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エピソード

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『仮名手本忠臣蔵』
 よく、「『仮名手本忠臣蔵』があったから、今の忠臣蔵人気があったんだ」という人に出会います。
 私は、「元禄14(1701)年の刃傷事件が原因で、元禄15(1702)年の討入り事件が引き起こされ、その結果、元禄16(1703)年の赤穂浪士の切腹で終わる赤穂事件そのものがドラマ的であったから、芝居や映画やTVになっても面白くて、人気があるんですよ」と説明するようにしています。
 しかし、『仮名手本忠臣蔵』が果たした役割も無視できません。お互い補完しあって、人気を維持・発展させて来たというのが正解ではないでしょうか。
 『仮名手本忠臣蔵』が出来るまでの歴史を見てみましょう。
 1701(元禄14)年03月14日、赤穂の浅野内匠頭は、高家筆頭の吉良上野介に刃傷に及びました。
 1703(元禄15)年12月14日、大石内蔵助ら赤穂浪士47人は、吉良邸に討入り、主君の仇をとりました。
 1703(元禄16)年02月04日、大石内蔵助ら赤穂浪士は、お預け大名家で切腹しました。
 2月16日、赤穂事件がモデルの『曙曽我夜討』が、江戸中村座で公演されました。
 2月18日、幕府は、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
 1705(宝永2)年、近松門左衛門は、人形浄瑠璃の竹本座で、シナリオを手がけるようになりました。
 1734(享保19)年、この頃、花道が考案され、観客に密着した新しい演出が出来るようになりました。
 1748(寛延元)年、2世竹田出雲らは、大坂竹本座で、人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』を初演しました。
 1758(宝暦8)年、大坂の歌舞伎作者である並木正三は、初めて回り舞台を考案し、テンポの速い演出が出来るようになりました。
 1766(明和3)年、初世中村仲蔵は、『仮名手本忠臣蔵』で、新しい斧定九郎役を考案しました。
 次に『仮名手本忠臣蔵』の内容を見てみましょう。以下は冒頭の部分です(岩波『日本古典文学大系51』より)。
 地中「嘉肴といへども食せざれば其味をしらずとは。国治てよき武士の忠も武勇も隠るゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例を爰に仮名書の
 ワロシ「太平の代の政。
 地色中「比は歴応元年二月下旬。足利将軍尊氏公新田義貞を討亡し。京都御所を構へ徳風四方に普く。万民草のごとくにて
 フシ「靡。従ふ御威勢。
 地色中「国に羽をのす鶴が岡八幡宮御造宮成就し。御代参として御舎弟足利左兵衛督直義公。鎌倉に下着なりければ。在鎌倉の執事高武蔵守師直。御膝元に人を見下す権柄眼。御馳走の役人は。桃井播磨守が弟若狭之助安近。伯州の城主塩冶判官高定。
 次に『仮名手本忠臣蔵』全十一段のあらすじを紹介します。
(大序)鶴ケ岡
 暦応元年2月下旬、足利尊氏は、鎌倉に鶴岡八幡宮を造営し、自分の名代として弟の足利直義を派遣します。鎌倉では、執事の高師直、御馳走役の桃井若狭之助安近・塩冶判官高貞らが足利直義を迎えました。
 討ち取った新田義貞の兜を鶴が岡八幡宮に奉納しようとした時、高師直は「新田が清和源氏の子孫だというだけの理由で、着けていた兜を敬ったりするとは妙な話」だと反対しました。桃井若狭之助が「尊氏公の深いお考えに、止めた方がいいといういご意見は軽率ではありますまいか」と意見を言うと、師直は「師直に向かって軽率とは身のほどを知らぬ無礼。死体のそばに散らばっていた兜の数は47、どれがそれか見分けられぬ。若僧のくせに御下問もないのに意見など述べおって、なまいきな、ひっこんでおれ」と大声で叱責しました。不穏な空気を察した塩谷判官は「両方のあいだに立って直義公のお裁きをお願いいたします」と発言しました。
 直義は「塩谷の妻を呼べ」と命じました。直義は、塩冶判官の妻の顔世御前が義貞の女官であったので、義貞の兜の鑑定を命じたのです。顔世は、47の兜から蘭奢待のする兜を選び出しました。
 任を果たして退出しようとする顔世の袂に、師直は「直義公は縁結びの神のようなものじゃ」と言って、結び文をそっと放り込みました。顔世は、すげなく返せば恥をかかせることになり、夫の迷惑になると思い悩んだ末、その文を投げ返しました。さらに「塩谷家が生きるか死ぬか、すべては顔世殿の心で決まるのですぞ」と言い寄る師直の魂胆を見た桃井若狭之助は「お暇が出たのに長居しては、お上に失礼です」と機転を利かせて、顔世を追い返しました。
 懸想を気取られたと思った師直は「帰ってよければ私が帰す。この師直の一言で乞食になる安っぽい身分で、余計な出しゃばりをしおって」と腹立ち紛れに若狭之助をののしります。怒った若狭はあわや刀を抜こうとしますが、神前でもあり、直義公の帰還とあって、その場を我慢に我慢を重ねます。
