で丸暗記したり、一度聞くとすぐに覚えるという特質を見抜いた師匠の雨富須賀一検校は、文字を音読して、学問をするという方法を、勧めました。このやり方は評判となり、多くの人が蔵書を預けるようになりました。
 1793(寛政5)年、検校となっていた保己一(48歳)は、その見識を幕府に認められ、和学講談所の設立が認められました。これを認めたのが老中松平定信で、土地300坪と建設資金350両を貸与し、それに毎年50両の資金も援助しました。寛政異学の禁を出しましたが、朱子学の奨励の立場からこういう粋な計らいをしていたのですね。
 幕府の威光で多くの多くの書物が収集できました。家宝として他人には見せなかった『日本後紀』などは、京都の伏見宮家と懇意になって、書写したという話も残っています。
 1819(文政2)年、保己一(74歳)は、古代から江戸時代初期までの国書を25項に分類し、合冊して、正編530巻を完成させました。これが『群書類従』です。
 同書異類の場合は、門人に読ませて、保己一が正しいと思う方を採用したといいます。
 類としては、「神祇」・「帝王」・「補任」・「系譜」など25項目に分けました。物語部には、「伊勢物語」・「竹とりの翁の物語」、日記部には「和泉式部日記」・「紫式部日記」、紀行部には「土佐日記」・「さらしな日記」、雑部には「枕草子」・「方丈記」・「十七箇条憲法」を収めました。
 1821(文政4)年、保己一は、76歳で亡くなりました。
 1822(文政5)年、保己一の意志を次いで、続編1150巻が完成しました。この結果、版木にして17244枚、冊子にして1273冊という多くの貴重な資料が散失することなく、後世に伝承されたのです。
 この和学講談所の資料は、東京大学史料編纂所に引き継がれ、『大日本史料』として現在も刊行されています。
 1937(昭和12)年、三重苦のヘレン=ケラーは、日本に来た時、渋谷の温故学会会館を訪れ、しみじみと、塙保己一の鋳像や愛用の机に手を触れました。
 そして、母親から塙保己一の不屈の精神を教られたことに触れ、「塙先生こそ私の生涯に光明を与えてくださった大偉人です。本日、先生の御像に触れることができましたのは、日本における最も有意義なことと思います。手垢のしみたお机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには心から尊敬の念を覚えました。先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語ったということです。
 戦前の『尋常小学読本』巻8にも、塙保己一のことが紹介されています。原文で紹介します。
”目は見ゆれども、字のよめざる人をあきめくらといふ。昔はあきめくらも多かりしに、まことのめくらにして、大学者となりし人あり。塙保己一これなり。
 保己一は五歳の時めくらとなりしが、人に書物をよませて、一心に之を聞き、後には名高き学者となりて、多くの書物をあらはせり。
保己一の家は今の東京、其の頃の江戸の番長にありて、多くの弟子保己一につきて学びたれば、時の人
 番長で 目あきめくらに 道をきゝ
と言ひたりといふ。
 或夜弟子をあつめて、書物を教へし時、風にはかに吹きて、ともし火きえたり。保己一はそれとも知らず、話をつゞけたれば、弟子どもは
「先生、少しお待ち下さいませ。今風であかりがきえました。」
と言ひしに、保己一は笑ひて、
「さてさて、目あきといふものは不自由なものだ。」
と言ひたりとぞ”
塙保己一と宮崎康平、一番国際化が進んでいる東大史料編纂所
 1967(昭和42)年、宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』が出版されました。
 前書きには「私の邪馬台国探求は、歴史のジャンルとしてではなく、私自身が生きるために、自己への対決として出発した。というのは失明という体験を、私が余儀なくされたからだ」とありました。
 どうして失明した人が本を出版できるのかと不思議でした。 
 1950(昭和25)年、宮崎康平氏は、33歳で失明し、その時の気持ちを「なぜ自分だけが失明の宿命を負わされなければならないのか、暗闇の招待状を受け取った私は、世を恨み、身の不遇をかこちながら明け暮れていた」と書いています。
 1950(昭和25)年、宮崎さん(40歳)は、和子さんと結婚します。その直後、島原豪雨に出会います。部下が土砂に埋もれた川の中から土器の破片を発見します。直感的に、宮崎さんは「ここが邪馬台国だ」と信じました。
 盲目の宮崎さんには、『魏志倭人伝』が読めません。そこで、和子さんに音読してもらいました。文字を目で読むのでなく、耳で聞くことでしか出来ないイメージが膨らんだのです。
 これを読んだ時に、真っ先に思い出したのが盲目の学者塙保己一でした。
 おどみゃ島原の おどみゃ島原の ナシの木育ちよ 何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな 早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ 鬼の池ン久助どんの連れんこらるバイ
 この歌は『島原の子守唄』です。宮崎康平氏が作詞・作曲したものです。これにもびっくりしました。
 最近の新聞によると、東京大史料編纂所の前近代日本史情報国際センターが設立されたとあります。史料編纂所が膨大に抱える歴史資料をデジタル化して公開し、日本史研究の国際化を図るための拠点にしたいという構憩です。
 「史料編纂所の起点は、江戸時代に国学者の塙保己一が設けた和学講談所にさかのぼる。収蔵史料は古代から明治維新期にまでわたり、国宝1件、重要文化財13件を含め約19万5千件。図書も和漢書合わせて約16万冊に及ぶ。そうした史料の山を研究者が黙々と解読し、史料集として千冊以上を刊行してきた。
 史料編纂所はすでにテキストや目録のデータベースを公開し、海外からのアクセスは毎月1万件を超えている。東大のデータベースで最も多い実績だという」(2006年10月12日付け朝日新聞)。
 塙保己一の紙データは、デジタル化され、世界共有のデータとしてインターネットで使用される。中国や韓国の史料も同じように共有化し、研究されれば、歴史研究は、狭いナショナリズムの国益より、人類益の視点に立てるかも分りません。 
 東大の佐藤慎一副学長は「日本で一番国際化が進んでいるのは大相撲。東大で一番国際化が進んでいるのは、非国際的とみられがちな史料編纂所なのです」と語っています(同紙)。

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