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エピソード

199_02

日露戦争後の国際関係U(伊藤博文暗殺、日韓併合、朝鮮総督府、関東軍)
 1908(明治41)年7月、@13桂太郎内閣が誕生しました。
 1909(明治42)年6月14日、韓国統監伊藤博文を枢密院議長に、副統監の曾禰荒助を統監に任命しました。
 7月6日、閣議は、適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)憲兵・警察官を増派する。
(2)日本人官吏の権限を拡張する。
 7月26日、韓国中央銀行に関する日韓覚書に調印しました。その内容は、「韓国政府の中央金融機関としての韓国銀行の設置を承認する」というものです。
 10月18日、韓国における犯罪即決令を公布しました。その内容は、「警察署長・分署長に、拘留・科料以下の罪につき即決権を与える」というものです。
 10月26日、ロシア外相と会談のためハルビン駅に到着した伊藤博文(69歳)は韓国人の安重根(31歳)に射殺されました。これを伊藤博文暗殺事件といいまます。
 12月22日、韓国首相の李完用は、刺客に襲われました。
 1910(明治43)年2月14日、旅順地方法院は、伊藤博文暗殺犯人として、韓国人の安重根に死刑を宣告しました。その後、3月26日に安重根の死刑が執行されました。時に32歳でした。
 2月28日、小村寿太郎外相は、在外使臣に対し、韓国併合方針および施設大綱を通報しました。
 5月30日、陸軍大臣の寺内正毅は、韓国統監との兼務を任命されました。
 6月3日、閣議は、併合後の韓国に対する施政方針を決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)憲法は施行しない。
(2)いっさいの政務を統括する総督を設置する。
 7月4日、第二回日露協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)満州の現状維持と鉄道に関しては相互に協力する。
(2)秘密協約で第一回協約の利権分界線をもって特殊利益地域を分ける。
 8月16日、寺内正毅統監は、韓国首相の李完用に日韓併合に関する覚書を交付しました。
 8月22日、韓国併合に関する日韓条約に調印しました。これを日韓併合条約といいます。
 8月24日、在外使臣は、各国政府に韓国併合条約ならびに宣言を通告しました。
 8月29日、韓国王室を皇族の礼をもって遇する詔書を下しました。
 8月29日、韓国の国号を朝鮮と改称し、漢城を改称した京城に、朝鮮総督府を設置しました。当分の間、統監府も併置しました。
 8月29日、朝鮮に施行すべき法令に関する件を公布しました。その内容は、「法律を要する事項を総督の命令で規定することを認める」というものです。
 9月12日、韓国統監府は、朝鮮の全政治結社を解散させる方針により、一進会に解散を命じ、解散費15万円を支給しました。
 9月30日、「総督は陸海軍大将とし他に政務統監を設置する」という朝鮮総督府官制を公布しました。
 9月30日、「総督の諮問機関で、議長は政務統監」という朝鮮中枢院官制を公布しました。
 9月30日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制を公布しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮における土地調査事業を本格的に開始する。
(2)その結果、全朝鮮に土地私有制が確立しました。
 10月1日、三代目の韓国統監である寺内正毅初代朝鮮総督に任命しました。寺内正毅は陸軍大臣も兼任します。
 12月29日、朝鮮総督府は、会社令を制定しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮における会社設立には、朝鮮総督府の許可制とする。
