print home

エピソード

198_02

日露戦争U(バルチック艦隊、乃木希典大将、旅順占領)
 1904(明治37)年1月6日、ロシア駐日公使のローゼンは、ロシアの最終提案を小村寿太郎外相に提出しました。
 1月12日、御前会議で、日本の最終案を決定しました。
 1月26日、小村寿太郎外相は駐露公使粟野慎一郎にロシアの解答を督促するように訓令しました。
 2月3日、明治37年度において前年度予算施行の件を公布しました(歳入2億2985万円歳出2億2318万円)。
 2月4日、御前会議は、ロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ることを決議しました。
 2月6日、駐露公使粟野慎一郎は、国交断絶を通告しました。
 2月8日、陸軍先遣部隊は、仁川に上陸を開始しました。
 2月9日、東郷平八郎司令長官が率いる連合艦隊は、旅順港外のロシア艦隊を攻撃し、仁川のロシア軍艦2隻を撃破しました。大国ロシアのスタルク司令長官は、日本との交戦を予測せず、「疑わしい事態に遭遇した場合は、発砲せず帰還して報告せよ」と命じていました。
 2月10日、日本は、ロシアに宣戦を布告しました。これを日露戦争といいます。
 2月11日、大本営が宮中におかれました。陸軍参謀総長大山巌・海軍軍令部長伊東祐亨が幕僚長として控え、天皇が自分で裁断する形を採用しました。
 2月13日、大蔵省は、第一回国庫債権1億円発行規定を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)発行価格は最低95円で、年利5分で発行する。
(2)応募額は4億5213万円で、実収額は9625万円でした。
 2月23日、日韓議定書に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)日本は、韓国皇帝の安全と領土保存にあたり軍事上必要の地点を臨機に収容する。
(2)韓国は、日本の中国をいれて施設を改善する。
(3)これに反する協定を第三国と結ばない。
 2月24日、閣議は、ロンドン市場での英貨公債募集のため、日銀総裁の高橋是清を派遣しました。
 2月24日、第一次旅順口閉鎖作戦を実施しました。
 3月14日、黒木為大将を司令官とする第一軍は、鎮南浦に上陸しました。
 3月15日、大本営は、奥保鞏大将を司令官とする第二軍を編成しました。
 3月30日、臨時事件費支弁に関する法律を公布しました。その内容は、2億8000万円以内の借入・国庫債券発行・公債募集です。
 3月30日、陸海軍に属する臨時事件費特別会計法(戦争終結までを1会計年度とする)を公布しました。
 4月1日、非常特別税法を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)平和回復の翌年までの期限で地租など11科目の税率を増加する。
(2)毛織物・石油消費税を創設する。
(3)明治37年度中12億6100万円の増収となりました。
 4月1日、臨時事件費特別会計法に基づく第一次予算3億8000万円を公布しました。
 4月25日、ロシアのウラジオストク艦隊は、軍隊輸送中の金州丸を元山沖で撃沈しました。
 5月1日、第一軍は、鴨緑江を渡河して、九連城を占領しました。
 5月5日、第二軍は、遼東半島に上陸を開始しました。
 5月10日、第一回6分利付英貨公債1000万ポンド募集の件を公布しました。応募は活発でした。
 5月13日、清国の慶親王は、内田康哉公使の追及で、次のような露清密約の存在を肯定しました。
(1)日本の攻撃に対して共同防衛をする、
(2)清国は、ロシアに、東清鉄道敷設権を与える。
 5月19日、独立第十師団は、大孤山に上陸しました。
 5月23日、大蔵省は、第二回国庫債権1億円発行規定を公布しました。応募額は3億2219万円で、実収額は9201万円でした。
 5月26日、第二軍は、死傷者4387人を出して、南山を占領しました。
 5月30日、第二軍は、大連を占領しました。
 5月31日、大本営は、旅順攻撃のため、乃木希典大将を司令官とする第三軍を編成しました。