(二段目)桃井館
 桃井桃井若狭之助の館で、下男たちが「鶴ヶ丘八幡宮の神前で、師直様が旦那に大恥をかかせた。今日も、無理を言って旦那をやりこめたのだろう」という噂話をしていました。これを桃井家の家老加古川本蔵が聞いています。
 そこへ、妻の戸無瀬と娘の小浪がやってきて、「殿様と師直殿が口論をなさったという噂話が奥方様の耳に入り、”本蔵が詳しく知っているのに自分には隠しているのか”とお聞きになりました」と問うので、本蔵はそれを打ち消しました。
 そこへ小浪と婚約中の大星力弥が塩谷判官の使者として桃井若狭之助の邸を訪れました。
 力弥が帰った後、本蔵は若狭之助の部屋を訪れます。主君の異様な顔色に接して、本蔵は「何もかも、お話下さい」と膝で前に進みます。その気に圧倒された若狭之助は「何であろうと聞き返さずに承知したと誓え」と迫ります。本蔵が誓うと、若狭之助は「鶴ヶ丘八幡宮で高師直から恥辱を受けた。明日は、主君の前で師直に赤恥をかかせ、武士の体面として、切り捨てるつもりだ」と悔し涙を流しながら、その覚悟を語りました。本蔵は、縁先の松の小枝をスパツと切り、「この通りに遊ばされ」と言って、その気に油を注ぎます。
 若狭之助が奥にはいるのを確認すると、本蔵は、師直館に馬を走らせました。
(三段目)足利館
 高師直の家来が「桃井若狭之助の家老である加古川本蔵がお目にかかりたいとお出でです」と伝えました。高家用人の鷺坂判内は「私が会って追い返しましょう」というと、師直は「鶴ヶ丘でも意趣返しに来たのであろう。やっつけてやる」と自分で対面することにしました。
 本蔵は、師直に莫大な金品を送り、「若くて未熟な若狭之助に対して、師直様がご指導下さって、感謝しています。これは桃井家一同からの差し上げ物です」と挨拶しました。若狭之助奥方から黄金30枚、家老加古川本蔵から黄金20枚、番頭から黄金10枚、家来一同から黄金10枚などと書いた目録を差し出しました。師直は「若狭之助殿は器用なたちで、教えるこちらがかないません」と手のひらを返したような態度でした。
 早野勘平をつれた塩谷判官高貞が遅れて、足利館にやって来ました。勘平は、お軽から、「奥様から頼まれたこの文箱を判官様に渡して下さい。そして判官様さまから師直様に直接お渡しするようお願いして下さい」と頼まれました。
 そのことを知らない若狭之助は殿中・松の廊下で待ち伏せして、師直を斬ろうとしていました。しかし、師直は、大小の刀を投げ出し、「お詫びしたい。お許しを下さい」と平謝りします。拍子抜けした若狭之助は刀を抜くことも出来ませんでした。これを見ていた加古川本蔵は、天に向かって拝み、地に向かって拝んでいました。
 ここでおさまらないのが師直です。やや遅れて参内した判官に、師直は「遅い、遅い」と厳しく叱責します。判官は、お軽が持ってきた妻顔世の文箱を渡しました。その文面には「さなきだに 重きが上の 小夜ごろも わがつまならぬ つまな重ねそ」とありました。顔世御前は師直をやんわりと断っていたのです。
 師直は顔にも出さず、「貴公の奥方は大した貞女である。これではお城に上がるのが遅くなるはずだ。お上のことはどうでもいいのだ。貴公のように、家の中にばかりいる者を、井戸の鮒だというのだ」と皮肉ります。たまりかねた判官はついに師直を斬りつけます。
 その時、次の間にいた本蔵が判官を抱き止めました。結局、判官は、師直を討ち果たすことができませんでした。
 判官の家来の早野勘平は、お軽とのデートの最中に大騒動を起こっていたことを知り、切腹しようとしましたが、お軽に止められ、ひとまず、お軽の実家に身を隠すことにしました。
(四段目)塩谷館
 塩谷判官高貞は、鎌倉扇ヶ谷の自宅に蟄居を命じられました。奥方の顔世と大星由良之助の嫡子力弥は、鎌倉山の八重九重と色々な桜を花籠に活けて、判官を慰めていました。
 そこへ、原郷右衛門と斧九太夫がやって来ました。郷右衛門が「花というものは開くものです。閉門もまもなくお許しがあるでしょう」と言うと、九太夫は「今度の殿様の不始末は、執事の高師直殿を傷つけ、お館を騒がせた罪ですぞ。軽くて流罪、重ければ切腹だ」と言い返す。
 まもなく、上使の石堂左馬之丞と副使の薬師寺次郎左衛門がやって来ました。塩谷判官を下座にして、2人は、「このたび塩谷判官高貞、自分ひとりの恨みで、執事の師直に切りつけ、館を騒がせた罪により、領知を没収し、切腹を申しつける」という上意を伝えました。
 判官は、小刀を押し頂いて、「力弥力弥、由良之助はどうした」と問うと、力弥は「未だ参上つかまつりません」と泣き声で答えます。
 判官は、あきらめて、小刀を逆手に持ちなおし、左の腹に突き立ててグッと引き回しました。その時、駆け込んできたのが家老の大星由良之助でした。判官は「この九寸五分の刀はそちへの形見である。わが恨みを晴らしてくれよ」と言って刀の先で気管を切り、血のついた小刀を前に投げ出し、ドッと前に倒れ、立派な切腹を果たしました(この原文は下記の史料をご覧下さい)。
