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エピソード

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化政文化Y(尊王思想と尊王論、宝暦事件・明和事件、頼山陽)
 尊王思想の尊王とは、するということです。この王は、中国では天子(天の子)とされ、天命により天に代わって国を治める者という意味です。理想とされた政治です。日本では、天皇がそれにあたるという考えがありました。これを尊王思想といいます。
 天命に政治(王道)でなく、武力による政治を覇道といいます。江戸時代は、武家政権ですから、覇道ということになります。尊王論の立場からすると、理想とされた王道に戻すことが必然とされました。
 副将軍(水戸黄門)といわれた水戸藩主徳川光圀は、17世紀後半に、『大日本史』の編纂事業を始めました。その基礎におかれたのが尊王思想です。
 1758(宝暦8)年、宝暦事件がおきました。越後の医師の子である竹内式部は、京都に行き、徳大寺家に仕え、山崎闇斎が始めた垂加神道を学びました。垂加は山崎闇斎の号で、「天地開闢の神の道と天皇の徳は唯一無二」を根本にしています。竹内式部は、桃園天皇や公家にも自説を披露したり、武技を教授しました。公家の中にも、尊王思想に燃える者も出てきました。朝幕関係の悪化を恐れた前の関白一条道香は、娘が水戸藩主の奥方でもあり、京都所司代に密告しました。その結果、徳大寺ら公家8人が処分を受けました。
 1759(宝暦9)年、竹内式部は伊勢に永蟄居となりました。竹内式部らと尊王思想を説いた藤井右門は、江戸に逃れ、山県大弐の家に寄宿しました。
 1759(宝暦9)年、江戸で兵法を説いていた山県大弐は、『柳子新論』を著しました。「民に二王なし。忠臣は二君に仕えず」という尊王思想の立場から、幕政を批判しました。それがエスカレートして、山県大弐と藤井右門は、甲府城や江戸城を攻撃する軍略を説いたと言われています。
 1766(明和3)年、山県大弐の弟子で、上野小幡藩の家老が、危険を感じて、大弐らを訴えました。そこ結果、山県大弐と藤井右門は死刑となり、伊勢で永蟄居の竹内式部は、八丈島に遠島になりました。これを明和事件と言います。
 18世紀末、水戸藩主徳川斉昭が保護したこともあり、水戸学は、藤田幽谷によって再興され、幽谷の弟子である会沢安や幽谷の子である藤田東湖らによって確立されました。朱子学の大義名分論に、万世一系の天皇という尊王論が結合しているところに特徴があります。
 この立場から、水戸学は、鎖国を正当化し、ペリー・ハリスの来航以来、攘夷論と結びつき、尊王攘夷運動の中心理論になっていきました。
 次に、寛政の三奇人を紹介します。
 上野の新田郡に生まれた高山彦九郎は、13歳の時、『太平記』を読み、自分の先祖が新田義貞の家臣であったことに感激すると同時に、失敗した建武の中興を自分の手で成し遂げようと、垂加神道の尊王思想を学びました。その後、全国にある南朝の史跡を探し歩きました。
 下野の蒲生君平は、江戸の松下見林が出した『前王廟陵記』(1697=元禄11年刊行)を読んで、全国の御陵(天皇の墓)を調査して、その荒廃を嘆いて涙を流し、『山陵志』を著しました。藤田幽谷とも交友がありました。
 広島の頼山陽は、18歳の時、江戸の昌平黌に入学し、21歳の時、広島藩を脱藩しました。その結果、頼家は取り潰され、頼山陽は幽閉されました。許されて後、頼山陽は32歳の時、京都に行きました。
 頼山陽は、47歳の時、『日本外史』を完成しました。『日本外史』の特徴は、「源氏・足利氏以来、軍職に在つて太政の官を兼ぬる者は独り公のみ。蓋し武門の天下を平治すること、ここに至つてその盛を極むと云ふ」とあるように、歴史によって尊王思想を鼓吹することにあります。軍職にあってとは、武官の最高位である征夷大将軍をいいます。太政の官とは、文官の最高位である太政大臣をいいます。つまり征夷大将軍と太政大臣を兼ねる者は、11代将軍の徳川家斉ただ1人ということです。「ここに至つてその盛を極む」という表現は、「驕る平家は久しからず」と解釈するのが妥当ではないでしょうか。外史とは、エピソードということです。
天下の副将軍が、尊王思想のルーツ?感想
 水戸黄門こと徳川光圀が尊王思想のルーツと言われています。天下の副将軍が、天皇を尊崇するということに違和感を覚える人がいるかも知れません。
 しかし、水戸光圀の頭では整理されているのです。天皇は、誰も侵すことが出来ないほど尊い存在である。不可侵の天皇から、征夷大将軍を任命される。だから、征夷大将軍も不可侵の存在だということになります。武力と、その権威で以って大名や家臣を支配する思想です。純粋な尊王思想ではないのです。
 伊藤博文が、幕末、「玉」を相手に渡すなといったのと根は同じです。
 現在、政治家が、天皇の元首化を主張しています。天皇を政治的に利用して、政敵を圧倒しようとする意図が見え見えです。
 頼山陽は、13歳の時、次のような歌を作りました。
 「十有三の春秋 逝く者は已に水の如し 天地 始終無く 人生 生死有り 安んぞ古人に類して 千載 青史に列するを得ん」(13歳の時に考えました。死ぬものは水のように姿を消す。天地自然には始も終わりもない。しかし人間の一生は必ず生まれては死んで行く。どうか有名な古人のように、永久に歴史に残るようになりたいものだ)。
 私もやっと、今の歳で、死に行く自分の姿を描けるようになったというのに、13歳の子供が、ここまで見通せるとは、まさに奇人である。
 頼山陽は、53歳の時に、亡くなりました。京都の円山公園の東の長楽寺に墓があります。私は、赤穂事件に出てくる藩医の寺井玄渓の墓にお参りに行って、頼山陽の墓をすぐ近くで発見しました。
 高山彦九郎は、三条大橋から皇居を土下座して拝している銅像で有名です。
 蒲生君平は、御陵(天皇の墓)の荒廃を見て、涙したという話が有名です。
 頼山陽は、母を背負って吉野の桜を見に行ったという話は有名です。

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