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エピソード

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立憲政友会の成立T(松隈内閣、憲政党、隈板内閣、共和演説事件)
 1892(明治25)年8月、@5第二次伊藤博文内閣が成立しました。
 1894(明治27)年3月、*3衆議院議員総選挙が行われました。投票率は88.76%でした。民党は自由党119人・改進党48人合計167人で過半数を上回りました。吏党は立憲革新党37人・国民協会26人・無所属70人合計133人でした。
 5月、同志倶楽部と同盟倶楽部は合同して、立憲革新党を結成しました。
 9月、*4衆議院議員総選挙が行われました。投票率は84.84%でした。自由党105人、改進党45人、立憲革新党40人、国民協会30人、無所属80人でした。
 10月18日、第七臨時議会が広島で開かれました。これが第七議会です。会期は4日間でした。
 10月24日、衆議院は、日清戦争という外圧に対し、満場一致で、臨時軍事費特別会計法(明治27年6月1日にさかのぼり、戦争終結までを)を可決し、公布しました。
 10月24日、臨時軍事費特別会計法に基づく第一次予算1億5000万円を公布しました、
 12月、第八通常議会が開かれました。これを第八議会といいます。会期は90日間でした。衆議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 1895(明治28)年3月、臨時軍事費予算1億円を追加公布しました。合計2億5000万円でした。
 4月17日、日清講和条約が調印されました。
 4月23日、日清講和条約について、三国が干渉しました。これを三国干渉といいます。
 11月、伊藤博文は、大隈重信板垣退助に対して、「薩長の党派は最早実利なし」と断言し、政党に接近しました。
 12月、第九通常国会が開かれました。これを第九議会といいます。会期は92日間でした。衆議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 1896(明治29)年3月1日、立憲改進党立憲革新党中国進歩党など99議員が合同し、進歩党を結成しました。党首に大隈重信が就任しました。
 3月14日、明治29年度歳計予算を公布しました(歳入1億3789万円、歳出1億5218万円。いわゆる戦後経営の第1年度予算)。
 3月24日、大型鉄鋼汽船に対し奨励金を交付する航海奨励法造船奨励法が公布されました。
 4月14日、第二次伊藤博文内閣に、自由党総裁の板垣退助が内相として入閣しました。これを藩閥と政党の妥協といいます。
 4月20日、日本勧業銀行法農工銀行法農工銀行補助法が各々公布されました。
 8月16日、伊藤博文首相は、内閣強化のため松方正義・大隈重信の入閣につき、閣僚らと協議しました。板垣退助内相は、大隈重信の入閣に反対し、松方正義は単独入閣を拒否しました。
 8月23日、伊藤博文首相は、辞表を提出しました。
 8月30日、榎本武揚農商務相を除く全閣僚も辞表を提出しました。
 8月31日、枢密院議長黒田清隆に首相臨時兼任を命じ、伊藤博文首相・板垣退助内相・渡辺国武蔵相を除く閣僚の辞表を却下しました。
 9月18日、松方正義を首相兼蔵相に任命しました。これを@6第二次松方正義内閣といいます。
 9月22日、松方正義首相は、進歩党党首の大隈重信を外相に任命しました。これを松隈内閣といいます。
 11月、進歩党大会で、松方正義内閣との提携を決議しました。
 12月、第十通常国会が開かれました。これを第十議会といいます。会期は90日間でした。衆衆議院議長は進歩党の鳩山和夫が就任し、副議長は留任しました。貴族院議長は近衛篤麿が就任し、副議長は留任しました。
 1897(明治30)年3月24日、新聞紙条例改正案を公布しました。その内容は、@新聞の発行停止・禁止・発売禁止の行政処分の緩和A皇室の尊厳に関する取締などです。