 遺骸を菩提寺に送った後、由良之助は、今後のことを相談しました。千崎弥五郎は、「高師直が生きているのが、恨みです。足利家と戦って、城を枕に死のうではないか」と言います。斧九太夫の息子の定九郎は「足利家には、父九太夫が言うように、屋敷を明け渡すのが上策である」と反論し、その場は騒然とします。由良之助は「私は、おろかに切腹するよりも、足利からの討手を迎えうち、討ち死にすることが上策である」と意志を表明しました。これに反対の斧親子らはその場から退散しました。
 その後、心を許す同志の前で、由良之助は九寸五分の血刀を見せて、「この刀で師直の首をかき切って、殿のご無念を晴らしたい」と本心を打ち明けました。
史料
 地ウ「三方引寄九寸五分押戴。力弥。力弥。
 ハア「由良助は。いまだ参上仕りませぬ
 フウ「ヱヽ存生に対面せで残念。ハテ残り多やな。是非に及ばぬ是迄と。
 地色ウ「刀逆手に取直し。弓手に突立引廻す。上御台二目と見もやらず口に称名中目に涙。廊下の襖踏開き。かけ込大星由良助。主君の有様見るよりも。はつと計にどうとふす。跡に続て千崎矢間。其外の一家中
 フシ「ばらばらとかけ入たり。
 詞ヤレ「由良助待兼たはやい。
 ハア「御存生の御尊顏を拝し。身に取て何程か。ヲヽ我も満足。定めて子細聞たであろ。ヱヽ無念口惜いはやい。委細承知仕る。此期に及び。申上る詞もなし。只御最期の尋常を願はしう存まする。
 地色ウ「ヲヽいふにや及ぶと諸手をかけ。ぐっぐっと引廻し。くるしき息を色ほつとつき。
 詞「由良助。此九寸五分は汝へ筐(かたみ)。我欝憤を晴させよと。
 地ウ「切先にてふゑ刎切。血刀投出しうつぶせに。どうとまろび色息絶れば。御台を始並ゐる家中。眼を閉息を詰歯を喰しばり扣ゆれば。由良助にじり寄刀取上押戴。血に染る切先を打守り打守り。拳を握り。無念の涙はらはらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り。扨こそ末世に大星が。上忠臣義心の名を上し
 フシ中ノル「根ざしは。斯としられけり。
(五段目)山崎街道
 お軽の実家に身を寄せて猟師をしている勘平は、山崎街道で、火縄の火をもらうため、通りがかった旅人に声をかけました。旅人は、かつての同僚であった千崎弥五郎でした。
 討入りの噂を聞いていた勘平は、「皆様の御計画の連判状に加えていただき、武士の意地を立てさせて下さい」と過去の罪を悔やんで哀願しました。しかし、弥五郎は、この秘密を用意に打ち明けられず、「連判状などという噂は絶対にない。塩谷判官様の立派な石塔を作るために、今は、原郷右衛門様の使いで、金策に走り回っているのだ」と説得しました。
 勘平は、「御用金をみやげに、どうぞ郷右衛門様にお取次をお願いします」とさらに懇願します。
 お軽の父で百姓の与市兵衛は、聟の勘平を再び、侍として世に出してやりたいと思い、必要な金の工面のために、娘のお軽を祇園に身売りしました。与市兵衛は、身売りの半金五十両を懐中しての帰り道に、斧定九郎と出会います。定九郎は、与市兵衛を上から二尺八寸の刀で拝み打ちにし、唐竹割りに切り付けて殺害し、金を奪いました。その時に、傷を負った猪が定九郎目がけて駆けてきました。
 その時、勘平が猪と思って撃った鉄砲の弾が定九郎に当たり、定九郎は火薬で焼け死んでしまいました。駆け寄った勘平は、猪ならぬ旅人の死骸に触って驚きます。抱き起こすと、その手に触ったのがずしりと重い財布でした。天の恵みと押し頂き、猪より早く、逃げていきました。
10 (六段目)与市兵衛内
 夫の勘平を待っているお軽の家に、祇園の一文字屋の亭主が駕籠でやって来ました。一文字屋の亭主は、「与市兵衛さんが、今夜中に百両が要るというので、とにかく半金の五十両を渡し、残りは奉公人の娘さんを預かった上で渡すと約束した。未だ、お帰りでない?」と言う。さらに、「ここに五十両の証文がある。残りの五十両を渡すから、私の店の者だ」といって、お軽を駕籠に押し込んで、連れて行こうとしていました。
 一夜明けて与市兵衛の家へ戻ってきた勘平は、その子細を糾すと、一文字屋はに「聟殿のために、舅殿は娘を祇園に預け、半金の五十両を受け取り、今日残りの五十両を渡したので、祇園に連れて行くところだ」と説明します。それを聞いた勘平は、「親父殿が半金の五十両を持って帰らないと、信じられない」と反論します。一文字屋は「私が着ている単物の縞のきれで作った財布をお貸ししたので、まもなく首に掛けて帰られように」と証言しました。
 この時、勘平は、自分が鉄砲で撃ち殺したのが与市兵衛だっとことを理解しました。動転して内に、お軽は祇園に売られて行きました。
 間もなく、近所の漁師が与市兵衛の死骸を戸板に乗せて運んできました。漁師が帰った後、お軽の母親は「いくらお前が武士だったとしても、舅の死んだのを見たら、もっと驚いてもよさそうなものを。舅殿と会ったとき、何と言われた。どうだ、答えは出来ないだろう、返事の出来ぬ証拠はここにある」と言って、勘平の懐中に手を入れ、縞の財布を引きずり出しました。
