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エピソード

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化政文化V(洋学=蘭学の学問的業績、華岡青洲・大槻玄沢・稲村三伯)
 医学分野では、臨床実験を重視する漢代の医術である古医方が重視されました。
 名古屋玄以は、最初に古医方に傾倒した医者です。
 山脇東洋は、日本最初の解剖図録である『蔵志』を著しました。
 古医方と蘭学の両方を取得した華岡青洲は、麻酔薬である麻沸湯を使い、乳ガンの手術に成功しました。
 語学の分野です。
 蘭医の大槻玄沢は、杉田玄白前野良沢に学び、江戸の芝で蘭塾(芝蘭堂)を開きました。大槻玄沢は、蘭学の入門書である『蘭学階梯』を刊行しました。内容は、蘭学勃興の歴史とオランダ文法の初歩が記されています。また、玄沢は、太陽暦にもとづくオランダ正月(新元会)を44回も開き、江戸の庶民をビックリさせました。変人の集会という意味で。
 鳥取藩の医師である稲村三伯は、大槻玄沢に学び、オランダ人ハルマの『蘭仏辞典』を翻訳して『ハルマ和解』を刊行しました。これは、最初の蘭日辞書です。
 長崎では、通詞(通訳)のオランダ人ズーフは、蘭日辞書『ズーフハルマ』を刊行し、後に、桂川甫周が改訂して『和蘭字彙』として出版しました。
 天文学の分野です。
 田沼時代、長崎通詞の本木良水は、『阿蘭陀地球図説』を著して、コペルニクスの地動説を紹介しています。
 寛政治代、長崎通詞の志筑忠雄は、『暦象新書』を著して、ニュ−トンの学説を紹介しています。
 高橋至時は、麻田剛立に学び、天文方の間重富と共に、西洋暦法を取り入れた寛政暦を完成しました。高橋至時の子が、シーボルト事件に連座した高橋景保です。
 測地学の分野です。
 長久保赤水は、『日本輿地路程全図』を刊行しました。
 伊能忠敬は、量程車を使い、実測による日本全図である『大日本沿海輿地全図』を作成しました。
 物理学は、窮理学といわれていました。理を窮(きわ)めるという意味です。
 田沼時代、平賀源内は、エレキテル(摩擦起電器)を作ったり、石綿による火浣布(不燃の布)・寒暖計を作っています。
 天保持代、帆足万里が出ています。
 化学は、舎密学といわれていました。読むと、セイミ学となります。舎密は、オランダ語chemieの音訳です。英語ではケミストリ(歌のグループ名ではありません)です。ポルノグラフィだの、若者の命名は、面白い。
 蘭医の宇田川榕庵は、イギリス人の化学書の翻訳して、『舎密開宗』を出版しました。
 本草学の分野です。植物学とか薬学の分野です。
 蘭医の宇田川榕庵は、『菩多尼訶教』を著して、西用植物学を紹介しています。「botanica」とは植物のことです。
 飯沼慾斎は、『草木図説』を著して、リンネの分類法による分類・図説を紹介しました。 
私は、「レオナルド・ダ・ピンチ」(ヴィンチでなく)
 華岡青洲は、22歳の時、京都に上り、中国人の医者である華陀のことを知りました。華陀は、麻沸湯」という麻酔薬を使い、ガンを摘出することに成功した人です。
 郷里の和歌山に帰った青洲(25歳)は近所の「かえ」という娘と結婚しました。青洲は、時間があれば、麻酔薬を作るための薬草をさがして野や山を歩き回りました。兄青洲を援助するため結婚も犠牲にしていた、妹の「かつ」(31歳)が乳ガンで亡くなりました。
 麻酔薬を飲んで眠っていた猫が、ついに、、目を覚ましたのです。この時、青洲は、40歳になっていました。いよいよ人間で試薬する時です。妻の「かえ」と母の「つぎ」が、争ってその実験に志願しました。しかし、何度も飲んでいるうちに、「かえ」は失明してしまいました。
 妻のこの犠牲の上に、麻酔薬が完成し、「痛仙散」となづけられました。この話が「華岡青洲の妻」となって、今に伝えられています。
 鎖国の日本で、コペルニクスの地動説やニュ−トンの学説を紹介した人がいたとは、驚きです。翻訳本で読めたとしても、これを「素晴らしい」と認める能力がなければ、紹介することもなかったでしょう。
 近隣諸国と摩擦を起こさなくとも、日本人の優秀性を示すテーマはいくらでもあります。摩擦を起こす意図があるとしか思えません。
 伊能忠敬は、49歳の時家督を長男に譲り、50歳の時妻が死ぬと、江戸に出て、高橋至時に測地・暦法を学びました。55歳の時、奥州街道・蝦夷地に出かけて実測図を作っています。57歳の時、出羽街道・越後街道に出かけ実測図を作っています。58歳の時、尾張・能登・佐渡に出かけました。
 60歳の時、琵琶湖・山陽道の岡山に出かけて、測量しています。61歳の時、岡山から赤間が関、山陰・隠岐島・若狭湾を測量しています。63歳の時、淡路・四国・伊勢を測量しています。64歳の時、中山道・山陽道・豊前小倉を測量しています。65歳の時、豊前からh摩を測量しています。66歳の時、中国地方・甲州街道・九州を測量しています。67歳の時、屋久島・種子島を測量しています。68歳の時、壱岐・対馬を測量して、姫路で越年しました。69歳の時、近畿・中部地方を測量しました。
 71歳の時、『大日本沿海輿地全図』の作成にとりかかりました。73歳の時、亡くなりました。
 私の定期講座やパソコン塾に、元気なシルバーがやって来ます。経済面でも、心身的な面でも、とても元気です。気の若さ・やる気が満ち溢れています。伊能忠敬のこのエネルギーを見ると、その凄さが伝わってきます。
 私が大学院の面接を受けた時のことです。ゼミの教授が、面接の同僚教授に「●●君は平賀源内やからな」と説明していました。それで合格したかどうか分かりません。気になったので、平賀源内を調べました。多くの書物は、彼を「変人奇人」と紹介していました。私も、一軒だけよく利用する居酒屋があります。ある人によると、そこは「変人奇人の集まるとこや」ということでした。
 平賀源内は、高松藩の足軽の子で、小さいとき、掛け軸に細工をして「お神酒天神」(顔の部分を透明にして、背後に肌色と赤色を上下に塗った紙をスライドさせて、天神さんがお酒を飲んで赤くなるという仕掛け)を作成し、それが噂となり、13歳の時、高松藩の医者に認められ本草学や儒学を学びました。その後、婿養子に家督を譲り、2度長崎で勉強しています。杉田玄白や田沼意次とも交友がありました。
 鉱山開発したり、秋田藩士の小田野直武に洋画の技法(陰影法・遠近法)を伝授したり、戯作(風来山人と号して『根南志具佐』『風流志道軒傳』を発刊)に手を出したり、エレキテルを復元したりしています。最後は2人を殺傷して、52歳で獄死するという波乱に富んだ人生を送っています。
 日本のレオナルド・ダ・ヴィンチということでしょうか。
 私は、「レオナルド・ダ・ピンチ」です。ピンチに立って色々考えるのが大好きです。

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