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エピソード

198_03

日露戦争V(血の日曜日事件、日本海海戦、ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件)
 1905(明治38)年1月1日、旅順のロシア軍は、降伏を申し出て、日本軍が入城しました。
 1月16日、ペテルブルクのプチロフ工場でストライキがおこりました。
 1月22日、聖職者のガポンは、数万の民衆を率いてツァーリへ請願行進をしました。それに対し、近衛兵は、民数に発砲し、死傷者を多数出しました。これを血の日曜日事件といいます。
 1月22日、小村寿太郎外相は、駐米公使の高平小五郎に対し、講和問題に関する日本政府の意見をアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトに伝えるように訓令しました。その内容は、次の通りです。
(1)韓国保護権・遼東租借権を確保する。
(2)満州は清国に返還する。
(3)一時休戦にとどまる条件には反対する。
 3月16日、バルチック艦隊は、フランス領マダガスカルに到着しました。
 3月16日、死傷7万28人を出して、奉天を占領しました。これを奉天会戦といいます。
 3月23日、参謀総長山県有朋は、「政戦両略概論」を首相・蔵相・外相に提出しました。その内容は次の通りです。
(1)戦争継続上、兵員・将校の不足を指摘する。
(2)戦争上の困難などを指摘する。
 4月21日、閣議は、講和条件として絶対的必要条件3項目と相対的条件4項目(賠償金・樺太割譲要求)を決定しました。
 5月17日、イギリス外相は、日英同盟を攻守同盟とし、適用地域のインドへの拡張を提議しました。閣議は、これを受諾しました。
 5月27日、日本の連合艦隊は、日本海で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。これが日本海海戦です。
 6月1日、高平小五郎公使は、アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトに日露講和の友誼的斡旋を希望し、アメリカ大統領は日露両国に講和を勧告しました。
 6月8日、アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、日露の交戦国に講和会議の正式招請状を発しました。
 6月27日、ロシア戦艦ポチョムキン号水兵の反乱が起こり、ゼネスト中のオデッサに入港しました。
 7月19日、ロシアのニコライ2世は、ロシアの講和条件を認可し、全権のウィッテはポーツマスに出発しました。
 7月24日、第十三師団は、南樺太に上陸後、北樺太にも上陸しました。
 7月29日、桂太郎首相は、韓国・フィリピン問題につき、来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談しました。これを桂・タフト覚書といいます。
(1)アメリカは、「日本の韓国における指導権を承認する」と約束しました。
(2)日本は、「アメリカのフィリピンにおける指導権を承認する」と約束しました。
 7月31日、ロシア軍は、降伏条件に調印しました。
 8月12日、第二回日英同盟協約に調印しました。
 8月14日、桂太郎首相は、原敬と会談しました。その内容は、次の通りです。
(1)桂太郎は、「講和締結の後、総辞職し、西園寺公望を後継に推薦する」と約束しました。
(2)原敬は、「政友会はいかなる講和条件にも賛成する」と言明しました。
 8月22日、アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、金子堅太郎特使に、「日露講和実現のため日本は金銭的要求を放棄するように」と勧告しました。
 8月28日、御前会議を開き、「賠償金・割地の要求を放棄しても講和を成立させる」という方針を決議しました。
 9月5日、日露講和条約に調印しました。これをポーツマス条約といいます。
(1)ロシアは、日本の韓国の指導権を承認する。
(2)ロシアが経営する東清鉄道(長春以南〜旅順口)と付属利権を得る。
(3)全島要求は拒否され、北緯50度以南の樺太と付属の諸島を得る。
(4)関東州(旅順口・大連)の租借権をえる。
(5)日露漁業協定を結び、沿海州・カムチャッカ半島の漁業権をえる。
(6)110万人を動員し、死傷者20万人を出しながら、賠償金は拒否される。