 自分のあやまちを悔いて勘平は、熱湯のような汗を流し、畳にはいつくばり、天罰を恐ろしさを身にしみて感じていました。
 そこへ、原郷右衛門と千崎弥五郎がやって来ました。勘平が一部始終を話し終えると、両肌をぬいて脇差で腹をえぐってしまいました。弥五郎は、与市兵衛の死骸を調べ、「鉄砲で撃った傷に似ているが、これは刀でえぐった傷でござる。勘平殿、早まってござる」と言いました。郷右衛門も「ここに来る途中、鉄砲で撃たれた斧定九郎の死骸があった。親父殿を殺したのは定九郎で、親の仇の定九郎を討ち果たしたのは、勘平殿だ」と断言しました。さらに、死ぬ直前の勘平に46人目の署名・血判をさせ、義士の仲間に入れました。
11 (七段目)祇園一力
 大星由良之助は、敵の目、世間の目をくらますために、祇園の一力茶屋で、放蕩三昧の毎日を過ごしていました。この一力茶屋には早野勘平の女房お軽が身を預けていました。そこへ高師直方の間者となっている九太夫は、由良助の本心を探ろうと、師直家の用人鷺坂判内を伴って、一力茶屋にやって来ます。2人は由良之助の放蕩振りを見て、あきれ返ります。
 そこへ千崎弥五郎・矢間十太郎・竹森喜多八らが、お軽の兄で足軽の寺岡平右衛門を伴って、一力茶屋にやって来ます。酔った由良之助が遊女を追っかけて「つかまえて酒を飲まそ」と言って、部屋から出てきて、十太郎を捕まえます。十太郎は「由良之助殿、私は矢間十太郎でごある。何をなさいます」と怒気を含んで、意見しました。平右衛門も仇討を願い出ますが、由良之助は眠ってしまします。あきらめて千崎弥五郎らは、別な部屋に去って行きます。
 そこへ大星力弥がやって来て、塩谷判官の奥方である顔世からの手紙を届けました。力弥を帰らせた後、由良之助が顔世からの手紙を読もうとしていると、斧九太夫がやって来ます。九太夫が「明日は主人塩谷判官のご命日、ことにその前夜は逮夜といって大切というのに、由良之助殿はなまものの蛸を口にいれるか」と訊くと、由良之助は「殿様には恨みはあっても、なまぐさを避けて精進する気持は、ころぽっちもありません」と言って、蛸を食べてしまいました。姿を消した由良之助の刀は「赤いわしのように錆びて」いたので、九太夫と判内は、由良之助に敵討の底意はなく、本心からの放蕩に違いないと安心するのでした。
 他方、一人になった由良之助は釣灯籠の灯りで、顔世からの長い手紙を開きました。二階のお軽は、だれからの恋文か気になって、鏡を使って読み取ろうとしています。縁の下からは九太夫が垂れ下がった手紙を月光にすかして盗み見しています。お軽が落とした簪の音で、由良之助は、お軽がこの手紙を盗み見していることに気がつきます。
 二階から降りてきたお軽に、由良之助は身請けの話をします。由良之助が姿を消すと、お軽の兄の寺岡平右衛門がやって来ます。お軽から手紙の内容と身請けの話を聞いた平右衛門は、由良之助の真意を悟ります。そして、平右衛門「とてもお前は助からぬ命だ」と刀を抜いて切りつけます。お軽も、父与市兵衛や愛する夫勘平が死んだことを知らされて、「私の首でも死骸でも、役に立つなら立ててください」といいながら、刀を取り上げます。
 それを見ていた由良之助は「疑いは晴れた。兄は東への供に加われ。妹は生き延びて親や夫の供養をせよ」といいます。そして、お軽の刀の手に、由良之助は自分の手を持ち添え、「夫の勘平は連判には加えたが、敵の一人も討ち取らないで、あの世で殿様に申しわけがあるまい」と、刀をぐっと畳のすき間に突っ込むと、その下にいた九太夫の肩先に突き刺さりました。
12 (八段目)道行
 刃傷事件で、桃井若狭助の家老加古川本蔵が抱きとめたので、塩谷判官が本懐を遂げることなく、無念を飲んで自害しました。その結果、本蔵の娘小浪と判官の家老大星由良之助の悴力弥との結婚話が立ち消えになっていました。
 力弥を慕う小浪の気持を理解した母戸無瀬は、力弥のいる京都山科へ旅立ちます。これを道行の場といいます。
 以下は、八段目(原文)の冒頭の部分と最後の部分です。
 「浮世とは。たがいひそめて。飛鳥川。ふちも知行も瀬とかはり。よるべも浪の下人に。結ぶ塩冶の誤りは。恋のかせ杭加古川の。娘小浪が言号(いひなづけ)結納も。とらず其儘にふり捨られし物思ひ。母の思ひは山科の聟の力弥をちからにて住家へ押て嫁入も。世に有なしの義理遠慮こしもとつれず乗物も。やめて親子の二人連…伊勢と吾妻の別れ道。駅路の鈴の鈴鹿こへ。間の土山。雨がふる水口の葉に。言ひはやす。石部石場で大石や。小石ひらふて我夫と撫つ。さすりつ手にすへて。やがて大津や三井寺の。上梺を越て山科へ程なき。里へ。いそぎ行く」 
13 (九段目)山科閑居
 大星由良之助は、祇園で雪見酒をして、幇間や仲居に送られての朝帰りです。家老の人品を失っての雪だるま作りです。由良之助は、力弥に雪だるまの説明をします。「47人は日陰者、雪は日陰に置けば溶けぬ。急ぐことはないということじあ」と。