 5月31日、閣議は、対韓方針を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)軍事・外交・財政の実権を掌握する。
(2)権利を拡張して保護国化をはかる。
 6月15日、ロシアのウラジオストク艦隊は、対馬海峡で陸軍輸送船の常陸丸・和泉丸を撃沈しました。
 6月20日、満州軍総司令部を編成し、総司令官に大山巌参謀総長、総参謀長に児玉源太郎参謀次長、参謀総長に山県有朋元帥を任命しました。
 6月30日、野津道貫大将を司令官とする第四軍を編成しました。
 7月12日、海軍軍令部長らは、参謀総長に対し、ロシアのバルチック艦隊東航に備えるため、旅順攻略促進の希望を申し入れました。
 8月10日、ロシア艦隊は旅順を出撃し黄海で日本の連合艦隊と遭遇しました。ロシア艦隊の主力は、旅順に敗走し、ロシア戦艦7隻が武装解除されました。これを黄海海戦といいます。
 8月14日、第二艦隊は、蔚山沖でウラジオストク艦隊と遭遇し、1隻を撃沈し、2隻を撃破しました。
 8月19日、乃木希典大将を司令官とする第三軍は、旅順を総攻撃して、死傷1万5860人を出し、失敗しました。
 8月22日、第一次日韓協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)韓国は、日本政府推薦の財政・外交顧問を任用する。
(2)外国との条約締結・特権譲与につき日本政府と事前に協議する。
 8月24日、ロシアは、バルチック艦隊の太平洋派遣を決定しました。
 9月4日、第一・第二・第四軍は、死傷2万3533人を出して、遼陽を占領しました。これを遼陽の会戦といいます。
 9月、与謝野晶子は、「君死に給ふこと勿れ」を『明星』に発表しました。
 10月、日本は、朝鮮で、京釜線(京城〜釜山間)を完成しました。
 10月12日、大蔵省は、第三回国庫債権8000万円発行規定を公布しました。応募額は2億4582万円で、実収額は7360万円でした。
 10月20日、第一・第二・第四軍は、死傷2万497人を出して、ロシア軍と沙河で対峙しました。これを沙河の会戦といいます。
 10月26日、乃木希典大将を司令官とする第三軍は、旅順を総攻撃して、死傷3830人を出し、失敗しました。
 11月10日、第二回6分利付英貨公債1200万ポンド募集の件を公布しました。応募は活発でした。
 12月5日、乃木希典大将を司令官とする第三軍は、旅順を総攻撃して、死傷1万6935人を出し、二○三高地を占領しました。二○三高地より旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始しました。これを旅順攻略といいます。
 この項は『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
戦争は国力をかけた、ルールなき総力戦のスポーツ、旅順占領
 「戦争はルールなきスポーツである」というのが私の定義です。唯一のルールは、どちらかの宣戦布告で始まるというだけです。それ以外は、どのような道具(武器)を使おうが、どのような戦略を使おうが自由です。勝てば正義でなのです。「己を知り、相手を知れば、百戦すれども、危うからず」という言葉は、戦争にもスポーツにも使います。
 では、ロシアの戦略を調べてみましょう。雪・氷の国ロシアには、1年中凍らない港(不凍港)が、経済的・戦略的に悲願でした。南下すると大英帝国と衝突します。西には列強のドイツ・フランスがいます。そこで極東に目をつけました。 ロシアは清国の交渉して、東清鉄道敷設権(長春〜旅順)を獲得し、旅順・大連の租借しました。ハルビンと長春をつなぐとモスクワ・ウラジオストク・旅順が1本鉄道で繋がります。
 韓国と交渉して馬山にロシア極東艦隊の碇泊地を租借しました。ウラジオストク港から旅順までの渤海湾・黄海の制海権を握り、日本海を往復する航路を開拓したのです。
 こうした輸送力を背景に、ロシアは満州をほぼ制圧しました。やがて南下して朝鮮に迫る勢いでした。
 やがて来る日露戦争に対して、ロシア側の作戦は、最初は、地の利から日本軍が優勢であると分析しました。そこで日本軍の渤海湾上陸を阻止し、バルチック艦隊の旅順到着を待って決戦に持ち込むというものです。