(2)その結果、朝鮮人が企業を起こすには、不利となりました。
 1911(明治44)年4月17日、朝鮮総督府は、土地収用令を制定しました。その内容・結果は、次の通りです。
(1)朝鮮総督府が実施した土地所有権の限定作業を行う。
(2)所属不明の土地を国有地として没収し、日本人の地主・土地会社へ払い下げる。
(3)その結果、朝鮮人農民は土地を失い、没落していきました。
 6月、朝鮮総督暗殺計画が発覚し、アメリカ人宣教師との関係が問題となりました。これを宣川事件といいます。
 7月13日、第三回日英同盟協約に調印しました。その内容は、「アメリカを協約の対象から除く」というものです。
 8月30日、@14西園寺公望内閣が誕生しました。
 1912(明治45)年7月8日、第三回日露協約に調印しました。その内容は、次の通りです。
(1)秘密協定のみを改定する。
(2)特殊利益地域の分界線を内蒙古まで延長し、東側を日本、西側をロシアとする。
 12月、@15桂太郎内閣が誕生しました。
 1913(大正2)年2月20日、@16山本権兵衛内閣が誕生しました。
 1914(大正3)年4月16日、@17大隈重信内閣が誕生しました。
 7月28日、第一次世界大戦が始まりました。
 1916(大正5)年7月4日、第四回日露協約に調印しました。その内容は、秘密協定で「中国が第三国の政事的掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行う」というものです。
 10月9日、@18寺内正毅内閣が誕生しました。
 1917(大正6)年11月、ロシア10月革命がおきました。
 1918(大正7)年8月2日、政府は、シベリア出兵を宣言しました。
 8月3日、米騒動がおきました。
 9月29日、@19原敬内閣が誕生しました。
 11月28日、皇室典範増補を公布しました。その内容は、「皇族女子は王族または公族に嫁し得る」です。
 12月5日、梨本宮方子女王の李王世子銀との結婚に勅許が下りました。
 1919(大正8)年1月18日、パリ講和会議が開かれました。
 3月1日、京城・平壌などで朝鮮独立宣言が発表されました。示威運動は朝鮮全土に拡大しました。これを3.1運動とか万歳事件といいます。
 4月8日、陸軍省は、朝鮮の騒擾を鎮圧するため、内地より6個大隊と憲兵400人を増派すると発表しました。
 4月10日、朝鮮の民族主義者は、上海に大韓民国臨時政府を樹立し、国務総理に李承晩を選びました。
 4月12日、関東庁官制・関東軍司令部条例を公示しました。その内容は、次の通りです。
(1)関東都督府を廃止して、関東庁を設置しました。初代関東長官に林権助を任命する。
(2)関東都督府の民政部を独立させ、関東州の行政を担当させる。
(3)関東州と満鉄の警備に、都督府の陸軍部を独立させ、関東軍を設置する。関東軍司令官に立花小一郎を任命する。司令部は旅順に置き、兵力は1個師団1万人とする。
 4月12日、満鉄社長に野村竜太郎、副社長に中西清一を任命しました。
 4月15日、朝鮮総督府は、政治に関する犯罪処罰の件を制定しました。その内容は、「政治変革をめざす大衆行動とその扇動と厳罰に処する」というものです。
10  5月5日、間島日本領事館は、朝鮮人の放火により一部を焼失しました。
 6月4日、朝鮮竜山で第20師団開庁式が行われ、常備師団21個師団となりました。
 6月28日、ベルサイユ講和条約が調印されました。
 8月12日、海軍大将斉藤実を朝鮮総督に任命し、現役に復帰させました。水野錬太郎を朝鮮総督府政務総監に任命しました。
 9月2日、朝鮮総督の斉藤実は、京城南大門駅で爆弾を投ぜられたが、無事でした。その後、犯人羌宇奎を逮捕して、処刑しました。
 この項は、『近代日本史総合年表』などを参考にしました。
安重根の特集です。これも自虐?
