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エピソード

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立憲政友会の成立U(治安警察法、軍部大臣現役武官制、桂園時代へ)
 1898(明治31)年11月、山県有朋が総理大臣に就任しました。これを@9第二次山県有朋内閣といいます。内相は西郷従道・蔵相は松方正義・陸相は桂太郎・海相は山本権兵衛・法相は清浦奎吾・文相は樺山資紀など非政党内閣で、超然主義内閣の復活です。
 1899(明治32)年3月28日、文官任用令改正しました。
 3月28日、文官分限令を公布しました。
 4月10日、伊藤博文は、長野市で演説し、「以後10月にかけて、政党組織準備のため、関西・九州など各地を遊説する」と述べました。
 7月5日、国民協会は、解散して、帝国党を結成し、山県有朋内閣を支持すると決議しました。
 8月24日、宮中に帝室制度調査局を設置し、伊藤博文を総裁に任命しました。
 12月3日、第14通常議会が開かれました。これを第14議会といいます。会期は94日間でした。議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 1900(明治33)年2月、田中正造は、足尾鉱毒被災民の請願運動弾圧につき、衆議院で質問演説を行い、憲政本党を脱党すると宣言しました。これが足尾鉱毒事件です。
 3月10日、集会および政社法を廃止し、治安警察法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)政治結社・集会・示威運動を取り締まる。
(2)労働運動・農民運動を取り締まる。
 3月29日、改正衆議院議員選挙法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)選挙権は、直接国税10円以上を納入する満25歳以上の男子に与えられる。
(2)単記・無記名投票となりました。
(3)1府県1選挙区の大選挙区制と、3万人以上の市は独立選挙区となりました。
(4)定員は、300人から369人となりました。
 4月、御沙汰書をもって枢密院諮詢事項を拡張しました。その内容は「教育制度の基礎、内閣官制、官吏の服務・懲戒・任用・試験・分限などに関する勅令は枢密院の審査を経ることとする」などです。
 5月19日、陸軍省・海軍省官制を改正しました。この結果、軍部大臣の現役大・中将制が確立しました。これを軍部大臣現役武官制といいます。
 5月31日、憲政党総務の星亨らは、山県有朋首相に、閣僚の入党または党員の入閣を要求しましたが、拒否されました。
 6月1日、憲政党総務の星亨らは、伊藤博文と会見し、党首の就任を要請しました。
 6月20日、義和団は北京の各国公使館を包囲しました。これを義和団の変北清事変といいます。
 6月21日、清国は、北京出兵の8カ国に宣戦を布告しました。
 7月8日、伊藤博文は、党首就任を断り、新党組織を示唆しました。
 8月23日、憲政党総務の星亨らは、新党への無条件参加を申し入れました。
 8月25日、伊藤博文は、政友会創立委員会を開き、宣言および趣意書を公表しました。
 8月30日、中江兆民の手紙に示唆された幸徳秋水は、『万朝報』に「自由党を祭る文」を掲載しました。
 9月13日、憲政党臨時大会は、政友会組織に参加のため離党を宣言しました。
 9月15日、立憲政友会が発会しました。総裁は伊藤博文で、代議士は152人に擁します。
(1)憲政党の西園寺公望・星亨らが参加しました。
(2)板垣退助は、自由党を伊藤博文に譲渡したと批判されました。
(3)政友会の幹部は、松田正久片岡健吉尾崎行雄大岡育造原敬らです。
(4)支持者は、実業家・地方議員・地主らです。
 9月24日、近衛篤麿らは、国民同盟会を組織しました。
 10月4日、山県有朋首相は、辞表を提出し、伊藤博文と会見しました。その場で、後継首相受諾を要請しました。