 そこへ加古川本蔵の妻戸無瀬と娘小浪がやって来ます。戸無瀬は「今日は、力弥様と娘小浪の祝言をあげたいのです」と申し入れます。びっくりした由良之助の妻お石は、夫の本心を押し隠すために、「今の私どもは浪人、約束したからといって、結納を取り交わした訳でもない。大身の娘御をお迎えするのは、提灯に釣鐘、釣り合わぬは不縁のもとと申します」と戸無瀬の申し入れを冷たく拒絶します。
 絶望した母娘は自害を決心します。これを見たお石は、自害を思いとどまらせようと、「させにくい婚礼をさせます。引き出物に加古川本蔵殿のお首を頂きたい」と提案します。
 そこへ虚無僧姿の加古川本蔵が現れ、「扶持を離れた浪人、こっちから聟はことわる、なまいきな女」とお石を罵ります。お石は、「浪人の錆び刀で切れるか、切れないか、切れ味を見せましょう」と言って鎗を取って、本蔵に突きかかります。本蔵は、お石の腰の帯をつかんで、膝にお石をふみ敷きます。そこへ駆けつけて来た力弥は、落ちていた鎗を拾い、本蔵の肋骨を貫き通します。
 由良之助がやって来て、「力弥、早まるでない」と押しとどめ、「本蔵殿、あらかじめ計った通り、望みを達し、聟の力弥の手にかかって、さぞ満足であろう」と語りかけました。本蔵は、「忠義のために身を捨てるべきを、子供のために捨てる親心をお察しあれ」と手を合わせて拝んでいます。本蔵は、「婚礼の引き出物である」と言って、師直邸の絵図面を渡して、命を引き取りました。
14 (十段目)天河屋
 堺の豪商天川屋義平は、大星由良之助に頼まれて、討入り道具を調達していました。そこへ、原郷右衛門と大星力弥がやって来ました。力弥が「明日早々出発の予定です。父由良之助が”今晩が最後の出荷か、お聞きしてこい”と申しておりました」と尋ねると、義平は「合計七棹を今夜の船便で送ります」と答えました。
 さらに力弥が「家に荷物をためこんだりすることについて、店の人にわからぬようどうされましたか」と尋ねると、義平は「女房は実家に帰し、使用人は難くせをつけては次々に暇を出し、後に残ったのは小僧と四歳の悴だけです」と答えました。
 その夜、義平の屋敷に捕手が来て、「大星由良之助から頼まれて、武器や馬具を調達し、大きな船で鎌倉に運んでいるということである。捕らえて拷問して白状させよとの命令である」と伝えました。義平が「そんな覚えはありません」とシラを切ると、捕手は、さっき船に積み込んだばかりのゴザで包んだ長持を証拠として持って来ました。捕手が長持を開けようとしたので、義平は気を失いそうになりましたが、長持の上にどっかと座り、「ある奥方からの御注文の品、好色本から淫具まで入っている。これを開けさせては、さるお家の名を汚す」と見得を切ります。
 そこで、捕手は、計画通り義平の子由松を連れてきて、刀を喉に突きつけて、「長持の中はともかく、お前は、師直を討とうとする秘密の計画を知っているだろう。正直に言わないと、悴の命はないぞ」と卑怯な脅しを掛けます。しかし義平はびくともせず、「天河屋の義平は男でござる。子供のために心が弱り、知らぬことを知っているとは申し上げられぬ。私の目の前で、さア殺せ殺せ」ときっぱり言い放ちます。そして、義平は、子供の由松を奪い返すと、今にもわが子をしめ殺そうという形相になりました。
 「これ、過ちをされてはいけない」と言って長持ちから出てきたのは、大星由良之助でした。由良之助は、義平に向かって土下座をして謝ります。そして、「多くの仲間の中には、義平は町人、拷問されたり、可愛い子供を守る親心から、大事を漏らしたりはしないかと心配なものがいる。義平殿の固い決心の証拠を見せて、仲間に安心をさせようと、してはならないことをしてしまいました。心からお詫びします。”花は桜木、人は武士”というが、どうしてどうして武士もかなわぬ義平殿のお考え。町人の中にも立派な人がいるもの」と何度も頭を下げて謝り続けました。仲間も、畳に頭をすりつけて謝りました。
 義平が「昔から人には添うてみよ、馬には乗ってみよ、と申します。私を知らない方々が、ご心配なさるのも無理はありません。私は町人です。殿様の御恩を刀でお返しすることが出来ません。後日、あの世でご奉公なさる時、おついでにこの義平の志を殿様にお話頂くだけで本望です」としみじみと語ると、一同の者は、涙を流しました。
 由良之助は、「討ち入った時の合言葉に、天河屋の”天”と”河”を使わせてもらいます。これであなたも参加したことになるでしょう」と感謝の気持を述べて、討入りの旅に出たのでありました。
15 (十一段目)討入
 塩谷判官高定の家来大星由良之助らは、「柔よく剛を制し、弱よく強を制する」というおきてを守り、鎌倉の稲村ヶ崎の守りの薄い場所にそっと近づくと、岸の岩に漕ぎ寄せて上陸しました。
 他方、高師直は、由良之助の放蕩三昧という情報に気を許し、酒宴の最中でした。大星らは、表門と裏門の二手に分かれて、師直邸に乱入します。
 やがて炭部屋に隠れていた師直を見つけ出します。由良之助は、作法どおり、師直を上座に座らせ、「主人の仇を討ちたいために参上しました。立派にお首を頂戴したい」というと、師直は「覚悟は前からしてしておったわい。サア首取れ」と言うなり、刀を抜いて切りかかってきました。サッとかわした由良之助が初太刀で切りつけ、塩谷判官の形見の九寸五分で師直の首を落としました。