 日本は、朝鮮を主権線と隣接する利益線と考え、ロシアの南下が断固排撃する必要がありました。
 日本側の作戦は、第一軍は、仁川から上陸し、朝鮮全土を制圧する。そして、第一軍が鴨緑江を渡ると同時に、第二軍は、渤海湾の大孤山に上陸し、第一軍と合流して、満州のロシア軍主力を撃滅するために遼陽に向かう。そのためには、旅順港の出口にボロ船を沈める閉塞作戦を行い、黄海の制海権を奪い返すというものです。
 バルチック艦隊が来る前に、陸軍がロシアの朝鮮・満州の軍事拠点を占領し、ウラジオストクに避難するバルチック艦隊を海軍が撃滅する作戦です。
 5月1日、黒木為驍フ第一軍は鴨緑江を渡りました。5月2日、奥保鞏の第二軍も塩大澳に上陸し、金州付近で遼東半島を断ち切り、主力が満州へ進出できるような作戦を立てました。
 5月25日、ロシア側は金州近くの南山に堅固な要塞をつくり、最新の機関銃で反撃し、日本側に多大の被害をもたらしました。5月26日、奥の第二軍は、死傷者4387人を出して、やっと南山を占領しました。
 8月31日、ロシアのクロパトキン総司令官は遼陽からハルビンに退却して、日本軍の補給路を伸ばす作戦を取ろうとしましたが、ロシア皇帝は陸軍の面目にかけて退却を許さなかったので、遼陽の会戦が始まりました。黒木第一軍・奥第二軍・野津道貫の第四軍が攻撃すると、形勢互角でしたが、クロパトキンはハルビンに敗退しました。
 子どもの頃に、女の子の手鞠歌を聞いたことがあります。「一列談判破裂して、日露戦争、戦いにさっさと逃げるはロシヤの兵、死んでも尽くすは日本の兵、五万の兵をひきつれて、六人残して皆殺し、七月八日の戦いに、ハルピンまでも攻め落とし、クロパトキンの首をとり、東郷大将ばんばんざい」。色の部分しか覚えていなかったので、日露戦争を歌っている事は分かりましたが、今、全文をみると、クロパトキンやハルピンが出てくるので、遼陽の会戦の時の歌だったことが分かりました。「死んでも尽くすは日本の兵」とは残酷な歌ですね。
 大本営は、バルチック艦隊が10月15日に極東に向け出発したと聞き、「明治38年1月上旬に台湾海峡にバルチック艦隊が来る。それまでに旅順を陥落させる必要がある」と判断しました。そのため、海軍は、陸軍に早く旅順を占領するように要求しました。
 8月19日、乃木希典の第三軍は、敵陣によじ登ったり、手榴弾を使う古典的方法で、旅順を総攻撃しました。しかしロシア側は、大砲・機関銃・地雷などの近代的武器で反撃しました。日本軍は、死傷1万5860人を出しましたが、1つの陣地も奪えませんでした。これを第一次総攻撃といいます。
 10月26日、乃木の第三軍は、28センチ榴弾砲や木製の12センチ迫撃砲を準備して、5日間にわたり、旅順を総攻撃しました。10月30日、ロシア軍の抵抗が弱まったので、突撃を開始しました。しかし、永久堡塁の外側を攻撃しただけで、逆に猛烈な逆襲を受けました。日本軍は、死傷3830人を出し、第二次総攻撃も失敗しました。
 11月26日、乃木の第三軍は、旅順を総攻撃しても、死傷者を増やすばかりで、敵陣突破は不可能でした。
 11月28日、軍司令部は、旅順港を見下ろせる爾霊山(二○三高地)に集中砲火を浴びせることにしました。
 12月5日、乃木の第三軍は、死傷1万6935人を出して、二○三高地を占領しました。そして、二○三高地より旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始しました。この結果、旅順艦隊の5隻を全滅させました。
 明治38年1月1日午後3時半、旅順要塞司令官ステッセル将軍の降伏文書が届けられました。これを旅順攻略といいます。
 乃木将軍の壮絶な旅順総攻撃は行われた背景には、「明治38年1月中に旅順を陥落させる」という使命があったからです。日本の作戦通り旅順は陥落しました。しかし、理にかなった攻撃でなかったので、膨大な犠牲を払いました。13万の軍隊を投入し、5万9000人の死傷者を出しました。
 乃木希典は西南戦争の時軍旗を失い、旅順攻略でも、他の将軍からその指揮ぶりを非難されました。明治天皇は、乃木の苦衷を察して、学習院長に任命したりしました。
 明治天皇が亡くなった時、乃木希典は、殉死しました。

index