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エピソード

199_01

日露戦争後の国際関係T(第一次日韓協約、第二次日韓協約、第三次日韓協約)
 1896(明治29)年9月、@6第二次松方正義内閣が誕生しました。
 1897(明治30)年10月、朝鮮は、国号を大韓と改称しました。
 1898(明治31)年1月、@7第三次伊藤博文内閣が誕生しました。
 4月25日、西徳二郎外相は、ロシア公使のローゼンと韓国に関する議定書に調印しました。これを西・ローゼン会談といいます。その内容は、次の通りです。
(1)韓国の独立を承認する。
(2)韓国への勧告・助言・顧問の任命などについては、両国は事前に協議する。
 1901(明治34)年6月、@11桂太郎内閣が誕生しました。
 1902(明治35)年1月、日本は、イギリスと日英同盟協約に調印しました。
 1904(明治37)年2月10日、日露戦争が始まりました。
 2月23日、日韓議定書に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)日本は、韓国の皇帝高宗の安全と領土保存にあたり軍事上必要の地点を臨機に収容する。
(2)韓国は、日本の中国をいれて施設を改善する。
(3)これに反する協定を第三国と結ばない。
 8月22日、第一次日韓協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)韓国は、日本政府推薦の財政・外交顧問を任用する。これを顧問政治といいます。内政権を奪いました
(2)外国との条約締結・特権譲与につき日本政府と事前に協議する。
 1905(明治38)年7月29日、桂太郎首相は、韓国・フィリピン問題につき、来日中のアメリカ陸軍長官タフトと会談しました。これを桂・タフト覚書といいます。
(1)アメリカは、「日本の韓国における指導権を承認する」と約束しました。
(2)日本は、「アメリカのフィリピンにおける指導権を承認する」と約束しました。
 8月12日、第二回日英同盟協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)イギリスは、「日本の韓国保護国化を承認する」。
(2)適用範囲をインドまで拡大し、期間は10年とする攻守同盟とする。
 9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)に調印しました。その内容は、ロシアは、「日本の韓国の指導権を承認する」というものです。
 11月17日、第二次日韓協約(乙巳保護条約)に調印しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)韓国の対外関係は日本の外務省が処理する。つまり、外交権を接収して保護国化(外国の朝鮮への干渉を解除するため、条約締結権などを持たせない半主権国)する。外交権を奪いました
(2)日本政府代表として京城に統監を設置する。
(3)その結果、朝鮮各地に反日暴動がおこりました。
 12月21日、統監府・理事庁官制を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)韓国京城に統監府、要地に理事庁を設置する。統監は天皇に直隷、外交権を持ち、内政にも関与する。
(2)初代統監に枢密院議長伊藤博文を、枢密院議長に山県有朋を任命する。
 1906(明治39)年1月、@12西園寺公望内閣が誕生しました。
 2月9日、韓国に駐剳する憲兵は、軍事警察のほか、統監の指揮をうけて行政警察・司法警察を掌る旨を公布しました。
 2月、韓国の王族である閔宗植は、忠清南道で抗日の兵を挙げました。
 5月、韓国の老儒崔益鉉は、全羅北道で抗日の兵を挙げました。以後、このような義兵が相次ぎました。
 5月19日、日韓協約に反対する閔宗植らは、挙兵して洪州城を占領しましたが、日本軍が奪回しました。
 6月12日、日本軍憲兵・警察官は、韓国軍とともに崔益鉉らの反乱を鎮圧しました。
 6月26日、韓国における裁判事務に関する法律を公布しました。その内容は、次の通りです。
(1)理事庁が始審を管理する。
(2)統監府法務院が終審として上訴を管理する。
 8月1日、関東都督府官制を公布しました。都督は、陸軍大将・中将が任じられ、関東州の管轄や満鉄線路の保護・取締りにあたる。その後、都督に陸軍大将の大島義昌が任命されました。
 10月19日、伊藤博文統監は韓国政府と、森林経営に関する協同約款に調印しました。その内容は、鴨緑江・豆満江沿岸の森林は日韓両国政府の共同経営とするです。