 10月19日、伊藤博文は、総理大臣に就任しました。これを@10第四次伊藤博文内閣といいます。法相は金子堅太郎・文相は松田正久・農商務相は林有造・逓信相は星亨らです。立憲政友会を基礎とする政党内閣です。
 11月15日、東京市会汚職事件に関し、同市参事会員星亨逓信相らが告発されました。
 12月22日、星亨逓信相は、辞表を提出し、後任に原敬が任命されました。
 12月23日、桂太郎陸相は、辞表を提出し、後任に児玉源太郎が任命されました。
 12月25日、第15通常議会が開かれました。これを第15議会といいます。会期は90日間ででした。衆議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 1901(明治34)年1月、政府は、衆議院に北清事変費・建艦費補充などのための増税諸法案(砂糖消費税法・麦酒税法・酒税法)を提出しました。
 2月3日、内田良平が主幹する黒竜会が発足しました。
 2月4日、憲政本党代議士会は、増税案賛成を決定しました。その後、反対派の代議士34人が脱党し、三四倶楽部を結成しました。
 2月19日、衆議院は、増税諸法案を可決しましたが、貴族院で問題化しました。
 2月27日、貴族院本会議は、委員会で否決の増税諸法案を上程しました。
 3月1日、伊藤博文首相の意を受けた西郷従道は、山県有朋・松方正義と京都で会談し、貴族院との調停を依頼しましたが、拒絶されました。
 3月5日、明治天皇は、山県有朋・松方正義・西郷従道・井上馨の4元老に政府・貴族院間の調停に当るように命令しました。
 3月11日、山県有朋・松方正義・西郷従道・井上馨の4元老は、貴族院各派代表と折衝しましたが、不成立に終わりました。
 3月16日、貴族院に対し、増税法案の成立を命ずる勅語が下り、増税法案は可決されました。
 4月、山県有朋は、伊藤博文首相に「東洋同盟論」を送り、日英独3国同盟の推進を建言しました。
 5月2日、伊藤博文首相は、閣内不統一のため辞表を提出しました。渡辺国武蔵相を除く各大臣も辞表を提出しました。明治天皇は、枢密院議長西園寺公望を首相臨時代理に命じ、渡辺国武蔵相の辞表提出説得を命じました。
 5月15日、明治天皇の諮詢により、山県有朋・松方正義・西郷従道・井上馨の4元老は、後任首相に井上馨を推薦しました。
 5月20日、片山潜・幸徳秋水・安部磯雄らは、社会民主党を結成しました。即日禁止されました。
 5月23日、井上馨は、渋沢栄一に蔵相、桂太郎に陸相を交渉したが、不成功に終わり、首相就任を辞退しました。
 5月23日、元老会議は、後継首相に桂太郎を推薦しました。
 6月2日、桂太郎が総理大臣に就任しました。これを@11桂太郎内閣といいます。法相は清浦奎吾・文相は菊池大麓らで、非政党・超然主義内閣です。原敬は、「在職中種々の事件ありしも多くは伊藤の不決断によりて失敗に終る」と失望の意を表明しました。
 6月21日、幕臣で心形刀流の剣術指南である伊庭想太郎は、東京市役所で、「逆賊星亨」と叫んで、短刀で、星亨(52歳)を刺殺しました。幸徳秋水「『日本にはもう刺客に遭う程のエライ人間はない』と信じていたが、まだ星がいた。たしかに彼は『エライ人』であった」と記しました。
 9月7日、義和団事件最終議定書(辛丑条約)に調印しました。
 10月、田中正造は、足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職しました。
 12月10日、第16通常議会が開かれました。これを第16議会といいます。会期は90日間でした。衆議院・貴族院は正・副議長が留任しました。
 12月10日、田中正造は、議会開院式より帰途の明治天皇に直訴しました。
 1902(明治35)年1月、日英同盟協約に調印しました。
 2月、花井卓蔵や河野広中らは、最初の普通選挙法案を衆議院に提出しましたが、否決されました。
 4月、改正衆議院議員選挙法が改正されました。定員は、369人から381人になりました。
 8月、*7衆議院議員総選挙が行われました。定数376人で、政友会190人、憲政本党95人、帝国党17人、無所属74人でした。投票率は88.39%でした。