 由良之助は、懐中から亡君の位牌を取り出し、師直の首の血を拭き清めて、兜に入れていた香を焚き、下がって何度も礼拝し、泣きながら挨拶をしました。一番鎗の矢間十太郎が焼香をします。二番目は由良之助の番ですが、由良之助は「ほかに焼香させる者がいる」として、縞の財布を取り出して、「早野勘平でござる」と指名しました。寺岡平右衛門は勘平の妻お軽の兄です。平右衛門は、縞の財布を香炉の上にのせ、焼香の大役を果たしました。
 やがて、駆けつけた桃井若狭之助の勧めに従って、一同は、塩谷判官の菩提所である光明寺に引き揚げました。
 この項は、『日本古典文学大系51-浄瑠璃集上-』(岩波書店)・戸板康二『仮名手本忠臣蔵』(世界文化社)・『仮名手本忠臣蔵』(東北大学サイト版)などを参考にしました。お礼申し上げます。
『仮名手本忠臣蔵』と思い出
 『仮名手本忠臣蔵』の命名については、色々な人が指摘しています。
 「仮名手本」は、江戸時代、寺子屋の教科書として使われていました。「いろは47文字」も47と、赤穂浪士47人の47を掛けています。
 「手本忠臣」とは、忠臣の手本(見本とか鑑)という意味を含ませています。
 「忠臣蔵」とは、忠臣が詰まっている蔵という意味です。
 つまり、忠臣の見本が47も詰まっている蔵(話)という意味です。
 時代設定や登場人物を室町時代にしていますが、架空の人物は、赤穂事件に登場する実在の人物を特定出来るよう工夫しています。庶民の権力へのささやかな抵抗の跡が感じ取れます。
(1)大星由良之助は、大と助から大石内蔵助であることが分ります。
(2)塩冶判官高貞は、塩から浅野内匠頭であることが分ります。
(3)高武蔵守師直は、高から高家の吉良上野介であることが分ります。
(4)足利直義は、ずばり実名です。
(5)大星力弥は、大石内蔵助の子大石主税です。
(6)斧九太夫は、斧(おの)から大野九郎兵衛であることが分ります。
(7)早野勘平は、野と平から萱野三平であることが分ります。勘平から横川勘平を連想する人もいますが、これは間違いです。
(8)おかるは、大石内蔵助の側女かるをヒントにしていますが、ここでは早野勘平の妻となっています。
(9)寺岡平右衛門は、寺と右衛門から寺坂吉右衛門であることが分ります。
(10)天河屋義平は、天と屋と平から天野屋利兵衛であることが分ります。
(11)原郷右衛門は、原と右衛門から原惣右衛門であることが分ります。
(12)千崎弥五郎は、崎と五郎から神崎与五郎であることが分ります。
 史実と虚構とが混同しているため、赤穂事件を知らない人は、それを事実と思い込んでいる人もいます。
 以下の史料は、(十段目)天河屋の一場面です。小さい時に覚えた「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフがここから出ていたのですね。それ以外にも、「花は桜木。人は武士」とか、「人ある中に人はなし」、「人には添って見よ、馬には乗って見よ」という口ずさんだ言葉がここにあったんですね。びっくりしました。
 江戸時代、もっとも、町人から拍手喝采を得たのが、十段目といいます。「天野屋利兵衛は男でござる」のワンシーン以外は、今はほとんど取り上げられることがありません。その差はどこにあるのでしょうか。
 身分社会にあって、「町人といえども、義理人情では、武士と同じで、男である」という溜飲の下がる言葉を言いたかったということが理解できます。
 平河屋義平の真意を知るために、大星由良之助らは卑劣な手段を使います。最後に、義平の義侠心が確認できると、由良之助や他の同志は、土下座して謝ります。町人に対して、武士に土下座させるという優越的な演出をしています。
 町人であっても、「天」と「河」を討入りの時の合言葉とすることで、武士として討入りに参加させるという、感情移入型の手法を使っています。
 現在、十段目の全編は、通し狂言以外、ほとんど上演されません。人の真意を試すためとはいえ、騙しの方法は、現在の社会では肯定されません。土下座したり、共に泣いたり、最後には和解するのですが、私も最初この十段目を読んだ時、非常に違和感を覚えたことを、今も鮮明に覚えています
史料
