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エピソード

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化政文化U(洋学=蘭学の発達、新井白石・杉田玄白・前野良沢・シーボルト)
 洋学とは、西術の総称です。鎖国時代の日本には、洋学はオランダ(和)の術しかなかったので、蘭学ともいいます。
 日本における洋学(蘭学)は、第一〜第五段階に整理できます。
 第一段階は、元禄・正徳時代をいいます。
 元禄時代です。
 オランダ人医師ケンペルオランダ商館の医師として来日し、3年間滞在しました。ケンペルは、帰国すると、『日本誌』を発表しました。その一部を志筑忠雄が『鎖国論』として翻訳しました。
 長崎通詞の西川如見は、『華夷通商考』を著して、見聞録を残しました。華夷のとは中華思想の国、つまり中国のことです。は野蛮人のことで、当時の日本人はオランダ人を野蛮な国と考えていました。つまり、中国やオランダとの貿易に関する見聞記ということになります。
 正徳時代です。
 側用人としても権力を振るった新井白石は、洋学でも大きな足跡を残しました。『西洋紀聞』は、シドッチの尋問で得た西洋の風俗記録です。『采覧異言』は、世界の地理書です。新井白石は、ヨーロッパの天文・地理は日本が追いつけないほど進歩していると指摘しています。同時に、儒教がキリスト教より優秀であるという感想を述べています。
 第二段階の享保の時代は、将軍徳川吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことで、新たな段階を迎えました。
 蘭語を研究した青木昆陽は、甘藷栽培の記録である『甘藷記』を著しました。
 蘭語を研究した野呂元丈は、将軍徳川吉宗の命で薬物を研究しています。
 この時代、西洋の学術が、蘭学の1つとして研究されるようになりました。
 第三段階は、明和・安永・寛政時代をいいます。
 明和時代です。
 スウェ−デン人のツンベルクは、オランダ商館の医師として来日し、2年間滞在しました。ツンベルクは、帰国すると、『日本植物誌』を発表しました。
 ツンベルクには、桂川甫周中川淳庵らが学びました。
 安永時代です。
 若狭小浜藩の医者である杉田玄白・中川順庵や中津藩の医師である前野良沢らは、ドイツ人クルムスの原書(『解剖図譜』)の蘭訳書『ターヘル=アナトミア』を日本語に翻訳して、『解体新書』として出版しました。小田野直武が挿絵を描いて、1774年に刊行されました。
 杉田玄白は、蘭学創始期の回想録として、『蘭東事始』として出版しました。これが後の『蘭学事始』です。
 寛政時代です。
 宇田川玄随は、西洋の内科書の翻訳本として『西説内科撰要』を出版しました。
 第四段階は、文化・文政時代をいいます。
 文化時代です。
 天文方の高橋景保が提唱して、翻訳局である蕃書和解御用を設置しました。フランス人であるショメール(Noel Chomel)の『日用百科事典』(Dictionnaire Oeconomique)をシャルモ(De Chalmot)が蘭訳した『Huishoudelijk Woordenboek』を日本語に翻訳して、『厚生新編』として発表しました。翻訳は、大槻玄沢宇田川玄眞小関三英宇田川榕庵らがあたり、100巻に及んだといいます。『厚生新編』とは、西欧の新知識の導入による民生の福利厚生という意味です。
 この蕃書和解御用は、後に洋学所、蕃書調所、洋書調所と名を変えて、現在の東京大学になります。
 文政時代です。
 ドイツ人医師のシーボルトは、オランダ商館の医師として来日し、6年間滞在し、長崎郊外に医学塾である鳴滝塾を開設しました。シーボルト事件により国外追放となり、ドイツに帰国後、『日本』や『日本動物誌』・『日本植物誌』を著しています。再度来日して、3年間滞在しています。
 シーボルトの門人は、高野長英や小関三英・伊東玄朴らです。蛮社の獄で、門人の高野長英や小関三英が弾圧されます。
 第五段階は、天保・安政時代をいいます。
