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エピソード

196_01

中国分割T(帝国主義、モンロー宣言、戊戌の政変、北清事変)
 19世紀末〜20世紀初頭、世界は帝国主義の段階に入ったといいます。帝国主義を専門的に表現すると、資本主義国家の政治的・経済的侵略政策をいいます。具体的に、見てみましょう。
(1)19世紀末、欧米先進諸国では第2次産業革命進行し、銀行と結んだ大企業が市場を支配するようになりました。その市場が資源供給地や製品や資本の輸出市場としての植民地・勢力圏です。
(2)欧米の先進諸国は、巨大な生産力・軍事力を背景に、アジア・アフリカ・太平洋地域を植民地化したり、勢力圏(半植民地化地域・従属地域)を設定しました。
(3)20世紀にはいると、植民地を持てる帝国主義国イギリス・フランスに対して、植民地を持たざる帝国主義国ドイツ・ロシア・イタリアは、植民地や勢力圏の再配分(再分割)を要求するようになり、列強間の帝国主義的対立は、第一次世界大戦へと傾斜していきました。
 1823年、アメリカ大統領のモンローは、モンロー宣言を発し、相互不干渉という外交政策の基本を公表しました。
 1875年、イギリスは、スエズ運河株を買収して、中東に進出しました。
 1877年、イギリスは、インドを完全に支配しました。
 1877年、ロシアは、露土戦争でトルコと戦い、バルカン半島に南下しました。
 1887年、フランスは、仏領インドシナを形成しました。
 1880年、ドイツのウイルヘルム2世は、ヨーロッパにおける現状維持派のビスマルクを解任し、「世界政策」を宣言しました。つまり、植民地獲得を目指すということです。
 1892(明治25)年8月、@5第二次伊藤博文内閣が成立しました。
 1894(明治27)年8月、日清戦争が始まりました。
 1895(明治28)年4月17日、日清講和条約が調印されました。
 4月23日、ドイツ・フランス・ロシア3国は、遼東半島の返還を要求しました。これを三国干渉といいます。
 7月6日、閔妃らはロシア公使と結んでクーデタを決行し、親日派を追放し、親露派を登用しました。
 8月17日、宮中顧問官の三浦悟楼は、朝鮮駐在公使に任命されました。
 10月8日、京城で日本人の壮士と軍隊は、大院君を擁してクーデタをおこし、閔妃を殺害しました。これを閔妃殺害事件(乙未事変)といいます。この結果、親日派の大院君が、政権に復帰しました。
 10月17日、閔妃暗殺事件に関し、三浦悟楼公使に帰国を命じ、小村寿太郎を朝鮮駐在公使に任命しました。
 1896(明治29)年2月11日、ロシア公使は、朝鮮国王と世子をロシア公使館に移しました。これを露館播遷といいます。この結果、朝鮮では、再び、親露派政権が誕生しました。
 5月14日、朝鮮駐在公使の小村寿太郎は、ロシア公使のウェーバーと朝鮮問題に関する覚書に調印しました。これを小林・ウエ−バ−覚書といいます。その内容は、次の通りです。
(1)朝鮮国王の王宮帰還問題を話し合う。
(2)電信線および居留民保護のための駐兵数制限などを設定する。
 6月3日、清国の李鴻章とロシアのウィッテは、露清条約に調印しました。これを李・ウィッテ条約といいます。その内容は、次の通りです。
(1)日本の攻撃に対して行動防衛を密約しました。
(2)ロシアは、東清鉄道敷設権を獲得しました。
 6月5日、清国は、フランスにベトナム鉄道の広西竜州までの延長を認めました。
 6月9日、特派大使の山県有朋は、ロシア外相のロバノフと朝鮮問題に関する覚書に調印しました。これを山県・ロバノフ協定といいます。その内容は、次の通りです。
(1)朝鮮財政の共同援助・軍隊創設・電信線管理などを取り決めました。
(2)秘密条項で派兵の際には用兵地域を確定する。
 9月18日、松方正義を首相兼蔵相に任命しました。これを@6第二次松方正義内閣といいます。
 12月14日、ドイツは、清国に膠州湾の50年間租借を要求しました。
 1897(明治30)年2月、英清条約を調印し、清国は、イギリスにビルマ鉄道の雲南への延長を認めました。
 5月、この頃、列強の紡績工場が相次いで、中国に進出しました。アメリカの鴻源沙廠・イギリスの老公茂沙廠・ドイツの瑞記沙廠などです。
 6月16日、、アメリカは、アメリカ・ハワイ併合条約に調印しました。
 6月17日、駐米公使の星亨は、アメリカのハワイ合併阻止のため、移民問題を名目にハワイ占領の意見を具申しました。
 6月21日、大隈重信外相は、「ハワイ合併は太平洋の現状を変動し、日本の権益を危うくする」旨、アメリカ公使に抗議しました。
 6月25日、アメリカ国務長官(外相)は、星亨公使に、「日本の正当な権益は阻害されない」と回答しました。