 月の曇にかげ隠す隣家も寐入亥の刻過。此家をめがけて捕手の人敷十手早縄腰挑灯。灯かげを隠して窺ひ窺ひ犬とおぼしき家来を招。耳打すれば指心得門の戸せはしく打たゝく。誰じや。誰じやも及びごし。宵にきた大舟の舩頭でござる。舟賃の算用が違ふた。ちよつと明て下され。仰山な。纔な事であろあす来たあす来た。今夜うける舟。仕切て貰はにや出されませぬと。いふも声高近所の聞へと。義平は立出何心なく門の戸を。明ると其儘捕た捕た。動くな上意と追取巻。何故と四方八方。眼を配れば捕手の両人。何故とは横道者。儕(おのれ)塩冶判官が家来大星由良助に頼れ。武具馬具を買調へ大廻しにて鎌倉へ遣はす条。急召捕拷問せよとの御上意。遁れね所じや腕廻せ。是は思ひも寄ぬお咎。左様の覚聊なし。定て夫は人違へといはせも立ず。ぬかすまい。争はれぬ証拠有。家来共。はつと心得持来るは。宵に積たる茣蓙荷(ござに)の長持。見るより義平は心も空。動かすなと四方の十手。其間に荷物を切解き。長持明んとする所を。飛かゝつて下部を蹴退。蓋の上にどつかとすはり。麁忽(そこつ)千万。此長持の内に入置たは。去大名の奥方より。お誂へのお手道具。お具足櫃の笑ひ本。笑 ひ道具の注文迄其名を記置たれば。明さしては歴々のお家のお名の出る事。御覧有てはいづれものお身の上にもかゝりませうぞ。弥(いよいよ)胡乱者。
中々大抵では白状致すまい。ソレ申合せた通。合点でござると一間へかけ入。一子よし松を引立出。サア義平。長持の内はとも有。塩冶浪人一流に堅まり。師直を討密事の段々。儕(おのれ)能しつつらん。有やうにいへばよし。いはぬと忽世悴が身の上。是を見よと抜刀。稚き咽に指付られ。はつとは思へども色も変ぜず。女童を責る様に。人質取ての御詮義。天河屋の義平は男でござるぞ。子に羈{ほださ}れ存ぜぬ事を。存たとは得申さぬ。嘗て何にも存ぜぬ。しらぬ。知ぬといふから金輪ならく。憎しと思はゞ其悴。我見る所で殺した殺した。胴性骨の太いやつ。管鑓鉄炮鎖帷子。四十六本の印調へやつたる儕が。知ぬといふていはしておこふか。白状せぬと一寸様。一分刻に刻むが何と。ヲヽ、面白い刻れう。武具は勿論。公家武家の冠鳥帽子。下女小者が藁沓迄。買調へて売が商人。それふしぎ迚御詮義あらば。日本に人種は有まい。一寸だめしも三寸縄も。商売故に取るゝ命。惜いと思はぬサア殺せ。悴も目の前突ケ突ケ突ケ。一寸試は腕から切か胸から裂か。肩骨背骨も望次第と。指付突付我子をもぎ取。子に羈れぬ性根を見よと。しめ殺すべき色其吃相 。聊尓(れうじ)せまい義平殿。暫し暫しと長持より。大星由良助よし金。立出る体見て恟(びつく)り。捕手の人〃一時に。十手捕縄打捨て遥さがつて座をしむる。異義を正して由良助義平に向ひ手をつかへ。扨々驚入たる御心底。泥中の蓮。砂の中の金とは貴公の中御事。さもあらんさもそふづと。見込で頼んだ一大事。此由良助は微塵聊。お疑ひ色申さね共。馴染近付でなき此人〃。四十人余の中にも。天河屋の義平は生れながらの町人。今にも捕られ詮義にあはゞ。いかゞあらん。何かといはん。殊に寵愛の一子も有ば。子に迷ふは親心と評議区々。案じに胸も休まらず。所詮一心の定めし所を見せ。古傍輩の者共へ安堵させん為。せまじき事とは存ながら右の仕合。麁忽の段はまっぴらまっぴら。花は桜木。人は武士と申せ共いつかないつかな武士も及ばぬ御所存。百万騎の強敵は防共。左程に性根はすはらぬ物。貴公の一心をかり受我々が手本とし。敵師直を討ならば誓。巌石の中に篭り。鉄洞の内に隠るゝ共やはか仕損じ申べき。人有中にも人なしと申せ共。町家の中にも有ば有 物。一味徒党の者共の為には。生土共。氏神共尊奉らずんば。上御恩の冥加に尽果ませう。静謐の代には賢者も顕はれず。ヱヽ惜いかな。悔しいかな。亡君御存生の折ならば。一方の籏大将。一国の政道。お預け申た迚惜からぬ中御器量。是に並ぶ大鷲文吾矢間重太郎を始め。小寺高松堀尾板倉片山等潰し眼を開かする。妙薬名医の心魂。有がたし有がたしとすさつて三拝人々も。不骨の段真平と畳に。頭を中摺付る。ヤレ夫は御迷惑お手上られて下さりませ。惣体人と馬には。乗て見よ添て見よと申せば。お馴染ない御旁は気づかひに思召も尤。私元は軽い者。お国の御用承はつてより。経上つた此身代。判官様の様子承はつて倶に無念。何卒此恥辱雪やうはないかと。りきんで見ても泰亀のじだんだ。及ばぬ事と存た所へ。由良助様のお頼。こそ心得たと向ふ見ず。倶にお力付る計。情ないは町人の身の上。手一合でも御扶持を戴ましたらば。此度の思し立。袖つまに取付て成共お供申。いづれも様へ息つぎの。茶水でも汲ませう中に。夫も叶はぬは。よくよく町人はあさましい物。是を思へばお主の御恩。刀の威光は有かたい物 。それ故にこそお命捨らるゝ。御羨しう存まする。猶も冥途で御奉公。お序に義平めが。志もお執成とあつきに人〃も。上思はず涙キン催して奧歯。噛割計也。
 江戸落語に「淀五郎」というのがあります。三遊亭円生師匠が有名ですが、私が持っている飯島友治編『古典落語』(筑摩書房、第一期・第二期全十巻)の「淀五郎」の演者は林屋正蔵師匠です。
 四代目の市川団蔵は、目黒に住んでいたので目黒団蔵、意地が悪かったので意地悪団蔵、皮肉屋だったので皮肉団蔵、他方、いい役者だったので渋団蔵とも呼ばれていました。団蔵は、市村座の座頭で、家号を三河屋といいます。
淀五郎(上)
 「仮名手本忠臣蔵」を上演することになり、市川団蔵が大星由良之助と高師直の二役演じることになり、塩冶(谷)判官は、当時、塩冶判官をさせたら天下に並ぶ者がないと言われていた紀の国屋沢村宗十郎が決まりました。その宗十郎が急病で倒れました。つき替え(別な演題に代える)という案もありましたが、市川団蔵は、「紀の国屋の弟子の淀五郎にさせねえ」という鶴のひと声で、若手の沢村屋淀五郎が塩冶判官という大役を引き受けることになりました。