 11月2日、桂太郎首相は、政友会総裁の伊藤博文と会談し、地租増徴継続(1898年成立・期限5年)による海軍拡張計画につき了解を求めました。
 11月30日、政友会総裁の伊藤博文は、桂太郎首相を官邸に訪問し、地租増徴継続反対の意見を述べました。
 12月3日、政友会総裁の伊藤博文は、加藤高明の斡旋で憲政本党総理の大隈重信と会談し、両党提携の気運が高まりました。
 12月4日、政友会と憲政本党は、それぞれ大会を開き、「地租増徴継続は反対、海軍拡張の財源は政費節約によれ」と決議しました。
 12月9日、第17通常議会が開かれました。これを第17議会といいます。会期は20日間でした。議院議長は政友会の片岡健吉が就任し、副議長は留任しました。貴族院は正・副議長が留任しました。
 12月16日、衆議院は、地租条例改正法案(地租増徴継続)を委員会で否決しました。
 12月25日、桂太郎首相は、政友会・憲政本党幹部と会談し、地租問題につき妥協案(地租率軽減)を提示しましたが、物別れに終わりました。
 12月28日、衆議院は、地租条例改正案の採決直前に解散を命じられました。
10  1903(明治36)年1月、桂太郎首相は、曽禰荒助蔵相とはかり、地租増徴の継続を中止し、海軍拡張費には鉄道建設費を当て、鉄道建設費は公債で充当する方針を内定しました。
 2月、政友会総裁の伊藤博文は、桂太郎首相ら閣僚と会見し、政府の財政政策を承認しました。
 3月、*8衆議院議員総選挙が行われました。定数376人で、政友会175人、憲政本党85人、帝国党17人、無所属99人でした。投票率は86.17%でした。
 4月25日、政友会総裁の伊藤博文は、憲政会総務に政府との妥協案を説明しました。総務会は、「総裁専断」と非難しました。
 4月28日、桂太郎首相は、貴族院6派に、政友会との妥協条件を発表しました。その内容は、次の通りです。
(1)地租増徴案は形式的に議会に提出するが、その後撤回する。
(2)海軍拡張費は、行政整理・公債募集などによる。
 5月12日、第18特別議会が開かれました。これを第18議会といいます。会期は24日間でした。衆議院議長は
留任し、副議長は政友会の杉田定一が就任しました。貴族院は正・副議長が留任しました。
 5月19日、衆議院は、委員会で地租条例改正案を否決しました。
 5月20日、桂太郎首相は、政友会総務と正式の妥協交渉を開始しました。
 5月24日、政友会議員総会は、妥協案を承認しました。妥協および総裁専制に反対した尾崎行雄・片岡健吉・林有造らは、政友会を脱党しました。
 5月29日、衆議院は、高田早苗が提出した「教科書疑獄につき大臣が責任を負うべし」との決議案を可決しました。その結果、菊池大麓文相は、辞職しました。
11  6月24日、桂太郎首相は、伊藤博文・山県有朋を招き、伊藤博文・山県有朋の2元老の1人が総理大臣にことを求めましたが、辞退されました。
 7月6日、明治天皇は、山県有朋らの献策により、政友会総裁の伊藤博文を枢密院議長就任に要請しました。
 7月14日、政友会協議員会は、伊藤博文枢密院議長の推薦により、西園寺公望を後任総裁に決定しました。
 12月3日、政友会の松田正久・原敬は、憲政本党の犬養毅・大石正巳と会合し、行財政整理・外交問題について、両党提携を約束しました。
 12月10日、第19通常議会が開かれました。これを第19議会といいます。会期は2日間でした。衆議院議長は憲政本党の河野広中が就任し、副議長は留任しました。貴族院議長は徳川家達が就任し、副議長は留任しました。
 12月10日、衆議院開院式で、衆議院議長に選ばれたばかりの憲政本党の河野広中は、内閣弾劾の意味を含めた勅語奉答文を提出し、可決されました。
 12月11日、衆議院は、解散を命じられました。
 12月28日、憲法第70条(緊急勅令)による財政上必要処分の件を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)軍費支弁のための特別会計金の繰り替え使用・一時借り入れを認める。