 11月10日、清国政府は、駐清公使の林権助に対し、日本政府のみによる満鉄設立は条約違反であると抗議しました。日本政府は、回答を無視しました。
 11月26日、南満州鉄道株式会社満鉄)を設立しました。資本金は2億円で、半額政府が出資しました。初代総裁は後藤新平です。 
 1907(明治40)年6月15日、第二回ハーグ平和会議が開かれました。韓国の皇帝高宗は、この会議に、密使を派遣して日本の侵略を訴えました。これをハーグ密使事件といいます。
 7月3日、伊藤博文統監は、ハーグ平和会議への密使派遣につき、韓国の皇帝高宗の責任を追及しました。
 7月19日、韓国の皇帝高宗は、日本の意を受けた李完用らに譲位を迫られ、譲位の詔勅を発しました。その後、各地に反日暴動が多発しました。
 7月20日、韓国皇帝に純宗が即位しました。時に33歳でした。
 7月24日、伊藤博文統監の要請で、歩兵第12旅団を朝鮮に増派しました。
 7月24日、第三次日韓協約および秘密覚書に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)韓国の内政を統監の指導下におき、日本人を官吏に任命する。
(2)法令を制定する。
(3)高等官吏の任免は統監の承認を必要とする。
(4)秘密覚書の内容は、次の通りです。
 @大審院長・大審院検事総長・各部次官などに日本人を採用する。
 A韓国軍隊を解散する。
 7月30日、第一回日露協約に調印しました。秘密条約で満州に鉄道・電信利権に関する分界線を設置する。
 8月1日、京城で韓国軍隊の解散式が行われました。そのため、義兵運動に身を投じる軍人が増え、以後、反乱は全土に拡大しました。これを義兵運動といいます。
 11月1日、第三次日韓協約により、在韓日本人警察官は、すべて韓国警察官に任命されました。
 1908(明治41)年3月20日、日本政府は、韓国と借款契約を調印しました。施政改善のため5年間に1968万円を支出するというものです。
 3月25日、日本政府が推薦した韓国政府外交顧問のスチーブンスは、サンフランシスコで韓国人に狙撃され、死亡しました。
 7月14日、@13桂太郎内閣が誕生しました。
 8月27日、東洋拓殖株式会社が、京城に、設立されました。その内容は、次の通りです。
(1)半官半民の会社で、朝鮮での土地経営・鉱工業経営を担当しました。
(2)日本の植民地政策の中心機関となります。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしています。
事実は、自虐史観?
 最近(2005年7月)、他の教科書を自虐史観と批判しているグループの教科書が、教育委員会の選択で採用される例が報告されています。私も自虐史観と批判されている日本史の教科書を使って授業をしてきた一人です。
 ここでは、岩波書店の『近代日本史総合年表』を使い、明治31年からの日韓の歴史を忠実に再現しました。日本人が朝鮮人にしたことを史実を通して見ると、帝国主義の時代だったんだと言い聞かせても、とても恥ずかしい。ある意味では、自虐になっています。しかし、この事実を隠して、日本が経済的にしたことのみを知っても、後で、政治的・社会的にしたことを知ったほうが、ショックが大きいでしょう。「臭いものには蓋」では、その場を誤魔化せても、本質的な解決にはならいということを学びました。
 ここでは敢て、次の話を記録します。
 第二次日韓協約に反対する大臣を、日本の軍人は、実力で排除しました。署名した大臣もいます。しかし、朝鮮人は、その大臣を「売国奴」と罵り続けました。
 ハーグ密使事件の時、日本軍によって出席を妨害された李儁は自害して、抗議します。
 韓国軍隊が解散させられた時、第一隊長の朴星煥は、憤って自害します。
 義兵運動で捕まった朝鮮人の多くは、「倭人の食物」を拒否し、餓死を選びました。
 以上の話は、事実かどうかは分かりません。しかし、1900年といえば、今から100年ほど前の話です。直接体験した人はいません。しかし、私は、90歳の母から戦争の話を聞きます。TVで政治家や学者・評論家がいう話より、よっぽど真実味があります。
 それから類推すると、朝鮮人の多くは、「又聞き」かも知れませんが、その実体験は、日本人がいくらどのように修飾し形容しようが、否定できません。
 遠い異国から「遠吠え」するのでなく、文化交流などを通じて、それ以上の実体験を、してもらうしかありませんよ。それにお金とエネルギーを使いませんか。 

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