 8月2日、孫文は、アメリカから横浜に到着しました。
 9月6日、朝鮮政府は、ロシア軍人14人を軍人顧問として、4000人の軍隊を編成しました。 
 10月6日、ロシア公使は、朝鮮にイギリス人総税務司のブラウンの解雇とロシア人の登用を要求しました。
 10月16日、朝鮮は、国号を大韓と改称しました。
 10月26日、韓国政府は、朝鮮にイギリス人総税務司のブラウンの解雇とロシア人の登用を受諾しました。
 11月1日、ドイツ人宣教師が殺害されました。
 11月14日、ドイツ軍は、ドイツ人宣教師殺害事件を口実に、膠州湾を占領し、青島砲台を占拠しました。
 12月15日、ニコライ2世は、ロシア艦隊に旅順行きを指令し、ロシア艦隊は旅順港に入りました
 12月16日、ロシアは、清国への借款供与の条件として、満蒙の鉄道敷設・工業の独占権・黄海沿岸の一港租借などの要求を提示しました。
 12月17日、ドイツは、華北をロシアの勢力圏と認め、日本の進出阻止に協力することを約束しました。
 12月18日、ドイツのウイルヘルム2世は、ドイツの在華権益を害するものには実力をもって対すると声明しました。
 12月27日、イギリスは、イギリス人総税務司のブラウンの解雇に抗議し、軍艦7隻を仁川に派遣しました。その結果、韓国政府は、ブラウンの解雇を撤回しました。
 12月、康有為は、ドイツの膠州湾占領に抗議し、速やかに変法自強すべしと皇帝に要請しました。これを第5次上書といいます。
 1898(明治31)年1月8日、イギリスは、清国への借款1200万ポンドの条件として、揚子江沿岸地域の不割譲・イギリス人による関税管理などを提示しました。
 1月12日、伊藤博文が総理大臣に就任しました。これを@7第三次伊藤博文内閣といいます。
 1月17日、イギリス蔵相のヒックス=ビーチは、中国の門戸開放を主張しました。
 2月13日、清国は、借款1200万ポンドの条件に、イギリスの要求する揚子江沿岸地域の不割譲・関税管理などを承認しました。
 3月1日、イギリス・ドイツは、第二次借款供与(1600万ポンド、年利4.5%、返済期間36年)を条件に、江浙の塩■を管理下におきました。
 3月3日、ロシアは、清国に遼東半島の大連・旅順の租借を要求しました。
 3月6日、ドイツは、清独膠州湾租借条約に調印しました。その内容は、膠州湾租借権(99年間)・膠済鉄道敷設権・鉱山物採掘権などです。
 3月19日、西徳二郎外相は、ロシア公使に対して、ロシアが韓国に対する助言・助力を日本に一任すれば、満州は日本の利益範囲外と認める旨を通告しました。これを満韓交換論といいます。ロシアは、拒絶と回答しました。
 3月27日、ロシアは、大連・旅順の2港の租借権(25年間)と南満鉄道敷設権を獲得しました。こうして、中国の半植民地化が激化しました。
 4月14日、アメリカは、清国に粤漢鉄道借款(400万ポンド)を供与して、粤漢鉄道の支配権を握りました。
 4月19日、アメリカは、キューバを独立国と認め、マッキンレー大統領にキューバでの武力行使を許す決議案を採択しました。
 4月21日、スペインは、アメリカの武力行使を許す決議案を非難して、アメリカと国交を断絶しました。
 4月22日、フランスは、清国に広州湾租借(99年間)・雲南鉄道敷設権などを要求し、フランス軍は、広州湾を占領しました。
 4月25日、アメリカは、スペインとの戦争状態であることを宣言しました。これを米西戦争といいます。
 4月25日、西徳二郎外相は、ロシア公使のローゼンと韓国に関する議定書に調印しました。これを西・ローゼン議定書といいます。その内容は、次の通りです。
(1)韓国の独立を承認する。
(2)韓国への勧告・助言・顧問の任命などについては、両国は事前に協議する。
(3)ロシアは日本の商工業の発達を妨害しない。
 5月1日、デューイ提督率いるアメリカ艦隊は、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破しました。
 5月19日、アギナルドは、フィリピンに戻り、アメリカ軍の支援でスペイン軍と交戦しました。
 5月23日、義和団(義民会)は、河北・山東省境で排外運動を開始しました。
10  6月9日、イギリスは、清国から九竜を租借(99年間)しました。
 6月11日、清の光緒帝は、康有為を招き、変法自強を宣布しました。これを百日維新といいます。
 6月30日、大隈重信が総理大臣に就任しました。これが@8大隈重信内閣です。
 7月1日、イギリスは、威海衛を租借(25年間)しました。
 8月13日、康有為は、婦女の纏足禁止を提案しました。
 8月13日、アギナルド参加のアメリカ軍は、マニラを占領しました。