 3月27日、明治30年度歳計予算を公布しました(歳入2億4059万円、歳出2億4050万円。いわゆる戦後経営の第2年度予算)。
 3月29日、純金の量目2分を1円とする貨幣法を公布しました。この結果、金本位制が成立しました。
 9月16日、板垣退助は、伊藤博文に書簡を送り、松方正義内閣の失政を攻撃し、伊藤博文に政弊改革に乗り出すよう求めました。
 10月19日、大隈重信外相は、松方正義首相に伊藤博文を入閣させるよう勧告しました。
 10月22日、進歩党議員会は、松方正義内閣に対して、内閣改造・経費節減・台湾統治方針変更などを要求することを決議しました。
 10月29日、松方正義首相は、進歩党議員会の要求を拒絶しました。
 10月31日、進歩党議員会は、松方正義内閣との提携断絶を決議しました。
 11月2日、外務省参事官の尾崎行雄・農商務省山林局長の志賀重昂らは、懲戒免官となりました。その理由は、政府と絶縁を決議した改進党会議に出席していたということです。
 11月5日、農商務次官大石正巳・外務省通商局長高田早苗、続いて大隈重信外相兼農商務相も辞職しました。
 11月18日、自由党議員会は、樺山資紀内相・高島鞆之介陸相・松田正久らと通ずる松方正義内閣との提携工作を否決しました。
 12月15日、自由党大会は、松方正義内閣の不信任案を提出することを決議しました。
 12月18日、進歩党大会は、松方正義内閣との絶縁・内閣の更迭要求を決議しました。
 12月20日、国民協会大会は、松方正義内閣に反対することを決議しました。
 12月24日、第11通常国会が開かれました。これを第11議会といいます。会期は2日間でした。衆議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 12月25日、衆議院は、内閣不信任決議案を上程しました。松方正義は、解散を命じました。
 12月27日、松方正義首相は、西郷従道と共に辞表を提出しました。続いて他の閣僚も辞表を提出しました。
 12月30日、伊藤博文に組閣命令が下りました。伊藤博文は、大隈重信・板垣退助に入閣を要請しました。しかし、進歩党・自由党の猟官要求が過大だったので、交渉を打ち切りました。
 1898(明治31)年1月10日、伊藤博文は、元老・御前会議で政治情勢に関する意見を述べ、賛同を得ました。
 1月12日、伊藤博文が総理大臣に就任しました。これを@7第三次伊藤博文内閣といいます。
 2月6日、伊藤博文首相は、板垣退助・林有造片岡健吉・松田正久ら自由党領袖と会談して、提携を進めました。
 3月15日、*5衆議院議員総選挙が行われました。投票率は87.50%でした。自由党98人、進歩党91人、山下倶楽部48人、国民協会26人、無所属37人です。
 4月13日、閣議は、自由党の要求する板垣退助の入閣を討議しました。井上馨蔵相の反対で、板垣退助の入閣は取り止めとなりました。
 4月14日、板垣退助の入閣に賛成の伊東巳代治農商務相は、辞表を提出しました。
 5月5日、自由党大会は、伊藤博文内閣に反対と決議しました。
 5月10日、閣議は、井上馨蔵相の財政方針を了承しました。その内容は、次の通りです。
(1)歳入不足のため地租・酒税を中心に3000万円を増税する。
(2)外債募集のための調査を開始する。
 5月19日、第12特別議会が開かれました。これを第12議会といいます。会期は21日間でした。衆議院議長は自由党(後に憲政党、政友会)の片岡健吉が就任し、、副議長は元田肇が就任した。貴族院は正・副議長が留任しました。
 6月7日、自由党と進歩党の交渉委員会は、会合を開き、両党合同の方針を固めました。
 6月7日、衆議院は、地租増徴案を委員会で否決しました。
 6月10日、自由党と進歩党は、提携して地租増徴案を否決しました。伊藤博文は、衆議院を解散しました。
 6月22日、自由党と進歩党は、合同して憲政党を結成しました。
 6月24日、伊藤博文首相は、元老会議で、民党の合同に対処するため、次の提案をしました。