(2)国庫債券の発行を認める。
(3)京釜鉄道達成のための補助をする。
12  1904(明治37)年2月10日、日露戦争が始まりました。
 2月23日、日韓議定書に調印しました。
 3月1日、*7衆議院議員総選挙が行われました。政友会133人、憲政本党90人、帝国党19人、無所属137人でした。投票率は86.06%でした。
 3月20日、第20臨時議会が開かれました。これを第20議会といいます。会期は10日間でした。衆議院議長は政友会の松田正久が就任し、副議長は箕浦勝人が就任しました。貴族院の正・副議長は留任しました。
 3月30日、臨時事件費支弁に関する法律を公布しました。その内容は、2億8000万円以内の借り入れ・国庫債券発行などです。
 3月30日、陸海軍に属する臨時事件費特別会計法を交付しました。その内容は、戦争終結までを1会計年度とするなどです。
 4月1日、臨時事件費特別会計法に基づく第一次予算3億8000万円を公布しました。
 4月1日、非常特別税法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)平和回復の翌年までの期限で地租など11科目の税率を増加する。
(2)毛織物・石油消費税を創設する。
(3)明治37年度中12億6100万円の増収とする。
 4月1日、煙草専売法を公布しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
山県有朋と伊藤博文の政治ゲーム
 山県有朋がやったことは、明治32年に文官任用令を改正しました。政党員が官僚になれないように、官僚の資格を厳密にしました。その結果、東京帝国大学卒業生280人のうち、医師1人、弁護士1人、69人が官僚になりました。
 次に、明治33年に治安警察法を公布しました。田中正造が鉱毒事件を訴えたことなど政治・社会運動を取り締まる法律です。
 政党政治に最も打撃を与えたのが、軍部大臣現役武官制です。これは、「陸・海軍大臣は現役将官のみから任用する」という制度で、陸軍・海軍が反対する内閣は、陸・海軍大臣を推薦しなければ、打倒できるのです。
 伊藤博文がやったことは、板垣退助らの自由党を丸呑みにして、立憲政友会を結成しました。伊藤博文は、立憲政友会という政党を基盤に@10第四次伊藤博文内閣を誕生させました。立派な政党内閣です。
 そして、山県有朋が率いる貴族院には嫌がらせを受けましたが、衆議院を味方につけ、北清事変費・建艦費補充などのための増税諸法案を可決しました。砂糖消費税法・麦酒税法・酒税法などなんでもありの増税です。
 とても上手な手腕です。
 最近(2005年7月)、政府税調の会長が、8割を占めるサラリーマンの各種控除の廃止・縮小を発表し、増税を宣言しました。経済評論家などは、「サラリーマンはアホ扱いだ」とか「フランスではストライキ」という人もおれば、「やはり消費税アップしかないか」という人もいます。私は「大変だ、大変だ」と思わせ、消費税アップに国民を誘導している大キャンペーンだと感じています。
 政府は、国民をみれば、税金顔に見えるのでしょう。損得勘定の政治屋に「自らを律して」というのも無駄です。自衛し、選挙のときに、政治家を選ぶしかありません。
 2人の政治ゲームは、続きがあります。山県有朋は、官僚・貴族院勢力をバックに、桂太郎に引き継ぎました。
 伊藤博文は、政友会をバックに、西園寺公望に引き継ぎました。この2人が、次の世代を引っ張って行くことになります。薩摩の存在はありません。
 もう1つのゲームは、第一戦を退いた山県有朋・伊藤博文は、黒田清隆・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌らと内閣の背後から影響力を振るう元老政治をはじめました。
 ここでは、天皇の諮問や緊急勅令という形で、天皇を政治的に利用しています。

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