 天保時代です。
 大坂で開業した蘭医の緒方洪庵は、大坂に蘭学塾の適塾適々斎塾)を開設しました。
 緒方洪庵の門人は、大村益次郎橋本左内福沢諭吉らです。
 安政時代です。
 シーボルトの門人である伊東玄朴は、江戸の神田に牛痘接種機関として種痘所(種痘館)を開設しました。後に、種痘所は、幕府直営となり、医学所と名を変え、現在の東京大学となります。
シーボルトや緒方洪庵で考えること
 大雨の翌日、江戸のあちこちに、鏃(やじり)が発見されました。庶民は、天で戦争があったんだと噂をしました。それを聞いた新井白石は、大雨で、地中の鏃が顔を出したに過ぎないと、科学的に冷静に受け止めています。
 蕃書和解御用の蕃は、野蛮という意味です。蕃書とは野蛮な国の書物、つまりオランダの書(西洋の書)ということです。和解の和は、日本のことです。解は解るようにする、つまり日本語に翻訳するという意味です。御用は、幕府の仕事です。つまり、洋書を日本語に翻訳する幕府の役所です。
 1828(文政11)年、シーボルト事件がおこりました。これは、シーボルトが帰国する時、天文方の高橋景保が国禁の日本地図をプレゼントしたことが分かり、シーボルトは国外追放、景保は投獄され、獄死した事件です。
 高橋景保の父は、天文方の高橋至時です。景保は、銅板の『新訂万国全図』を制作したり、伊能図の完成に協力したり、ケンペルの『日本見聞記』を翻訳したり、蕃書和解御用を設置したり、当代随一の学者兼実力者です。
 景保がシーボルトに『大日本沿海輿地全図』(伊能図)を贈ったことは、一部の人間しか知りません。景保が処分されたことで、利益を得たものは誰か。
 将軍の侍医で、眼科医の土生玄碩は、シーボルトが江戸に出府してきたとき、開瞳薬の話を聞き、衝撃を受け、その薬を得ようとしました。将軍より拝領の三つ葉葵の紋服を国禁を犯してシーボルトに贈って、その薬を得ることが出来ました。
 突如やって来た長崎奉行の役人が、出港を待っているシーボルトの荷物を検査しました。その中には、幕府禁制の伊能図や江戸城内の地図がありました。そこで、シーボルト宅を調べると、土生玄碩が贈った葵文の羽織が出てきました。その結果、シーボルトに繋がる高橋景保や鳴滝塾の優秀な塾生の多くが連座して、獄死しました。蛮社の獄の伏線なのかもしれません。
 土生玄碩のことは、その後よく分かりません。今後とも、追求するつもりです。
 シーボルトは、国外追放後も再度日本を訪れています。
 日本の娘との間に生まれた「いね」は、築地に産院を開業しています。「いね」が種となって、シーボルトの思いは花開いたのです。
 私は、緒方洪庵の適塾の指導に関心があります。福沢諭吉によると、質問するものには、答えるが、質問もしない者には、何も手当てをしなかったと書いています。
 私も、学生時代、アルバイトで、家庭教師をしました。緒方洪庵流儀で請け負いました。受講生に、「何か質問とか疑問はありますか」と先ず聞きます。「何もありません」と答えると、その場で帰ります。
 親は最初、怒ったようですが、最初の請け負い契約が、そうなっていたので、納得してくれました。次回から、受講生は、「質問しないと、お金だけ取られて、すぐ帰ってしまう」と思い、自分で、質問や疑問を考えています。また、京都のあちこちの名所・旧跡を案内して、生きた勉強をします。自分で課題を見つけ、勉強が面白いと思うようになると、自主的に勉強するようになります。
(1)「ここはテストに出るから…」と脅して勉強させる指導者の気持ちが分かりません。
(2)また、「●●すると■■になれる」というような、安直はハウツーものが流行しています。他人の真似は絶対に出来ません。
(3)過保護社会(親や近所・学校・マス=コミ)が蔓延して、「可愛い子には旅をさせ」が死語になっています。
(4)自分に出来もしないことを、しゃーしゃーと言う人が多くなっています。
 (1)〜(3)が続く限り、不登校やニートといった現象はなくなりません。 

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