 今回も岩波書店の『近代日本史総合年表』を中心に明治42年から大正8年までの日韓関係史の詳細を調べてみました。日本では伊藤博文を明治の元勲とし、暗殺されたとき、国葬されました。他方、朝鮮人・韓国人は、伊藤博文を暗殺した安重根をどう見ているのでしょうか。それを調べてみました。
 安重根は、クリスチャンで、抗日義兵闘争のメンバーでした。その決意を示すために、彼は、同志と共に薬指を切って、韓国の国旗である太極旗に血盟したといいます。
 明治42年10月26日、伊藤博文前統監がロシアのココフツォフ蔵相と会談するためハルビン駅に降りました。その時、安重根は、ピストル6発を発射し、そのうち3発が命中しました。安重根は、その場でロシアの警察官に逮捕されました。
 明治43年2月14日、安重根は、旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受けました。
 3月26日、旅順刑務所で絞首刑に処せられました。判決後、41日で処刑されたことになります。
 この前後のこと記述している日韓の歴史教科書を調べてみました。
(1)『国定韓国高等学校歴史教科書』は、次のように記述しています。
 「義兵はソウル駐在各国領事館に、義兵を国際法上の交戦団体として承認 してくれることを要求する書信を発送して、自ら独立軍であることを主張した。そして洪範図と李範充が指揮する間島と沿海州一帯の義兵部隊が国内侵攻作戦を計画し、 義兵として活躍していた安重根は満州ハルピン駅で韓国侵略の元凶である伊藤博文を処断した」
(2)『詳説日本史B』(山川出版社)は、次のように記述しています。
 「日本政府は、1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが、そのさなかに前統監の伊藤博文が、ハルビン駅頭で韓国の青年民族運動家安重根に暗殺される事件がおこった」
 安重根を韓国人・朝鮮人はどう扱っているのでしょうか。
 ソウル市にある南山公園に安重根義士紀念館があります。設立の目的を「国の独立運動家の中の一人である安重根義士の精神を讃えるためにたてられた」としており、安重根を「愛国義士大韓義軍参謀中将」と紹介しています。
 韓国の各地に安重根の銅像があり、韓国人は彼を「抗日闘争の英雄」とか「義士」として評価しています。
 一部に、「韓国併合の反対者であった伊藤博文の暗殺は、逆に韓国併合を実現させた」として、安重根をあまり評価しない意見もあります。しかし、実際は、明治42年6月、韓国統監の伊藤博文を枢密院議長に祭り上げます。そして、7月には、閣議は「韓国併合を断行する方針」を決定しています。伊藤博文暗殺の3ヶ月前です。
 昨年(2004年)9月の『朝鮮日報』が珍しいニュースを配信しました。
 日本でも活躍して、人気のある「BoA」さんらが、ソウル劇場で、試写会に先立ち、安重根義士記念事業会に5000万ウォン(日本円の500万円)寄付して、「映画『多黙安重根』を観て少しでも愛国心を持ってくれたらと思う」と語ったとありました。
 その記事を引用して、日本の日刊スポーツが「歌手のBoA(17、韓国)が、伊藤博文を暗殺した安重根を題材とした韓国映画『多黙安重根』のプロモーション活動を行う」という記事にしました。
 日刊スポーツの記事を知った『朝鮮日報』は、「安重根義士に対して同紙(日刊スポーツ)が否定的イメージの"暗殺犯"という言葉を使って報道したのは、BoAの今回の映画PRと巨額の寄付が日本では好ましく思われていないということを示している」 と報じています。
 いくら日本に自虐的であって、抹殺したい気持ちも分かります。しかし、若い韓国人・朝鮮人が、口コミで語る内容は重いです。次世代、次世代に語り継がれるのです。ホームページをみれば、韓国の新聞は日本語でどんどんPR活動をしています。「臭いものには蓋」は、通用しないのです。
 こうした事実を受け止め、過ちは素直に謝り、負のエネルギーを今後の友好に活かすことです。
 示唆に富む記事がありました。筆者は日本国際問題研究所のロバート・ドゥジャリクさんです。
 「ドイツは半世紀以上もの間、謝罪し、賠償金を支払い、そして近隣諸国を脅かすような戦争にかかわる政府の活動を禁止し統けている
 この結果、より強大になり、ナチに殺害された国民の遺骨が無数に埋まるポーランドや、ガス室で死んだ親類が数多くいるイスラエルでも高い評価を受ける国となった。
 レバノンでイスラエル人が誘拐された時、イスラエルはドイツに解放交渉を依頼した。ナチが残虐の限りを尽くした旧ユーゴスラビアでもドイツ軍兵土は歓迎され、ドイツの外交官は米国における自国の国益に役に立つ在米ユダヤ人組織との建設的関係を築き上げている。
 日本も合理的な分析に基づいた政策をとれば、アジア、そして世界における地位を強化することができるだろう」
(『朝日新聞』2005年7月30日付け)

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