 8月21日、康有為は、農工省総局を設置しました。
 9月21日、西太后は、クーデタをおこし、光緒帝を幽閉し、実権を握りました。康有為・梁啓超は、日本に亡命しました。これを戊戌の政変といいます。
 10月9日、西太后は、科考旧制を復活し、農工省総務局を廃止しました。
 11月28日、湖北の江湖会哥老会)は「滅洋」の旗を掲げて蜂起し、キリスト教会に放火し、キリスト教徒を殺害しました。この波は湖南にも波及しました。
 12月10日、米西戦争が終了し、アメリカは、フィリピン・グアム・プエルトリコを獲得し、キューバの独立が承認されました。
11  1899(明治32)年3月、山東で義和団が蜂起しました。これが義和団事件団匪事件北清事変)の発端です。
 3月11日、駐清公使の矢野文雄は、亡命政治家の康有為・梁啓超らの欧米への転居につき、清国政府の希望を聞きました。その結果、康有為は、バンクーバーへ横浜から出帆しました。
 9月6日、アメリカ国務長官ジョン=ヘイは、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・イタリア・フランスに対し、中国の門戸開放の覚書を通告しました。その内容は、「清国内の租借地・利益範囲において、通商航海上の均等な待遇の保証を求める」というものです。伝統的外交政策のモンロー宣言を破棄したことを意味します。
 10月、義和団は、直隷に及び、「伝神助教滅洋共和義和拳」の旗を掲げました。
12  1900(明治33)年1月27日、北京の列国公使団は、清朝に義和団鎮圧を要求しました。
 3月18日、ロシア艦隊は、仁川に停泊し、京城で馬山浦の海軍基地租借権を確保しました。
 5月3日、青木周蔵外相は、駐清公使の西徳二郎に対し、欧米諸国と共同するようにと訓令しました。
 5月20日、北京駐在の11カ国公使団は会議を開き、清国に対し、義和団の速やかな鎮撫を要求しました。
 5月28日、義和団は北京の隣豊台駅を襲撃しました。北京の列国公使団は、護衛部隊派遣要請を決議しました。
 5月31日、イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・日本・ドイツの軍隊350人は。太沽の艦隊から北京に到着しました。これを列国第一次出兵といいます。
13  6月6日、義和団は、天津郊外で連合軍と戦闘しました。
 6月10日、イギリス艦隊司令長官のシーモア中将が指揮する海兵2000人の列国連合軍は、天津より北京に向かいました。これを列国第二次出兵といいます。
 6月11日、北京の日本公使館書記生の杉山彬は、永定門外の清国兵に殺害されました。
 6月14日、義和団は、連合軍と北京で戦闘しました。ロシア陸兵4000人は、太沽を経て天津に到着しました。
 6月18日、連合軍は、太沽砲台を占領しました。清軍・義和団は、天津租界を攻撃し、連合軍を撃破しました。
 6月19日、清国の総理衙門は、各国公使に24時間以内の北京立ち退きを要求しました。
 6月20日、北京駐在ドイツ公使のケテラーは、義和団に狙撃されて、殺害されました。
 6月20日、義和団は、北京の各国公使館を包囲しました。
 6月21日、清国は、北京出兵の8国に宣戦を布告しました。
14  7月4日、義和団が奉天付近の東清鉄道を破壊したので、ロシアは、東部シベリア軍を動員しました。
 7月5日、イギリス代理公使は、青木周蔵外相に、北京列国公使館救援につき、派遣軍増員を要請しました。
 7月6日、閣議は、混成1個師団の清国増派を決定し、計2万2000人に達することを各国公使に通告しました。
 7月14日、イギリスは、青木周蔵外相に、日本軍2万人を増派すれば、100万ポンドを援助すると通告しました。
 7月14日、日本軍を主力とする連合軍2万人は、天津を攻略しました。その後、北京に向け出発しました。
 7月27日、ドイツのウィルヘルム2世は、ドイツ遠征軍に黄禍論を説きました。これを匈奴演説いいます。
 8月14日、日本軍を主力とする連合軍は、北京総攻撃を開始し、北京公使館を奪回しました。
 8月15日、西太后・光緒帝らは、山西省の太原に逃亡しました。
 10月8日、義和団事件に関する北京各国公使会議が始まり、全権公使の李鴻章・慶親王と交渉を開始しました。
 11月11日、ロシアは、李鴻章との協定で、満州地域の独占的権益を獲得しました。ハルビン・旅順間鉄道敷設権も獲得しました。
 12月30日、北京の列国公使団は、12か条の講和条件を提示し、清国全権委員は、講和条件を受諾しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参照しました。
西太后と義和団、ハワイは日本の領土?
