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エピソード

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和歌(良寛)・俳句(小林一茶)と狂歌(蜀山人)・川柳(柄井川柳)
 和歌は大、つまり日本の歌をいいます。俳句は、連歌の上句が独立して誕生した、五・七・五の歌です。
 狂歌は、和歌の形式で、風刺を主としています。川柳は、俳句の形式で、風刺が特徴です。
 和歌です。
(1)香川景樹がいます。古今調の歌風を特徴としています。
 恋と題して、次の歌が印象に残っています。
 「世中の 一花ごろも いつのまに 身にしむまでは おもひそめけむ」 
 「大かたの よその情を 見し日より こひしき人に なりにけるかな」
 「若草を 駒にふませて 垣間見し をとめも今は 老やしぬらむ」
(2)良寛さんがいます。童心にあふれる万葉調の歌風を特徴としています。
 「この宮の 森の木下に 子供らと 遊ぶ春日は くれずともよし」
 「ひさかたの 雪解の水に 濡れにつゝ 春のものとて 摘みに来にけり」
 良寛さん(70歳)のところを貞心尼(30歳)が訪れた時の和歌です。
 「これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ」(仏の道を教えてください)
 良寛さんの返しの和歌です。
 「つきて見よ ひふみよいむな やここのとを とをとおさめて またはじまるを」(手鞠をついて無心になりなさい)
 良寛さんの辞世の和歌です。
 「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」
 狂歌です。
(1)蜀山人が有名です。
 「世わたりに 春の野に出て 若菜つむ わが衣手の 雪も恥かし」(蜀山人)
 「光孝と 何かいふらん 君がため 若菜を摘むは 忠義天皇」(蜀山人)
 「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」(本歌は光孝天皇)
 「いかほどの 洗濯なれば かぐ山で 衣ほすてふ 持統天皇」(蜀山人)
 「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ あまの香久山」(本歌は天智天皇)
 「あし引の 山鳥のおの したりがほ 人丸ばかり 歌よみでなし」(蜀山人)
 「足引の 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 独りかも寝ん」(本歌は柿本人丸)
 「白妙の ふじの御詠で 赤ひとの 鼻の高ねに 雪はふりつつ」(蜀山人)
 「田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ」(本歌は山辺赤人)
 「みなの川 みなうそばかり いふなかに 恋ぞ積りて 淵はげうさん」(蜀山人)
 「つくばねの 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」(本歌は陽成院)
 「花さそふ あらしの庭の 雪ならで くものは うしの金玉」(蜀山人)
 「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり」(本歌は入道前太政大臣)
(2)石川雅望がいます。別名宿屋飯盛といい、蜀山人に学びました。
 「歌よみは 下手こそよけれ 天地の 動き出して たまるものかは」
 「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」(本歌は紀貫之の『古今和歌集』序)
 俳句です。
(1)与謝蕪村が有名です。『蕪村七部集』は写生を重んじた客観的な句が特徴です。
 「起て居て もう寝たといふ 夜寒哉」
 「水鳥や てうちんひとつ 城を出る」
 「みじか夜や 毛むしの上に 露の玉」
(2)小林一茶です。『おらが春』が有名です。
 「我ときて 遊べや 親のない雀」
 「是がまあ ついの栖か 雪五尺」
 「めでたさも 中位なり おらが春」
 川柳です。
(1)柄井川柳が有名です。『誹風柳多留』を出しています。
 「孝行の したい自分に 親はなし」
 「役人の 子はにぎにぎを よく覚え」
 「寝ていても 団扇のうごく 親ごころ」
 「居候 三杯目には そっと出し」
 「どっからか 出して女房は 帯を買い」
 「蟻一つ 娘ざかりを 裸にし」
 「侍が 来ては買ってく 高楊枝」
 「芭蕉翁 おbちゃんと云ふと 立ちどまり」
良寛と蜀山人
 昔、自転車で学校に通っていた時があります。余り車が来ない住宅地での出来事です。若い母親らしき人が、変な顔をして、奇妙な仕草をしていました。頭が少し弱いのかなと思い、関わらないように、少しはなれて通り過ぎようとしました。その瞬間、変な仕草の母親の相手が路地から出てきました。小さい子供さんでした。
 この母親は、子供心になって、相手をしていたのです。母親は、子供を相手にするとバカになれる。これを童心というんだなと理解しました。ここには、争いがおきません。
 良寛さんが、子供と遊ぶ、或いは子供心になりきるということは、「無の心」だったということです。無の心になると、誰とでも、自由になれるということでしょうか。
 蜀山人の本名は、大田直次郎といいます、先祖代々、幕府の御徒組に属し、七十俵五人扶持でした。蜀山人の父は、自分と同じ道をたどらせまいと、学費を工面して、蜀山人に期待しました。
 松平定信が老中となると、寛政異学の禁を発し、昌平坂学問所で、正学(朱子学)を学んで、優秀な成績を修めた者を登用する制度を設けました。1794(寛政6)年、蜀山人は46歳で受験しました。合格者のうち、御目見得以下のトップは蜀山人こと大田直次郎で、銀10枚を与えられました。
 優秀な成績で卒業した蜀山人は、昼は大田南畝として、幕府に勤め、夜は、蜀山人として人生を楽しむ生活を送るようになりました。
 しかし、定規で計った様なサラリーマン武士の生活に嫌気がさし、さっさと武士を捨てました。ここが、同じ学問所の卒業生でも武士を捨てられなかった遠山左衛門尉金四郎(金さん)と違うところです。
 すべての束縛からはなれた蜀山人は、狂歌の世界で天皇をも平気で風刺する自由人となったのです。
 良寛さんと蜀山人とは、どこかフーテンの寅さんに似ている気がしています。

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