 初日の幕が上がりました。三段目の松の廊下の刃傷の場が無事終了しました。四段目の判官切腹の場は、出物留めといわれ、茶屋では誂たものを一切客席に運ばない気を入れて見る場面でした。
 判官「力弥、力弥、由良之助は…」
 力弥「未だ参上…つかまつりませぬ」
 判官「存生に対面せで…無念な…と伝えよ」
 判官は、九寸五分を取り上げて、腹をさすってがばと刺(つ)っこむと…ツツンツンツンツンツンばたばたばたン
 由良之助が…見ると上使が二人おいでになって、自分の粗忽を恥いって、花道の七三(花道の出入口から舞台に進んで7割の位置)へぺたぺたと平伏してしまう。
 石堂右馬之丞「来しうない、近う近う」
 由良之助「御前ッ!…」
 判官「おお、由良之助かア…待ちかね…たア…」
 由良之助「未だ御存生の体を拝し…」
 判官「定めて様子は聞いたであろう」
 由良之助「委細承知つかまってござる」
 そして、判官が咽喉をかき切ってがばと前へのめると、幕が降りるのです。
淀五郎(下)
 しかし、団蔵が演じる由良之助は、ばたばたと出てきたが、花道で平伏したまま、石堂から「苦しうない、近う近う」と言われても、判官の傍らに来ない。
 団蔵の由良之助「やっぱりむりだったな…。ならずの(なってない)判官だね。あゝ嫌だ嫌だ」
 淀五郎の判官「おお、由良之助か、待ちかねた、定めて様子は聞いたであろう」
 団蔵の由良之助「委細承知つかまってござる」
 と言うが、やはり動こうとしません。仕方がないので、淀五郎の判官が咽喉をかき切って、がばと前へのめると、幕が降りました。
 舞台が終わり、淀五郎は団蔵の所に挨拶に行きます。団蔵が「あの判官は…ひどい判官だね。あれじゃ行かれないよ、腹の切り方がなんだい!エえ?…」と皮肉ると、淀五郎は、「どういうふうに切りましたらよろしいで…」と答えました。団蔵は「そうだなア、腹はねえ、本当に切ってもらおうかね。下手な役者ア死んでもらった方が、相手にまわる役者ア助かるよ」と冷たく突き放しました。
 二日目、淀五郎は工夫して望みますが、やはり、団蔵は花道の途中で座ったまま、傍らにやってきませんでした。
 そこで、淀五郎は、「俺も男だからなあ。本当に俺…腹ア切って見せてやれ。その代わり、あの、皮肉は三河屋も、生かしちゃおかねえから…」と覚悟を決めました。淀五郎は、暇乞いに、舞鶴屋(三代目中村仲蔵)のところを訪れます。 事情を察した中村仲蔵は、淀五郎の芝居稽古を見て、「淀五郎も名題になって判官の大役だ。”うまくなった、うまいなあ”とお客様に言わせようと思うから、台詞が…ほら、強いよ、な。寒い時になんか言うように、身を内ィひいて『由良之助かア…』と、こういかなくちゃいけないよ」と助言をしました。
 その晩うれしさでろくろく眠れない。翌朝、一番で楽屋に入りししました。
 石堂がいつものように「来しうない、近う近う」と言うと、
 団蔵の由良之助は、「富士の山は…一晩で出来たてえが、こいつも、一夜のうちに作り上げやアがった…大した判官だ…」と独白し、ツゥツゥツゥツゥ…傍らへ来て「御前ツ」と言う。
 淀五郎の判官は、「おお、由良之助かア…」と花道を見るが、団蔵の由良之助がいない。「おや?…今日は花道にも出ずかな?…それにしても声がしたようだ」と独白し、見回すと、三日目でやっと、傍らに来ていたので、
 淀五郎の判官は、「おお、待ちかねたア…」
 こら、本当に待ちかねました(が落ちでした)
 2003年1月、TV東京系列(関西ではテレビ大阪)で放映された『忠臣蔵〜決断の時』は、とても話題になったようです。
 私の住んでいる相生市では、テレビ大阪は見ることが出来ません。そこで、『忠臣蔵〜決断の時』を借りて見ました。
 大石内蔵助には、私がよく見た『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵を演じた中村吉右衛門さんが扮していました。妻りくを黒木瞳さんが演じ、異色な感じを覚えたものです。
 話題になったと言えば、姫路出身の人気アイドルである松浦亜弥が小浪役を演じたことです。私の知っている若い層も彼女に惹かれて見たといいます。しかし、小浪と母の戸無瀬に違和感を感じたと言います。
 それもそのはずです。このTV映画の原作は『仮名手本忠臣蔵』だったからです。
 今まで見てきたように、『仮名手本忠臣蔵』は、赤穂事件を下書きにしています。しかし、当時の幕府の制約もあり、赤穂事件の全貌が明らかでないということもあり、脚色が色濃い作品になっています。
 『仮名手本忠臣蔵』があったから、赤穂事件(広義の忠臣蔵)の人気が広まったという説は、無理があります。
 赤穂事件の人気が演劇などの分野に影響し、その影響がさらに赤穂事件の人気を高め、不動にしたと理解するのが自然だと思います。皆さんは、如何でしょうか?。

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