 日本は、列強に開国され、不平等条約を押し付けられ、攘夷運動をおこしました。朝鮮でも、中国でも同じ体験をしています。しかし、当時の日本人は、列強の帝国主義的性格を見抜き、殖産興業・富国強兵策で、列強の仲間入りを果たしました。他方、朝鮮では大院君、中国では西太后が支配し、対応策を誤りました。ここでは西太后のことを取り上げました。
 「西太后」というタイトルで、何度も映画化され、そのつど見てきました。気の弱い人は、読まないで下さいね。西太后は、咸豊帝が特に寵愛している側室である麗姫の手足を切断し、地下にある甕に首だけ出させます。それを眺めて楽しむ(?)マゾ的な西太后を描いていました。
 次の話も残酷です。西太后は、同治帝の子を身ごもった皇后の嘉順(息子の嫁)をいじめる話です。妊娠7ケ月の皇后の腹を足蹴りにします。同治帝が18歳で死ぬと、今度は、身重の手足をしばり天上まで海老状につり上げ、そこから腹が下になるように落とすのです。生まれれば、自分の孫です。
 これは映画です。しかし、それほど恐れられた女性独裁者だったのでしょうか。
 西太后の一生を追跡してみました。
 彼女は、才色兼備の女性として特に有名でした。18歳の時、咸豊帝の側室になり、皇太子載淳を生み、皇后に次ぐ妃(第二夫人)となりました。正妻である皇后はの綏履殿に住んでいたので東太后といい、第二夫人は西の平安室に住んだいたので西太后といいます。
 1861年、日本では万延2年、皇太子載淳が即位して同治帝となると、東太后と共に「垂簾聴政」の名の下で、咸豊帝の弟である恭親王を取り込み、政治に口出しました。これに異を唱えた「顧命大臣」である怡親王載垣を粛清し、実権を握りました。そして曽国藩・李鴻章らの協力で政治改革を行いました。これを同治中興といいます。
 1875年、日本では明治8年、息子の同治帝(18歳)が亡くなりました。東太后にも西太后にも子がなかったので、西太后の妹の子(甥)を即位させました。これが光緒帝(4歳)です。その後13年間、西太后が摂政として実権を握りました。
 1887年、日本では明治20年、光緒帝(17歳)の親政が始まりました。自分の姪である隆裕を光緒帝の皇后にしました。日清戦争のときは、光緒帝の時代でした。「眠れる獅子」は「腐った獅子」として、列強の進出を受けました。
 1898年、日本では31年、日清戦争の敗北に衝撃を受けた光緒帝は、康有為・梁啓超らの意見を容れ、変法自強運動(戊戌維新)を開始しました。しかし、保守派の反対や、袁世凱の裏切り(西太后暗殺計画を密告)などで、西太后は、光緒帝を幽閉し、変法自強運動を弾圧しました。これを戊戌政変といいます。
 1900年、日本では明治32年、西太后は、義和団の活躍に押されて列強との宣戦布告を布告しました。北京議定書により、中国の植民地化が進みました。
 1908年、日本では明治40年、光緒帝(38才)が死ぬと、ラストエンペラーの宣統帝溥儀(3歳)が即位しました。溥儀は、光緒帝の弟である醇親王の子です。それを見届けて、西太后(74歳)は死んでいきました。
 日本では攘夷運動、朝鮮では東学党の乱、中国では義和団の変がおきています。外国人排斥運動です。
 東学党の義和団も、西学(キリスト教)を排斥するために、教会を襲撃しました。どんな地方にでも教会がありました。私たちは単純にキリスト教の牧師をキリスト教の布教師として、見がちですが、全てがそうだとは限りません。
 昔、『イルカに乗った少年』という映画を見ました。舞台は太平洋の小さい島です。子供たちは、イルカに乗ったり、砂浜で自由に遊んだりの生活をしています。そこへ宣教師がやって来て、コーラやハムを無料で配給します。しかし、島の子供たちがコーラやハムの味になじむと、宣教師は「働いて金を稼いで店で買う」ことを勧めました。村の子供たちは、朝早くから夜遅くまで、大きな島の工場へ働きに行くようになりました。
 しかし、1人だけ、時間を縛られるより、不味くてもいい、自然になる物を食べて、自由にイルカと遊ぶ子供がいました。ここには、植民地主義のお先棒を担ぐ宣教使もいるということが描かれていました。
 「常夏の国ハワイ」は、アメリカの領土でなく、自立国だったのです。日本から、多くの移民が住んでいました。
 アメリカが併合を考えたとき、日本の一部は「軍隊を派遣して、居留民を保護する」と発言した人もいました。しかし、当時の日本の目は大陸に向いており、ちょっとだけ、抗議しただけで、アメリカ領になってしまいました。

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