 9月5日、日比谷で講和反対国民大会を開き、364ヶ所の交番を焼き打ちしました。2000人が検挙され、308人が起訴され、91人が有罪となりました。正しい情報を得ていない悲喜劇です。これを日比谷焼打ち事件といいます。
(1)増税に耐え戦争を支えた国民が条約破棄・戦争継続を求める。
(2)軍隊が出動して、鎮圧されましたが、桂太郎内閣退陣の引き金になりました。
 9月6日、東京市および府下5郡に戒厳令を適用しました。
 10月12日、桂太郎首相は、アメリカの鉄道資本家ハリマンと、南満州鉄道に関する覚書を交換しましたが、小村寿太郎外相の反対で、覚書中止を通告しました。
 10月26日、ペテルブルクに最初の労働者代表ソビエトが成立しました。
 11月17日、第二次日韓協約に調印しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)韓国の対外関係は日本の外務省が処理する。
(2)日本政府代表として京城に統監を設置する。
(3)その結果、朝鮮各地に反日暴動がおこりました。
 12月21日、統監府・理事庁官制を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)韓国京城に統監府、要地に理事庁を設置する。統監は天皇に直隷する。
(2)初代統監に枢密院議長伊藤博文を、枢密院議長に山県有朋を任命する。
 この項は『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
血の日曜日事件、日本海海戦、『戦艦ポチョムキン』など
 明治38年3月16日、日本軍25万とロシア軍32万が奉天で激突しました。ロシアの司令官であるクロパトキンは、ハルビンに敗走しました。日本軍は、奉天を占領しました。これを奉天会戦といいます。この時、日本軍の死傷は25万のうち7万28人、ロシア軍の死傷は32万のうち9万でした。日本軍には、追撃する余裕がなく、ロシア軍に徹底的な打撃を与えることは出来ませんでした。
 明治37年5月、日本の連合艦隊は、旅順港閉塞作戦の最中に、6隻のうち2隻が衝突したりして沈没しました。バルチック艦隊を前に、非常事態でした。 
 10月、ニコライ2世から、バルチック艦隊の司令長官に任命された軍令部長のロジェストヴェンスキー少将は、8隻の艦隊を率いて、リバウ軍港を出発しました。フランス領マダガスカルで合流した40隻1万2000人は、インドシナ半島カムラン湾で休養・補給した後、ベトナムのカムラン湾に着いたのが4月14日でした。
 フランスの総督は、本国の指示に基づいてカムラン湾での停泊を認めませんでした。そこで海上で休息・補給を受け、旅順に向かいました。その時は、「3月中旬頃、旅順に直航するという戦術」は大きく崩れ、乗組員に非常な負担をかけました。一部の軍艦では、健康を害して、士気が鈍り、騒動がおきています。
 その間、日本の陸軍は、予定通り、旅順を攻略したので、旅順港のロシア艦隊5隻を全滅させました。海軍も十分な休養をとることができ、士気はいよいよ盛んでした。 
 明治38年2月21日、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将は、旗艦「三笠」に乗り込み、朝鮮南岸の鎮海湾でバルチック艦隊を想定しての激しい訓練をしました。東郷平八郎がよく言ったのは、「機先を制するは戦いの常法なり」とか「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」という言葉でした。これはスポーツでも通用します。10日間に通常の1年分の練習用砲弾を消費したと言われるほどでした。
 旅順を失ったバルチック艦隊38隻は、ウラジオストック軍港に向かうには、対馬海峡から日本海を通るルートと、太平洋から津軽海峡・宗谷海峡を通るルートがありました。東郷平八郎司令長官は、艦隊を3分割せず、対馬海峡に全艦隊を待機させ、「昼間は主力艦隊、夜は水雷艇隊による連続4昼夜にわたる連続7回の攻撃で撃滅する」戦法を採用しました。
 5月27日午前4時45分、哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」は、「敵ノ艦隊203地点ニ見ユ」と打電しました。
 午前6時、東郷平八郎司令長官は、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス…本日天気晴朗ナレド波高シ」と大本営に打電しました。
 午後1時39分、旗艦「三笠」は、バルチック艦隊を発見し、Z信号旗が掲げ、全艦隊に「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」と呼びかけました。