(1)首相在職のまま政府党を組織する。
(2)下野して政党を組織する。
(3)憲政党に内閣を渡すなどの方策を示す。
 6月24日、山県有朋は、超然主義を主張して、いずれの案にも反対し、激論になりました。
 6月24日、伊藤博文首相は辞表を提出し、後継首相に大隈重信・板垣退助を推薦しました。この時、山県有朋は「明治政府は落城せり」と記録しました。
 6月25日、保安条例廃止の件が公布されました。
 6月27日、大隈重信・板垣退助に組閣命令が下りました。
 6月30日、大隈重信が総理大臣に就任しました。これが@8大隈重信内閣です。内相には板垣退助が就任したので、隈板内閣ともいいます。陸・海軍両大臣以外は憲政党出身者だったので、最初の政党内閣ともいいます。
 首相兼蔵相は大隈重信(61歳)・内相は板垣退助(62歳)・文相は尾崎行雄(58歳)・農商務相は大石正巳・逓信相は林有造でした。陸軍大臣は桂太郎・海軍大臣は西郷従道でした。
 8月10日、*6衆議院議員総選挙が行われました。投票率は79.91%でした。憲政党260人、国民協会20人、無所属20人でした。
 8月21日、尾崎行雄文相は、帝国教育会で演説し、拝金主義を排撃して共和政治に言及しました。これを共和演説事件といいます。
 10月24日、尾崎行雄文相は、共和演説事件に関して辞表を提出しました。後任をめぐって閣議は紛糾しました。
 10月26日、大隈重信首相は、独断で犬養毅を文相に奉請しました。
 10月29日、板垣退助内相・松田正久蔵相・林有造逓信相ら旧自由党系の閣僚は、辞表を提出しました。
 10月29日、憲政党の旧自由派は、大会を開き、憲政党解散と新憲政党の結成を決議しました。
 10月31日、大隈重信首相・大石正巳農商務相・犬養毅文相ら旧進歩党系の閣僚も辞表を提出し、大隈重信内閣はここに崩壊しました。
10  11月3日、憲政党の旧進歩派は、憲政本党を結成しました。
 11月5日、元老会議は清国を視察中の伊藤博文の帰国を待たず、山県有朋に組閣を命令しました。
 11月8日、山県有朋が総理大臣に就任しました。これを@9第二次山県有朋内閣といいます。内相は西郷従道・蔵相は松方正義・陸相は桂太郎・海相は山本権兵衛・法相は清浦奎吾・文相は樺山資紀など非政党内閣で、超然内閣の復活です。
 11月30日、山県有朋首相は、憲政党代議士を招き、茶話会を開催し、憲政党との提携成立を声明しました。
 12月3日、第13通常議会が開かれました。これを第13議会といいます。会期は97日間でした。衆議院議長は憲政党の片岡健吉が就任し、副議長は留任しました。貴族院は正・副議長が留任ました。
 12月28日、酒造法改正を公布しました。日清戦後の第二次増税の一環です。
 12月30日、田畑地租を地価の2.5%から3.3%に増加する地租条例を改正しました。日清戦後の第二次増税の一環です。
11  1899(明治32)年2月13日、改正所得税法を公布しました。日清戦後の第二次増税の一環です。
 2月27日、醤油税則改正を公布しました。日清戦後の第二次増税の一環です。
 3月28日、文官任用令改正しました。その内容は、次の通りです。
(1)政党員が官界(官僚)に進出するのを防ぐために、自由任用を制限する。
(2)藩閥色を薄すめ、東大法学部出身の官僚を政党と対立する力に育てる。
(3)特別任用以外の勅任官(天皇の勅命による任命)は、文官高等試験の合格者である奏任官(大臣・地方官が天皇に奏推して任命する高等官の下位)より任命する。
 憲政党は、この改正に反対し勅任官中に自由任用の政務官を設けることを要求しました。これに対し山県有朋首相は、拒絶しました。
 3月28日、文官の身分と職務の保障を強化した文官分限令を公布しました。
 4月10日、伊藤博文は、長野市で演説し、「以後10月にかけて、政党組織準備のため、関西・九州など各地を遊説する」と述べました。
 7月5日、国民協会は、解散して、帝国党を結成し、山県有朋内閣を支持すると決議しました。