 午後2時、7000メートルに接近すると、180度の反転(東郷ターン)をして、旗艦「スワロフ」に集中砲火を浴びせて航行不能とし、ロジェストヴェンスキー長官やイグナチウス艦長に重傷を負わせました。ロジェストヴェンスキー長官は、駆逐艦「ブイヌイ」に移乗し、後任の指揮官には、ネボガトフ少将を任命しました。ここに日本海海戦が始まりました。
 午後7時、旗艦「スワロフ」は沈没し、925人が戦死しました。午後7時半には、戦艦「アレクサンドル三世」が転覆して867人が戦死しました。同じ頃、戦艦「ボロジノ」が沈没し865人が戦死しました。
 午後10時には、作戦通り水雷艇が攻撃を行い、戦艦「ナワリン」が魚雷攻撃を受け、700人戦死しました。
 5月28日午前11時、残艦の主力5隻の艦隊は、日本の連合艦隊に包囲されると、戦意なく、降伏しました。
 午後2時、司令官のネボガトフ少将は、旗艦「三笠」に移乗し、降伏文書に調印しました。この結果、ウラジオストクに辿りついたのは、巡洋艦1隻・駆逐艦2隻だけでした。
 東郷平八郎司令長官は、捕虜のロジェストヴェンスキー中将・ネボガトフ少将に対して、軍人としての名誉を重んじ、人道的にも配慮し、のちに「武士道精神」と高く評価されました。
 第二次大戦中の捕虜虐待を聞いている私にとって、この差は何だったのだろうかと不思議です。
 日本の作戦通り、バルチック艦隊が来る前に、旅順を占領し、ウラジオストクに向かうバルチック艦隊を壊滅させました。しかし、大国ロシアにとっては、15ラウンドの中の5ラウンドを終わったに過ぎません。しかし、日本の国力にとっては、5ラウンドが精一杯です。ここで、レフリーフトップがなく、15ラウンドまでいけば、日本はノックアウト負けです。
 この時、作戦とおり、アメリカがストップをかけました。「日本の序盤の勝利」でなく、「日本の勝利」を信ずる人には、このアメリカの行動は理解しがたいでしょう。しかし、「桂・タフト覚書」を見ると、両者の帝国主義的野望が分かります。
  アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、講和を引き受ける条件として、「日本は金銭的な要求を放棄する覚悟があるか」と金子堅太郎特使に念を押しています。そrを受けて、御前会議は、序盤の勝利という有利の立場にありながら、「賠償金・割地の要求を放棄しても講和を成立させる」と決議し、ルーズベルト大統領に伝えました。ロシアが講和を望んだ理由。血の日曜日事件、戦艦ポチョムキン
 ルーズベルト大統領は、ロシア皇帝のニコライ2世に、日本との講和を打診しました。ニコライ2世は、了承しました。大国ロシアがなぜ、この申し入れを承諾したのでしょうか。
 中学時代に見た映画があります。「映画評論家になるんか」と友人に言われていた頃の私です。特に印象に残ったのが『戦艦ポチョムキン』です。監督はエイゼンシュタインです。この映画を京大生の時に見た大島渚は映画監督になりました。同じく東大生の山田洋次も映画監督になりました。少し前では、ケビン=コスナー主演の『アンタッチャブル』でも、『戦艦ポチョムキン』の手法が取り入れられていました。
 1905年1月、聖職者ガポンに率いられた民衆は、パンやミルクを恵んでもらおうと「冬の宮殿」を目ざしました。民衆のざわめきを「虫の音」に感じたニコライ2世は、近衛兵に発砲を命じました。ミルクを恵んでもらおうとした母親は撃たれて、赤ちゃんが乗った乳母車を手離します。乳母車は、階段を下に向かって転げ落ちます。この場面が『アンタッチャブル』で使われています。
 一転映画は、戦艦ポチョムキン号の場面に変わります。腐った肉を出された水兵が暴動をおこすのです。
 1904年8月、第二インターナショナルでロシア代表のプレハーノフは副議長に選ばれており、また、この頃のロシアは全土でストライキがあり、革命前夜の状態でした。ロシア皇帝ニコライ2世が、15ラウンドの戦争には負けてはいないが調停を受け入れたのは、以上のゆな背景があったのです。
軍事費 動員兵力 死者 戦傷者  日清戦争時の比して、日露
戦争の軍費は膨大な額です。
死傷者も比較になりません。
戦争が終わるまでと耐えに耐
えた庶民に賠償金も領土もな
く条約は許せませんでした。
日清戦争 2億0048万円 15万人 1万3488人 7万1400人
日露戦争 15億2321万円 110万人 8万8133人 13万0000人

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