 8月24日、宮中に帝室制度調査局を設置し、伊藤博文を総裁に任命しました。
 12月3日、第14通常議会が開かれました。これを第14議会といいます。会期は94日間でした。議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』を参考にしました。
人はたくさんがいい、競争はあるほうがいい
10 11 12 13 14
伊藤
博文
黒田
清隆
山県
有朋
松方
正義
伊藤
博文
松方
正義
伊藤
博文
大隈
重信
山県
有朋
伊藤
博文

太郎
西園寺
公望

太郎
西園寺
公望
長州 薩摩 長州 薩摩 長州 薩摩 長州 肥前 長州 長州 長州 公家 長州 公家
 上記の総理大臣一覧表を見て、何をお感じになるでしょうか。
 1代から7代までは長州と薩摩で総理大臣がたらい回しされています。しかし、6代の松方正義以降h摩出身の総理大臣はいません。私は、長州は木戸孝允亡き後も奇兵隊出身の後輩を残したが、西郷隆盛は私学校出身の後輩をあの世に道連れにした「付け」がここに出ていると思います。
 もう1つ教訓的なのは、伊藤博文と山県有朋のライバル競争が激しく、薩摩の政治家が言論で戦えなかったのではないかということです。伊藤博文は「薩長の党派は最早実利なし」と断言し、政党に接近しました。他方、山県有朋は、政党から超然とする超然主義を主張しています。人間は、ライバルがいてこそ、切磋琢磨して、伸びるものだという見本がここにあります。
 卑近な例で申し訳ありませんが、私の部活指導でも同じことが言えます。私の部活では、ほとんど退部しません。たくさんの部員のなかから、個々に目標を与える自律的な競争心をおこさせます。ですから長時間練習しなくても、かなり強いです。薩長の総理大臣争いや、伊藤博文と山県有朋のライバル争いを、部活から見てみました。
 伊藤博文の後押して、薩長以外から最初の総理大臣が誕生しました。それが大隈重信です。爆弾で右足を切断してから、9年目の出来事です。よく頑張りました。余り気の合わない板垣退助が内相に就任しました。
 もし、政党政治に反対の「あなたならどうする?」。多分スパイなどを放って、ミスを探すでしょう。逆に、政党政治に反感を持っている人物がいると分かっておれば、警戒をするでしょう。
 そういう状況の中で、尾崎行雄文相がワナにはまりました。「日本は共和政治となる気遣いはないが、仮に日木に共和政治があると仮定すれば、おそらく三井、三菱は大統領候補者となるだろう」と演説したのです。「共和政治となる」とは、「日本から天皇がいなくなる」という意味です。これが政党政治を嫌っていた「あなた」に知らされました。あなたは、こんな美味しい料理をほっておくてはありません。「わたし」と同様政党政治を嫌っている伊東巳代治に知らせました。伊東巳代治は自分が社主を務める『東京日日新聞』にこの記事を載せて、尾崎行雄文相を攻撃しました。
 「わたし」の思惑通り、大隈重信首相は、あっさりと、尾崎行雄文相の首を切り、身内の犬養毅を後任に据えました。尾崎行雄の親分である板垣退助は、黙っていません。板垣退助は、自分の子分の大臣と共にさっさと辞任しました。
 隈板内閣は、4ヶ月で潰れました。「わたし」のライバルの伊藤博文は、再び、悪夢のような政党内閣を後押しするでしょう。「わたし」は、総理大臣になって、再び、政党内閣が誕生しても。こまらないように、さまざま手を打ちました。
 この「わたし」は、山県有朋です。尾崎行雄の演説の趣旨は「財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したもの」だったのですが、政敵からすると、それはどうでもいいのです。マキャベリズムです。
 山県有朋は政党政治を阻止するため、文官任用令を改正したり、治安警察法を制定したり、軍部大臣現役武官制を制定しました。こんな悪役がいて、それを上回る人物が出てきて、歴史は進むのです。

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